Giuseppe Verdi

なかなか時間がある取れない最近です。いろいろなことに身動きが取れず、毎日もがいています。さすがにロボットではないので、スイッチを切る時間も必要。睡眠不足は朝の通勤電車で補い、帰宅後の90分はメンテナンスで消えていきます。

昨夜、夜中に起きて書く時間を作っている感じ。腹痛が酷く、起き上がってしまいました。昨日は久々に法定公休で、新宿を一人で少し歩きましたが、嬉し過ぎて無理をしたようです。

ところで、先日、仕事場のそばの陸橋を歩いていると、ビルからビルへと飛び伝う鳥を見ました。黒く大きめの鳥でしたので、おそらくはカラスでしょう。ですが、なにかその鳥が猛禽類のように思え、ビルを伝いながら、獲物を狙っているように思ったのです。おそらく、ニューヨークだったか、高層ビル郡にに住み着いたハヤブサがいる、というニュースを数十年前に見た記憶があって、その連想でしょう。土地に縛られずに飛び回る猛禽類の逞しさ。

昨日、新宿を歩きながら、何も縛られず街を歩く幸福感を感じました。これが猛禽類の気分? いや、獲物を狙わないだけ違うな、などと思ったり。多摩動物園の猛禽類は広いゲージで安全に飼われていましたが、天井のない空に舞う猛禽類は、本性のままだな、と勝手な想像をしました。

今日はこちら。

ティーレマンがドレスデンで振ったヴェルディのレクイエム。この劇的なレクイエムは初めて聴いたときには衝撃でした。《オテロ》以降のヴェルディの複雑で劇的な響きが心地よいです。AppleMusicのプレイリストで知った音源ですが、重みと厚みがありながら流れもあり、なかなか良い音源です。同じメンバーで《オテロ》を聴いてみたい、と思いました。

明日もかけるか、どうか。

おやすみなさい。グーテナハトです。

2014/2015シーズン,Giuseppe Verdi,Miscellaneous,NNTT:新国立劇場

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先日の新国立劇場《椿姫》について。書きたいことがタスク台帳に残っていましたので、忘れないうちに書かないと。。

ヴェルディらしい楽しさがありましたが、やはり、台本はかなり無理をして刈り込んでいるのですね。第二幕の最初のところ、ヴィオレッタが宝飾品を売り払っている、ということに気づいたアルフレードは、張り裂けるように自分の未熟さを恥じ入り、パリへと向かいます。

この部分の劇の長さがバランスがおかしいほどに短いのです。

特に今回の新国立劇場の演出だと、あれあれあれ、という間にアルフレードが激昂して去っていき、そのあと、ヴィオレッタがすかさず登場、という感じで、なんだか紙芝居のような展開の早さでした。

オペラ化するにあたっては、台本を大きく省略することは多いですので、まあ、当たり前といえば当たり前なのです。

あとは、今回の演出ですと、ジェルモンの登場もかなりスピード感がありました。

それにしても、最近の新国立劇場の歌手の皆さんは安定しています。昔は、なんだかこのあとはずさないか、と心配になってしまうようなこともあったのですが、この数年は、そうした不安のようなものもなく、自然体で集中して見ることができるように思います。本当にすばらしい劇場になってきたんだなあ、と思います。

開場して17年。私が初めて観に行ったのが2002年ですので、あれから13年がたちますが、どんどん成熟しているような気がしてなりません。

今週末の《ばらの騎士》も期待ばかり、です。

では、とりいそぎおやすみなさい。グーテナハトです。

2014/2015シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera


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久々の新国立劇場でした。今回の《椿姫》は新しい演出でした。これまでのオーソッドックスな演出から、時代を意識しながらも新しい要素を取り入れた演出でした。

演出について印象にのこっていることをいくつかかいてみます。

舞台

舞台には、左側の袖から舞台中央に向かって巨大な鏡面の壁となっており、右側の袖から中央に向けて、舞台背景が描かれた壁面が設えられていました。ですので、舞台はV字型になっているような状況です。

鏡がありますので、奥行きがあるようにおもえます。合唱が入ってくる場面だと、実際の人数よりも多く見えますし、照明の反射光がさまざまな模様を壁に投げかけていて、たとえば合唱が歌っているシーンでは、壁に合唱の方々の影がうつりこんで、幻想的な雰囲気を醸し出していたように思います。

第二幕の背景

特に、第二幕では、パラソルが虚空に浮かんでいて、壁の模様は鳥が列になって飛んでいるシーンが描かれていたところは幻想的でした。列に鳴って飛ぶ鳥は、まるで乱視でみたかのように、ダブって見えるような描かれ方がされていて、それがなにか立体感を持つように見えたのもなかなか興味深いものでした。

グランドピアノ、衣装

全ての幕において、茶色い古いグランドピアノが使われていて、あるときはテーブルであり、あるときはヴィオレッタが横たわるベッドだったり、と活躍していました。

衣装はオーソドクスな19世紀風なものでした。女性の衣装はずいぶんと美しく、特に第二幕第二場のフローラの衣装は、レース編みのような細かい花の飾りが美しく、ないかアール・ヌーヴォー風でもあり、アートアンドクラフト的でもあり、という風に思いました。

幕?膜?

それからもっとも効果的だったのは、膜というか幕というか、薄地のカーテンが第一幕の冒頭と、ヴィオレッタ病床の場面で使われていたことです。

特に病床の場面では、ヴィオレッタの横たわるピアノと、アルフレードやジェルモンの間に、天井から垂れ下がる薄地のカーテンがあって、手を触れたり、手を握ろうとしても、その薄地のカーテン越しになってしまうわけです。

すでに、ヴィオレッタとアルフレード達の間にはなにかしらの壁がある、ということを示しているもので、その壁というのが、たとえば、ヴィオレッタの朦朧とした意識が創り出すもの、ということも言えるでしょうし、ヴィオレッタが臨死体験に際して現実と乖離している、ともとれますし、あるいは死を前にしたヴィオレッタの人間性と、世間一般の人間性の壁、というようにもとれるわけで、なかなか興味深い仕掛けだったと思います。

自由の女神

第三幕の最後のシーン、舞台と客席の間には、巨大な円形の穴があいた壁があって、上部だけ劇場の赤いカーテンのような絵が描かれています。第三幕の演技は円形の穴ごしに見えるようになっています。

ヴィオレッタの最期のシーンで、一瞬、病気が回復したかのような錯覚を覚えてから、息を引き取るシーンで、ヴィオレッタは円形の枠を乗り越えて客席側に来て、赤い布地を右手に掲げて立ったまま幕切れ、となります。

このポーズが、私には自由の女神のようにみえて、ああ、ヴィオレッタは死んでやっと自由になったのか、などと思いました。

枠を乗り越えて客席側に来るというのも、なにか死に際して三途の川のような境界をこえた、とも思えますし、あるいは当時の抑圧された状況から、比較的自由になった現代へヴィオレッタが到達した、というふうにもとれ、いわゆる「第四の壁」のようなものを意識させる演出だったように思います。

おわりに

写真なく書くのはなかなか難しいです。ご覧になった方にはわかっていただけるのかもしれませんのであえて書いてみます。

オペラの楽しみのひとつは、現代においては演出家の意図をあれやこれやと想像することにあると思います。これまでもいろいろと妄想しましたが、今回もずいぶんと頭の体操になりました。

それでは取り急ぎグーテナハトです。

2014/2015シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

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引き続き、先日の新国立劇場《ドン・カルロ》について。今から思っても本当に興味深いドラマでした。

登場人物の一人、宗教裁判長。彼は、王に意見することができるほどの権力の持ち主です。

王と聖職者の関係は、ドイツ国防軍やソ連における指揮官と政治将校、かつての日本における校長と配属将校の関係に似てます。指揮権とは別系統の指揮権が存在するという状況ですから。

フーコーの概念に司牧者権力というものがあります。他者の幸福を目的とするかのように振舞いますが、実際には教会の支配の原理を維持することが目的である、というものです。観ながらそのことばかり思い出していました。妻屋さん演ずる宗教裁判長はまさにそのように見えるもの。年老いて、杖を付きながらも、磔刑像を権力の象徴のように持ち歩いていました。

これは、確かにカトリックへのある種の抵抗のようなものがあるのかもしれません。19世紀以降の市民革命の時代に会って、旧態依然としたカトリシズムへの反抗のようなものは少なからなずあったでしょうから。

それに加えて、この《ドン・カルロ》が作曲された時代というものを考える必要があります。

これには、イタリア王国とローマ教皇の対立が背景にあるのもあるでしょう。作曲されたのは1865年から1866年にかけて、とされています。ちょうど、イタリア統一運動の中に会って、ローマの領有をめぐって、教皇とイタリア王が鍔迫り合いをしていた頃です。1864年12月8日(まさに今日ですね)には誤謬表というものが教皇によって発布されました。これは自由主義は誤っているという詔勅だったわけで、批判や議論が巻き起こったようです。

こうした、イタリアにおける王国と教皇の対立も、この《ドン・カルロ》のドラマになにかしらの影響を与えていると考えるとなにか首肯できるものがあります。

がゆえに、《ドン・カルロ》の初演で、ナポレオン三世の后であるウジェニー皇后は席を立ったのかもしれません。wikiにはウジェニーはカトリックだったので、ということになっていますが、私の勝手な想像では、教皇領をめぐってフランスとイタリアは対立状況にあったので、そういうことも背景にあったのではないかと思っています。教皇領を守っていたのはフランス軍でしたし。

もちろん、この手の、ヴェルディと政治運動の関連性に安易に飛びつくことの危険性も指摘しておきたいとおもいます。あの、Verdi = ヴィットリオ・エマヌエーレ万歳!という都市伝説のような胡散臭さというものは常につきまといますから。その辺りは以下のリンク先の記事をどうぞ。

https://museum.projectmnh.com/2013/05/18235903.php
https://museum.projectmnh.com/2013/05/19105240.php

というわけで、取り急ぎグーテナハト。

2014/2015シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

霜柱ゲット。

今朝は冷え込みました。本日撮影した霜柱です。

高校のころ、冬場にグラウンドに霜柱ができまくって、部活の練習ができず困っていたようです。朝方に立った霜柱は夕方には泥濘となりますから。

で、体育の時間に、霜予防の薬剤をまるまる一時間グラウンドに散布しました。それも何週間も何週間も。本当はバスケットをやる時間だったんですが。四回目ぐらい、さすがに生徒はキレてましたね。一回ならいいが、四回連続で部活のために体育の時間で作業をさせるのは何事だ、と。

まあ、世の中そういうものです。

カトリシズムの話の前に一つだけ。フェリペ2世の父親は、いわゆるカール5世です。ハプスブルク家最大版図を築いた王。それも戦争ではなく婚姻で、というやつです。高校時代にかじったポール・ケネディ「大国の興亡」の冒頭がカール5世だったんですが、予備知識なくして読めるわけもなく。その後高校で世界史を学んでいろいろ理解が進んだ記憶があります。

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Charles V, Holy Roman Emperor by Tizian" by かつてはティツィアーノ・ヴェチェッリオ の作とされていた。. Licensed under Public domain via ウィキメディア・コモンズ.
で、このカール5世は、神聖ローマ帝国肯定としてはカール5世なんですが、スペイン王としてはカルロス1世なんですね。これは有名な話。

《ドン・カルロ》においては、カルロ5世とイタリア語読みとなっていました。カルロ1世でも良いはずなんですが。

原作者シラーはドイツ人ですので、カール5世としたのか。ヴェルディが活躍した頃のイタリアは、オーストリアの支配が及んでいた頃、あるいはその直後だったのでカール5世のままとしたのか。

ちなみに、ウィキペディアには、初号一覧が乗っていて、とても興味深いです。シチリア王としてはカルロ1世。オーストリア大公としてはカール1世。ブルゴーニュ公としてはシャルル2世、だそうです。

痛風に悩まされ、統治と戦争につかれたカール5世は晩年修道院に隠遁するそうです。なるほど。こういう権力者もいるということなのですね。

それでは取り急ぎグーテナハトです。

2014/2015シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

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蒼天へと向かう木々も葉を枯らして冬支度をしています。私も冬支度をしたいところですが、なかなか。。この前、「夏だけどカラッとしてる」なんて書いた気がしますが、あっという間に冬です。

東京の冬は、実のところ快適なのかも、などと。とあるドイツ人は「東京の冬の青空は観光資源だ!」言っていた、というエピソードを思い出しました。確かに鉛色の曇天のもと何日もすごさなければならないヨーロッパの冬に比べると、東京のカラッとした冬空は魅力的なのかもしれません。ちなみに、このエピソード、ICEの中で偶然同席した某大学の哲学科教授から伺ったものです。

さて、新国立劇場《ドン・カルロ》の件。やはり後期ヴェルディは面白いですね。人間ドラマ、歴史ドラマを堪能しました。

スペイン王宮が舞台となるこのオペラですが、主人公ドン・カルロの父親がフェリペ2世です。あのスペインの黄金期を体現したフェリペ二世です。劇中ではフィリポ二世ですが、スペイン語読みではフェリペ二世です。

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King PhilipII of Spain" by アントニス・モルWeb Gallery of Art:   Image  Info about artwork. Licensed under Public domain via ウィキメディア・コモンズ.

フェリペの逡巡の場面がありました。エリザベッタの愛情を得られていない、と苦悩する場面です。

ですが、あれは文学者が作り出した幻想だと思いました。あんなことつゆぞ思わないのが権力者でしょう。文学者は、こうして溜飲下げているにすぎません。権力者にああした心の動きがあるのか。権力者は心を明かすことはありません。きっと、我々が、権力者を憐れむことで、何かを代謝しているに過ぎないのだと思います。

フェリペ二世はエリザベッタに愛されなくても何も気にしないのではないか。がゆえに、エボリ公女とも関係を持つわけです。そう思いました。世間の権力者というものは、芸術生成者
とは全く異なる論理で動いていますから。

そうした前提にたって、フィクションとしてのフェリペの苦悩を味わうのが、あのシーンの権力者への嗜虐的な感情を持ちながら観るのが醍醐味だったのかもしれない。などと思います。

人間と人間は、思った以上にわかりあえないものです。一人ひとりが、独立した宇宙と論理を持っているわけですから。約束も守らず、嘘を突き通すような人間はあまたいるわけです。

ですが、長い歴史において、今もなお文字として残るのは芸術生成者の手になるものに限られるのかもしれず、そうだとすると、いわゆる「芸術生成者史観」のようなものに基づいた権力者像というものが、現在残っているにすぎないのではないか、などと思うわけです。

がゆえに、実のところ、私はあのフェリペ逡巡の場面にはリアリティを感じることができなかった、ということになるのかもしれません。

もっとも、リアリティとはなにか、という問題も生じてくるわけです。(1)事実と、(2)歴史的事実と、(3)事実の解釈、この3つのズレのようなものがあるわけで、ここでのフェリペ像は、この三者のどれに当たるのか、ということが問題で、劇中のフェリペは(3)事実の解釈に基づくもの、とすれば、それはそれで首肯すべきものなのかもしれません。

そういえば、この劇におけるカトリシズムの問題も興味深いです。そちらは次回です。

ではグーテナハトです。おやすみなさい。

2014/2015シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

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すっかり冬模様の新国立劇場です。冬至に向けて一直線。お昼が短いというのは悲しさもありますが、なにか非日常の感覚も覚えます。なんだか北欧にでもきた気分かも、などと。

それにしてもご無沙汰してしまっています。生活リズムが変わり、書く、という行為をいささか後回しにしすぎました。少しずつ新しいリズムにも慣れてきましたのでようようと再開します。
(というか、こういうムラはなくさないと行けないんですがね。。ここで食べているというわけではありませんが、反省すべきことだと思います)

先だって新国立劇場で《ドン・カルロ》を見てきました。ヴェルディオペラのドロドロとした人間模様を堪能してきました。

歌手の方々、最高すぎて、ほんと東京にいるとは思えないぐらい。いや、東京がここまでレベルが高くなったということを喜んだほうが良いのかもしれません。もちろん、外国歌手の方々に支えられている部分もあるのですが、山下さんや妻屋さんといった新国をささえる日本勢のみなさん、いつもながら素晴らしい合唱の方々には本当に頭が下がります。

指揮のピエトロ・リッツォは素晴らしいのひとこと。さすがにオケを完全解決とまでは行きませんが、統御された指揮で、激空間を支え続けたのだと思います。全く違和感なく劇に身を浸すことができました。

ああすごいなあと思ったのは、カルロが人違いでエボリ公女と愛を歌うシーン。わざと早めのテンポを取っているように聞こえました。なにか空疎な感覚を感じさせるように。なんだか、オケが空元気のようにおもえたのですね。音でドラマを創り出すというのはこういうことなのか、と、あらためて認識しました。本当にうまいなあ、と思います。

明日に続きます。

Giuseppe Verdi

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良い天気の一日。紅葉を目前に控えた樹木がなんだか最後に太陽を浴びている姿を見て、少し感動しました。まあ、紅葉したって枯れるわけではないのですが、きたるべき冬に向けて最後の日光浴を楽しんでいるように見えました。

東京地方の空はもう真冬のそれで、快晴でした。ただ、残念なのは空が真っ青にならないことです。やはり空気が澄んでいるとはいえません。それが少し残念なところです。

今日の一枚。

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プーランクばかり聴いていたい気もしますが、そろそろ我に返らないと。

ドン・カルロの予習をしようと思います。

新国立劇場で演奏されるのは、どうやらミラノ版のようです。

2006年/2007年シーズンの記録

wikiによれば、ミラノ版は1884年イタリア語版と呼ばれ、リコルディから出版されたため、リコルディ4幕版とも言われるそうです。一番長いフランス語原典版が4時間以上かかるのに対して、ミラノ版は3時間半ぐらいで終わるようですね。

いま、ショルティを聴いていますが、いや、これは本当にいいですね。《オテロ》のような緊密な音作りがたまらないです。しばらくはコレばかり聴かないと。ジュリーニ盤を入手済みで、カラヤン盤を狙っております。

それでは取り急ぎグーテナハト。

Giuseppe Verdi,Music,Opera

本日は休息日。どうも、体をしっかり休めないとパフォーマンスを発揮できませんので。といいながらも、PCに向かって作業をしてしまいました。
朝食はフルーツにヨーグルトをかけて食べるいつものも。昼食は素麺。梅雨にかんずりと柚子胡椒を入れて食べました。その後部屋を片付けて、近くのスタバで物思いしつつ書物。帰宅して風呂掃除をして入浴。たまった大河ドラマの録画を二倍速で鑑賞。その後PCで家計簿をつける。
休みましたが、休んでないですね。まったく。
最近は、どうもジャズ系をよく聴いてましたが、なにかドカンと迫力のある音源が聞きたくて、こちらを。

Otello
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かつてヴェルディに苦手意識を持っていましたが、この音源を聴いてヴェルディが好きになりました。といってもやはり初期ヴェルディはまだ難しいですけれど。
オケのダイナミズムが素晴らしいのは言うまでもないのですが、デル・モナコのオテロの迫力も相当なもんです。
私の義理の父が、デル・モナコを昔から知っていて、「パヴァロッティの比じゃない」と真剣な面持ちで言っていたのを思い出しました。比較するのは意味がありませんが、それほどの歌手だということなんでしょう。
デズデモーナは、レナータ・テバルディ。
下の画像は別のCDのものですが、私が顔写真を載せたかったので。1940年代にデビューし、1976年に引退。マリア・カラスのライバルと喧伝されていますが、ウィキを読むとまあそんなことはなかったようです。

ところで、最近はどうもクラシック音楽になにかしら違和感を感じています。まあ、半年前のバカバカしい事件のことなんかもあったんでしょう。それが一番かもしれません。あれでずいぶんとしらけてしまいました。結局、まことしやかに語られていることが、実際には真実ではなく、だれも勇気を持って言ってのけなかった、ということですから。裸の王様の世界。
あとは、以前リンク先に書いた小澤征爾と村上春樹対談の問題とか。
舞台と客席の断絶は広く深いのか。
続 舞台と客席の断絶は広く深いのか。
どうにも音楽だけを聴くという贅沢な時間までとることができないのが悩みです。
やはり、小澤征爾は正しいのでしょう。曰く「忙しい人は音楽をろくに聴いていないから」というわけですね。忙しいというか、優先度が下げざるをえないというか。
音楽は万人に開かれているのか。あるいは、少数の人間にとっての秘儀に過ぎないのか。
あらゆる芸術は後者のような側面を持っています。ただ、音楽の場合はその秘儀に加われるかどうかの判定における先天的要素が非常に強いのも事実でしょう。
音楽との向かい方は人それぞれです。そのそれぞれをどうすべきか、というのが問題なのです。
ではグーテナハトです。

2013/2014シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

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新国立劇場の今シーズン冒頭を飾るヴェルディ《リゴレット》を見てきました。

  • 指揮:ピエトロ・リッツォ
  • 演出:アンドレアス・クリーゲンブルク
  • リゴレット:マルコ・ヴラトーニャ
  • ジルダ:エレナ・ゴルシュノヴァ
  • マントヴァ伯爵:ウーキュン・キム
  • スパラフチーレ:妻屋秀和
  • マッダレーナ:山下牧子
  • モンテローネ伯爵:谷智博

演出

演出はアンドレアス・クリーゲンブルクです。《ヴォツェック》の素晴らしさは今でも思い出します。水の張られた舞台が印象的でした。今回の舞台は現代の高級ホテルです。舞台上に円柱形のホテルが登場し、回り舞台になっています。新国の設備を活かした舞台でした。
ですが、このホテルが常に舞台の中央にありますので、演技できる空間が前面に限られてしまうところが難点でしょうか。
《リゴレット》は、音楽を聞いているだけではわからないのですが、中身はどす黒い人間の欲望のドラマです。それも動物的な。クリーゲンブルクの演出はそうした陰惨さを取り出すために、ギリギリのラインに迫る直接的な方法を取りました。おそらくは観客の中にはそうした方法を不愉快に捉える面もあるはずです。あるいは、子供には刺激が強すぎるでしょう(そもそも、子供が見てもよいオペラは数えるほどしかないのですが)。ですが、それがクリーゲンブルクの戦略なのでしょう。いつもはヴェルディの長和音に隠されていますが、こうしたゾッとする陰鬱さがドラマの核だったのか、ということを眼前につきつけられる形です。もちろんこういう陰惨な状況は今も昔も変わらずあるわけです。
もちろん、もともとのストーリーの問題、つまり勝手にマントヴァ公爵に舞い上がってしまったジルダが、マントヴァ公爵に暴行されてもなお愛し、身代わりとなって死に至る、という論理性のなさはあります。ですが、もともと世界は非論理です。そして、《リゴレット》のストーリーと同じく脈絡なく絶望に突き落とされるという偶然の運命もあるはず。そういう意味ではリアリティに富んでいるといえます。
あとは、リゴレットのこと。せむし、という言葉は放送禁止用語で、使用してはならないわけで、ATOK(かな漢字変換)では見事に変換候補に上がってきません。ですが、西欧文化に触れると必ず接する言葉でしょう。《ノートルダムのせむし男》はもちろん、《秘密の花園》にも登場しましたね。また、辻邦生の《春の戴冠》にもせむしの暗殺者トマソというのが出てきました。これは、ビタミンD不足から来るくる病罹患者のことのようです。日照量が少ない欧州では、紫外線に当たる機会が減るためビタミンD不足に陥ることが多いようで、そうした環境上の条件からくるはずです。北欧の人々が短い夏に狂ったように日光浴をするのはこういう理由があるようです。ちなみに、昨今の放射能問題で、屋外で遊ぶのを制限されている子供にくる病患者が増えているようです。

演奏

歌手陣のこと。リゴレットを歌ったブラトーニャは、さすがにベテランの風格があり、終始安定していました。ジルダのゴルシュノヴァは、声量に少し物足りなさを感じましたが、テクニックは抜群で、可憐なジルダを歌っていたと思います。喝采でした。あとは、マッダレーナを歌った山下さん。《ヴォツエック》のマルグレートを歌ってましたが、この方の妖艶な歌唱は素晴らしかったです。マントヴァ公爵に擦り寄っていくあたりの演技がカッコイイ。《死の都》や《ヴォツェック》にも出演される予定ですので、楽しみです。あとは、モンテローネ伯爵の谷さんの怒りに満ちた歌声も良かったです。貫禄あり、登場した場面は舞台全体が引き締まったと思います。
指揮のピエトロ・リッツォですが、色々意見はあるようですが、私は嫌いではありませんでした。むしろ計算してテンポ感を巧くコントロールしていて良かったと思っています。
そのほかにも個々には書けない出来事が幾つかあり、まあ、個人的には大変勉強になった公演となりました。
次はすぐ来週になりますが、ウルフ・シルマーが振る《フィガロの結婚》です。
では、グーテナハト。