J.S.Bach

世界が変わりゆく昨今、書くこともままならない日々が続いている感じがします。仕事柄、頭も心もデジタル。

そんな中で、先の週末にとある知り合いの音楽発表会に出かけました。そこで効いたのが、小学生が弾くバッハのシャコンヌ。パルティータ№2のあれ、です。

いやー、もちろん、演奏はそういうもんなんですが、その中に、深遠なバッハの世界が顕現していまして、その先にあるイデアールなものを見た気がしました。どんな演奏であっても、バッハはバッハであり、音楽は音楽だなあ、と思いました。

シャコンヌは、短いコード進行の変奏で、パッサカリアと同類なのですが、しらべてみると、新大陸とも関係する舞曲形式なんですね。わたしは、演奏を聴きながら、ブラームスの交響曲第4番を思い出していました。

しかし、あれですね、この曲全く知らない方は、結構つらかったんだろうなあ、とおもったり。このシャコンヌの構築美、それは、なにか、カタルーニャ美術館のような,何か少し異形で先鋭的な美しさ、グレコの絵画のような感覚を得るのですが、それを、何も知らず、かつ小学生の演奏で聴くというのは、なかなか大変だろうなあ、なんてことを思いながら、15分間、自らのバッハ経験をなぞりながら、演奏を聴き続けたのでした。

復習はヒラリー・ハーン。
バッハの無伴奏パルティータといえば、20年前に千住真理子さんの全曲演奏を青葉台に聴きに行ったなあ、ということを思い出しました。演奏会が終わったあと、近くのお店で千住さんを目撃したのを思い出したり。。

私は、世界の真実は、やはり芸術において現れると思ってます(菅総理大臣風)。政治や経済、戦争も確かに、生死に関わる問題として,世界の本質を占めているようにおもいますが、実のところ、それは流れゆく皮相なものでしかなく、普遍であり、かつ不変であるものが、芸術でなんでしょう。もちろん、その不変と普遍をかたるものが、宗教であり哲学なのかもしれませんが、それを、直接的に魂にアクセスするのが芸術なんだろう、と思います。これは、宗教の言説や、哲学論文においてなせるものではないのでしょう。この、直接魂にアクセスする、というのが、デュオニソス的ということなんだとも思います。

憂うことなく、ただただ、飴色の太陽の光を浴びて、バッハを聴き狂う日がきっと来る、と思いながら、そろそろ休もうと思います。

それではみなさま、おやすみなさい、グーテナハトです。

Miscellaneous

 

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なんだか、人間性をかなぐり捨てて、仕事をする毎日。今日は、久々に早めに帰宅しました。さすがに疲労にはあらがえない。。。

学生時代は、「人間学」という授業が必須だったこともあり、人間性=ヒューマニズムという言葉がこの10年ほど、潜在的なキーワードになっていますが、久々に辻邦生全集を手に取ったときに、なにかこんも数年間巧く触れることのできなかったものに改めて再会した気がします。還るべき場所の匂いをかすかに感じたような気さえします。

昔のことを思い出すことは時に嬉しく、時に哀しく、時に辛いものではありますが、最近は、幼き頃のことを思い出すことに、痛切な想いを感じることがあります。すでに時間的に隔絶した場所に郷愁を感じることは、戻らぬ時の不可逆な残酷を感じるものです。あの日々に嗅いだ空気や、用水路の風情、ポプラ並木の青々と茂る感じはすでに喪われ、記憶というケースの奥深くにしまい込まれているわけで、それは、おそらくは思い起こすときに時間や空間の隔絶を超克したものではありながらも、現実世界にはもはや存在しないという冷厳たる事実があるわけです。

もはや、記憶と現実は平坦になっているわけで、だとすると、想念と記憶だけがこのせかいではないか、戸さえも思ってしまったり。いや、むしろそちらの方が真実ではないか、ともおもいながら、とはいえ、物理的な身体の疲労や経年に伴う様々な相違というものは、やはり無視しがたいもので、想念と記憶と現実は、どれが正しいと言うより、どれも正しいという三位一体なのか、ということを考えたりしています。

そんな世迷い言を気にすることなく、東京地方には春が訪れたようで、この週末は写真のように青々とした空に、春の柔らかく暖かい日差しが沸き立ち溢れていて、こうやって波のように季節は巡り、あるいは、寒さも暖かさも、波打つように、日常に流れ込み、私が楽しみにしている夏至と、あるいはその先の、盛夏へといたるのだろうなあ、と思います。

自然の回転と揺れ動く波を感じて、ただひたすらに、その場その場に打ち込むという日々が訪れることのを待ちたいと思います。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。