Jean Sibelius

しかし、先週後半は札幌、土日挟んで福岡、そして昨日はビッグサイト、と、北から南へと飛び回って情報収集活動をしてきまして、さらに決裁通したりと、割と痺れる毎日でしたので、何を聞こうかな、と思って思いついたのがこちら。

こういうときに聴くシベリウスは最高です。心が休まることこのうえありません。

隙間時間でも、なんでもできる時代になりまして、最近一番生産性が高いのは、歩きながらの音声入力になってしまいました。時代はガラガラと崩れて、また組み上がっているように思いますが、そんな時こそ、ときには、トラディショナルなものに戻るのも良いでしょうか。まあ、シベリウスもたかだか100年ぐらい前のものですけれど。

最近は、古ければ古いほど、残っているものは価値があるもの、と思うようになりましたし、自分に直接関係ないものに何が埋まっているようにも思いました。

そんな感じです。

最近、このブログも穴が空いたので、当時の記録から穴を埋めて行こうと思います。

それでは。

Jean Sibelius

GPTに、心を休めるための曲を教えて、と聞いたところ、シベリウスとアアルヴォ・ペルトを勧めてもらいましたが、今回はシベリウスを聞くことにしました。

Apple Musicで調べると、なるほど、ラトルが全集を出しているんですね。

https://amzn.to/40jm9Ot

ということで、シベリウスの交響曲をエンドレスリピートで聞いています。

割と心が休まるな、と言いながら、フィンランド国民楽派である、ということも忘れてはならないことです。国際情勢が大きく動いているなかでは、歴史が巻き戻る、いや、そもそも歴史は繰り返すものだな、ということをあらためて思います。

絵は、GPTにかいてもらいました。ノーマン・ロックウェル風に、20世紀のフィンランドの歴史とジャン・シベリウス、というお題。独立と冬戦争が見てとれます。

それでは。

Jean Sibelius


今日もシベリウスです。なんともかんとも、こんな時期(バイロイトシーズン)に、シベリウスが私の頭の中に席巻するとは、想像だにしませんでした。
今日は、もう冒頭部のイメージから交響曲第二番をむさぼるように欲した一日でした。
この曲聞くと、のっけから、私の頭の中にこんな情景が形成されます。
おそらくは深いグレーの湖面をもつ大きな湖。風が少し吹いていて、湖岸に弱い波が打ち寄せる。鳥の鳴き声、小鳥が飛び交い、小動物たちが動き回っている。遠く青い稜線は白い残雪に覆われている。そこに現れたる若者。なにかしら深い哀しみを持っているような感じ。ジークムントかも知れない。
第一楽章はおそらくはソナタ形式で、展開部がかなり大きく曲調が変わります。提示部の牧歌的というか叙情的な表現が、短和音に支えられた切迫感。フーガが登場するので、そうした切迫感や逃亡感が強まります。このあたりの弦楽器の鳴らし方はとても巧い。ベルグルントってすごい。
第二楽章。シベリウスの音楽は、さまざまな断片的な旋律が何枚も何枚も重ねられそれを一枚はがしてみたり、二枚重ねてみたり、ちょっとずらしてみたり、という具合に曲が進行しています。何かひとつの大きなテーマがあって、それを変奏していくというタイプではないように思います。極めて多様な旋律が登場しますので、旋律を覚えたときのうれしさは格別です。
最終楽章は、実に美しく明るい伸びやかな旋律で始まりますので、これでいよいよハッピーエンドか、と思わせるのですが、最後は先日書いたようにDSCHの「レニングラード」ばりの執拗なまでの短和音フレーズの繰り返しで、ああ、もう耐えられません、と悶えたときにようやく、長和音で解決。それから、また最初の旋律に逆戻り。それから、また身もだえ。忙しすぎる。これは、おそらくは民族開放的な意味があるに違いない。
フィンランドの歴史も勉強せんといかんなあ。他の指揮者のシベリウスも聴いていきたい。
さて、近況。やっと一週間が終わりましたが、土日の方が忙しいですねえ。でも、忙しい方が好きみたい。回っている独楽は倒れません。明日も都心に出たり、地元で仕事したり。あと楽しみなのは、地元の夏祭りです。毎年ジャズバンドが出ますので、生演奏を楽しんでおります。今年はこれまでとは違うバンドが出るみたいですので、楽しみ。スタンダードをたくさん聴けそうな予感。