<泉:■黄色い場所からの挿話 VIII>
ある生涯の七つの場所について、少しずつ書いていこうと思います。本当は最初から書き始めるのがよいのでしょうが、僕の好きな「夏の海の色」から始めてみようと思います。
この掌編では水の描写を楽しむことができます。たとえばこんな冒頭部分など。
泉は村の広場の真ん中にあって、石に彫られた獅子の口から勢よく迸る水はきらきら光る弧を描きながら、浅い水盤の上に落ちていた。水盤を溢れた水は、もう一段下の水槽に、薄い簾状の滝になって、音をたてながら流れていた
辻邦生「泉」『夏の海の色』中公文庫、1992年、11頁
水盤を溢れて、簾状に落ちてゆく水は、水と言うより、硬質の滑らかなガラスのような感じで、とくに水盤の縁をまるく、しなやかに越えていく透明な脹らみは美しかった。
辻邦生「泉」『夏の海の色』中公文庫、1992年、13頁
ただ感嘆のみ…。
エマニュエルと「私」のことは、これからどうなるかを知っているだけに、複雑な気分。エマニュエルは本当に強い女性だと思います。そして、エマニュエルを産み出した辻邦生の「物語り」に深い驚きを覚えてしまうのです。物語作家は、ある種文中人物に憑依されて、文章を書いているのではないか、と思います。
この事件にもやはりスペイン内戦の暗い翳りが感じられるのです。おいおい読み進めていくことで明らかになってきます。
───これから読む方はここから先は読まない方が良いかと存じます───
あらすじ
アルプスの麓、夏の休暇にチロル地方の小さな村で暑さを避けているエマニュエルと「私」。ゆっくりとした時間でエマニュエルは論文の準備をする。
「ゆっくり時間のあった時代の仕事さ」
「いいえ、ここには、いまも、ゆっくりした時間があるわ」
「そうかもしれない。ここに来てから、まるで時間が過ぎてゆかないものね」
辻邦生「泉」『夏の海の色』中公文庫、1992年、12頁
その村の泉にまつわる奇怪な出来事。人間の手首が切られて泉の中にうち捨てられていたというのだ。ひまわりの花もたくさん浮かべられていたのだという。その手首の持ち主は、マルティン・コップと言うのだそうだ。私とエマニュエルは推理を始めるが、もちろん妥当な結論に至ることはできない。
エマニュエルが論文を提出したあと、「私」はエマニュエルと実はきちんとした関係(結婚と解釈するのが妥当だろう)をしたかったのだが、エマニュエルはそれを拒むのだった。
しかしエマニュエルはそうした危険を感じながら、日々新たに情念を確かめる生活でなければ、男女がともに暮らす理由はないと考えているのだった。
「それは人間を過信した傲慢な態度じゃないだろうか」
(中略)
「過信?」エマニュエルはそういうときのつねで、頬のあたりがほっそり窪んだ感じの顔を俯けて言った。「私はそうは思わないわ。むしろそのことだけは、もっと信じたいと思うわ」
「しかしまるでむき出しに風の中に晒されているようなものじゃないかな」
「それに疲れて、駄目になったら、私ね、悲しいと思うけれど、安全地帯にいて、惰性的な形を保った方が良かったとは言わないと思うわ」
辻邦生「泉」『夏の海の色』中公文庫、1992年、32頁
クリスマス休暇に入ると、エマニュエルと「私」は別々に休暇を過ごすことになった。「私」は日本人の友人とともに北フランスの小さな村で過ごすことになった。そこで出会ったニコラの家に招かれる。旧式の複葉機と男が映った写真を見つける。ニコラの父親だという。スペイン市民戦争に人民戦線側について参戦したのだという。人民戦線が敗れたのち、飛行機に乗って脱出しようとしたのだが、相棒の男に飛行機を奪われ、果てに指を切られてしまったのだという。ニコラの父親はひまわり畑のなかを自分の切断された指を探し回ったのだという。ニコラが指のことを聴くと、ひどく機嫌が悪くなったのだそうだ。「私」は、あのチロルの村での奇怪な出来事を思い出し、ニコラの父親がマルティン・コップを殺めたのではないかと推理する。エマニュエルに手紙を出す「私」。エマニュエルから返事が届く。
「私は世の中に恐ろしい偶然があり、符号があることを認めています。それでも、なぜか、それを信じてはいけないような気がするんです。その理由はいろいろありましょう。その中で有力な理由は、私が運命の力を最小のものに見なしたいと思っていることかもしれません。私が偶然の力を過小評価しなければならないと考えているからかもしれません」
辻邦生「泉」『夏の海の色』中公文庫、1992年、40頁