昨日は、少し早いですが近所の桜の名所へ。ですが、桜はほとんど咲いておりません。一分咲きがいいところです。とはいえ、お花見に興じているグループが結構いらっしゃいました。すこし羨ましかったです。
とはいえ、近寄ると随分と美しく咲いている花もありました。
今日は別の場所でエドヒガンを発見。こちらは満開。
桜といえば西行。西行といえば辻邦生「西行花伝」ですね。
「西行花伝」、実は一度しか読んでいません。おそらくは1999年ごろかと。「背教者ユリアヌス」、「春の体感」、「フーシェ革命暦」にならぶ辻邦生作品を連なる巨大な山脈の一つなのですが。
仏には桜の花をたてまつれ わが後の世を人とぶらはば
辻邦生の「西行花伝」の最後に言及される西行の歌です。
自分の死後、仏となった自分には桜の花を供えてほしい。もしそういう人がいるのならば、という意味だそうです。
桜の花を愛した西行の心持ちなのですが、死後の魂の有無を考えさせられます。
唯物論的には、人間とは考える主体ですから、主体が無くなれば世界認識もなくなります。世界は存在しなくなるわけですが、おそらくは厳然として世界は続くでしょう。ですが、「私」たちは、そんなことはわからないわけです。ですが、実際にはその先には何があるのか。
散りゆく桜の花に、そうした生の無常、あるいは生の新たな展開を想像してしまいました。
明日もまた暖かい1日のようです。春爛漫。新たな季節は、新たに年輪を刻む時でもありましょう。
では、みなさまおやすみなさい。グーテナハト。