Tsuji Kunio

学習院大学の講演会。数年ぶりのオフライン講演で、なんだか懐かしさしかありませんでした。

最近はハードワークが続いていて、文学のことを考える暇もなく、ただただレスポンシビリティのために動いている感もあり、何かの助けになればと願いながらと言う感もありますが、春の戴冠の世界に少しの間だけ戻れて、見つめ直せたきがします。すべてはうつろいゆくばかり。辻邦生がボーイング727でフランスへ飛んだ、という話を聞いて、時代の断絶を感じたことがありますが、それでもなお変わらないものもあるのだと思います。それはおそらくは「ホーム」とも言えるもので、人生も折り返してみると、あらためて「ホーム」探しに勤しむことになるようです。私の場合は、転居転校を繰り返しましたので、常にアウェイの感覚で生きてきましたので、どこに行ってもアウェイで、もちろん学習院大学も場所としてはアウェイでしかありません。辻邦生の文学は、そうしたなかでも人生の大半をともに過ごしてきたもので、精神的なホームと言うことができるのでしょう。アウェイでいるにも、また、この先、別のアウェイな場所に向かおうにも、ホームは必要ですので、この歳になりながら、あらたて辻文学のようなホームを一つ一つさがしていかないとなあ、と思う今日この頃です。

さて、指揮者の矢崎彦太郎さんのお話のなかで、レスピーギが取り上げられました。素晴らしいレスピーギ。イタリアの太陽です。

南イタリアの田舎の港町で、人知れず暮らしながら、少しずつ地元の人々と心を通わせ、いつしかベッドで静かに眠るように息を引き取るという幻影をみました。刺すような太陽で、おそらくは肌は灼けるのでしょうが、深く刻まれた皺や白く輝く歯を持つ男達の仲間になれば、昼間からワインを飲んで、明るいうちにベッドに入ることもできるのではないでしょうか。などということをおもいながら、レスピーギを聴きました。

幻影であっても、それを想ったところで、それは現実と違わぬものになります。辻邦生はそれをイマージュと呼んだのではないでしょうか。イマージュを言語化することが、私だけの世界を係留する手段になります。それが文学であり、物語である。そんなことを想いつつ、またレスピーギを聴いています。

朗読会の「春の戴冠」は見事に長大な春の戴冠の半分を1時間に切り取っていて、感服でした。ボッティチェッリの「春」は、おそらくは、ギリシア的でもあり、キリスト教的でもあり、そうした要素が巧く抽出されていて、2H=ヘレニズムとヘブライイズムからなる西欧文化の奥深さを感じました。ビーナスでもありマリアでもある女性が「春」には描かれていて、それが懐胎しているとしたら? というのはあまりに刺激的な観点となります。語ると長くなりますが。

それではみなさま、おやすみなさい、グーテナハトです。

Tsuji Kunio

敬愛する辻邦生の誕生日。9月24日でくにお、です。

私が辻邦生を初めて読んだのは記憶では1989年のようです。さらに本格的に読み始めたのが、1992年の記憶。そうすると本格的に読み始めてから30年となります。30年なんて、本当に一瞬である、なんてことは若い頃には思いもしませんでした。10年前の記憶ができた時の慄きを中学生のころに父に語ったところ、10年前なんて大したことないよ、なんてことを言われたことをおもいだします。

そういえば、母校の図書館は1983年竣工だそうで、そろそろ40年。40年といえば、小学生だった1985年に、戦後40年、なんてことを聞いていまして、その頃は40年前なんて、想像できないほどの大昔だなあ、とおもいましたが、40年前の記憶ができると、40年なんてつい最近だなあ、と思い、そうすると、そうか、あの頃の大人の方々にとって、戦争はつい最近だったのか、と思い、あの白黒の画像でしか知らない戦争の記憶がもっともっと身近に感じたりするのでした。

長々と書きましたが、つまりは、なにか記憶と実在の不確かさと確かさを感じたということです。それは、個人の意識においては時間軸において語られるものですが、たとえば、辻邦生の物語を読んだ記憶においてもやはり、確かさと不確かさのようなものがあるのかもしれない、と思います。

私の尊敬する知人は、毎年のように「背教者ユリアヌス」を詠まれていますが、私はいま、辻邦生をまとまって読み直すだけの時間の自由と心の余裕を失っているわけです。一時的に暗い窖へと身を潜めていると言っても過言ではありません。なにか、それはフリーメイソンの秘儀のようであることを願うようにも思います。聞いた記憶では、フリーメイソンの入会においては、暗闇から光への過程が重要である、と聴きます。

人生の波においては、暗闇と光が交互に訪れるわけで、その仕組みを知らずに生きることはあまりに危険です。私においては、今はやはり虚無の窖に相応するのではなかと振り返るわけで(というか、この四半世紀はどうにも暗闇で過ごしてきた感もありますが)、つねに貪るように光を求めていたのも、そうした背景があるからだなあ、と思います。生きる喜びは、すなわち虚無の窖へのアンチテーゼです。戦争をみた辻邦生は(私の勝手な解釈ですが)、そのアンチテーゼとして生きる喜びを戦闘的オプティミズムという名の下に推し進め、パルテノン神殿のような美が、貧しい荒野のギリシアに芳醇な文化を押し立てたととらえ、その構図は、それは戦争の悲惨から、美によって世界を止揚する構図へと写しとられたのではないでしょうか。

パルテノンはじつは日本にもあったのでは、と着想したこともあり、それは、どうやら私は奈良の大仏ではなかったか、と勝手な想像をすることもあるのです。貧しい日本の天皇がなぜ大仏を作ったのかは、おそらく、まずは盧遮那仏を作ることで、今風に言うと「ゴールドリブン」に国土を止揚したかったのではないか、などと思ったりするわけです。

(しかし、性急な改革が人々を不幸にすることもまた真理ですが)

(聖武天皇と光明皇后は、実はネストリウス派キリスト教を知っていたのでは、など、興味深い事案も多々あります)

人生も栄光と悲惨の繰り返しなわけですが、そこに窖へと沈殿することなく、常に止揚する原動力としての美があること。さらに、それが世界に働きかけうること。そんなことを思います。

それにしても、実社会にここまでわずらわされると、こうして文章を書く機会を失うなあ、と、残念な思いしかありません。

このブログも15年ぐらい続いているような気もして、こうしてブログシステムで文章を気軽に社会へと発信できるという喜びとありがたさを感じた20年前の感動を改めて思い出したりしてはいます。どんなに駄文であろうとも、こうして文章を綴ることの喜びというのはそこはかとないものがあります。

読んで書くという人生の愉悦を、何か残りの人生で謳歌したいなあ、ということを思います。もちろんその愉悦を教えてくれたのが辻邦生です。辻邦生の本は大方読みましたが、まだきちんと解釈できていないものもあります。また辻邦生が読んだであろう本を読む機会は十分ではなく、あるいは辻邦生を超えて詠まねばならない本は数多あります。なにか、人生の後半戦に差し掛かりながら、たとえ、来世があるとしても、この今世におけるアジェンダは責任をもってこなさなければならないと思った時に、あまり時間もない中で(それは、人生の時間でこあり日常の時間でもありますが)、もう少し大枠の「時間」というものを見据えながら生きていきたいなあ、と思う今日この頃です。

辻先生の誕生日ということで、あえて久々にキーボードに向かいなにか、駄文長文になった感もありますが、これもなにか思考の記録かもしれず、あえてこのままで。

それはおやすみなさい。グーテナハトです。

 

Tsuji Kunio

今日、7月29日は、辻邦生のご命日。

「園生忌」という名前がついています。2016年に決定されたものです。

私は、この時、西行との関連から、桜をモチーフにした名前が選ばれるのではないか、と思っていましたが、おそらくは「遠い園生」に基づく園生忌が選ばれたものだと推察しました。この「遠い園生」という作品は、辻邦生が旧制松本高校在学中に書いた小説とされていて、しかし、旧制高校の学生がここまでの作品を書くのか、と読んだ当時、なかばショックに近い感慨を得たのを思い出します。

こうした若いときの作品を、命日の呼び名にするというのは、少し思いを巡らさないと巧く咀嚼できないなあ、ということを当時から思っていましたが、人生が円環だとすれば、若い頃の作品が命日の呼び名に値したとしてもおかしくはないのでしょう。あるいは、私の記憶では(メモが出てこなく困っているのですが)園生という言葉は、ヘッセの日本語訳に由来する可能性もあって、そうしたことも考慮されているのかもしれないです。

ともかく、23年も前の出来事になってしまったわけで、そろそろ四半世紀という節目にもなります。この先も、しばらくは私の人生は続くわけですが、そうしたときに、辻邦生が70年前にパリで考え、その後の40年以上の文業のなかで書いていたことが、この先の世界でどのように位置づけていくのか、という感覚を覚えます。「思えば遠くに来たものだ」という中原中也の言葉を、幾度となく思い浮かべることがこの数年多いのですが、この、遠い世界においては、辻邦生はどうやって、文学を受肉させるだろう、ということを思わずにいられません。

今日はこちら。辻邦生の思索が講演形式で語られます。講演後、そのほとんどをご自身で手を入れられていたと聞いたことがあります。ともかく、なにか遠い世界ですが、一方で円環でもあります。これからは、読み手の真価が問われるのだと思います。

それでは。おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

昨日来考えていることとほとんど関係なく、今朝たまたま開いた(Kindleですが)のが、辻邦生の問題作「黄金の時刻の滴り」で、トーマス・マンに語らせる以下の言葉が、私にはまさに正鵠を得た一番だったのです。

美を生み出す人は、死にながら生きたふりをしなければならないのです

辻邦生「黄金の時刻の滴り」より「聖なる放蕩者の家で」

これです。

時空を超えた大きな球体のなかにひとりでいるということは、生と死までも包んでしまうわけです。全体を掴むということは終末から始原を掴むということなのです。

これを、まさに体感してしまったということであり、そこにある茫漠とした虚無と、それに抗うための美と陶酔。しかし、それはデカダンスの類ではなく、諦観に溢れたものであるはず。

ちょうど、ワーグナーのトリスタンを聴いていたところ。なにか解決のない和声の不安定さのなかで、ワーグナー自体も茫漠とした球体のひとつのアレゴリーではないかとも思います。

そんなことを思いながら、この巨大な茫漠たる球体と対峙するためにできることは何か、と思うわけです。

Tsuji Kunio

辻邦生はこの「言葉の箱」の中で、自分の想像力が産んだイマージュが、言葉の箱の中に入れられていけば、必ず力強いものが産まれる、ということを言っています。

確かに、辻文学の持つ物語の力はとてつもないものですし、辻文学に限らず、例えば、私にとっては、ハインラインやアーサー・C・クラークの作品群の持つ物語の力は、大きなものに感じます。しかし、それを初めて感じたのはいつだろう、と記憶を呼び起こすと、それはおそらく何かの折に見た、「カナの婚礼」の絵だったと思います。

Paolo Veronese, The Wedding at Cana.JPG
パオロ・ヴェロネーゼ, パブリック・ドメイン, リンクによる

これもどこかで書いたことがあったのかもしれませんが、この絵を見るまでは、絵に描かれていることは作りものに過ぎない、と考えていたわけです。ところが、この作品を見た途端に、おそらくはこの風景は現実にあったのだ、という直観をえたのでした。その現実とは、言葉としては当時別の言葉を当てはめていて、真実在とか、そういう言葉を使っていたようにおもいますし、今でも現実と言う言葉よりも真実在と言う言葉のほうがしっくりきます。

この生き生きとしたリアルな筆致は、そこにそれとして屹立しているものであり、作りものとか、創作物とか、そういった言葉が当てはまらないように思えたものでした。

これもやはり、文字ではなく絵画によってなされたイマージュの力ではないか、と今になって思うわけです。それはいわゆる素朴な現実世界と等価以上のものであって、現実世界との差異はあくまで量的差異でしかないのではないか、とも思うわけです。この絵画をじっと眺めていると、その世界の中に引き込まれていき、素朴な現実世界よりも、ありありとリアルな質感をもって迫ってくる感もあるわけです。

これは、もう、言葉をいくら重ねても伝わる者ではないわけですが、辻邦生はこれを伝えるということにおいて文学にその意義を見いだしたのではないか、ということを今更のように感じています。

「僕が死んでしまうと、だれもそのなかに入って知ることはできない」「僕が死んでしまったら、もうこの地上から消えてしまう。そういう者を書き残すのも文学の一つの大事なしごとではないか」と辻邦生が述べているわけで、それが、イマージュと同じ質感を物語という形式で遺すことの意義になる、と言うことに感じています。それが、茫漠としたたったひとりで巨大な球体の中央に存在する自分という虚無と孤独を克服することに繋がると言うことなのでしょうか、と言ったことも考えつつ…。

しかし、この発想、そういえば四半世紀ほど前に、飲み屋で知人に語ったような記憶もあり進歩してないなあ、という気もしますが、そのときは方法論としての物語のことだけであって、伝えるべき巨大な球体としての世界をイマージュとして物語形式に落とし込むという文学の意義までは分からんかったなあ、と思う次第です。

Tsuji Kunio

ぼく自信が世界を包み込んでいる、ぼくが世界を所有している、いままでぼくは世界に包まれていた存在だったわけですけれども、今度はぼくが大きな絵にでもなって、大きな球体にでもなって、地球をスッポリ包んでしまったような逆転した関係が生まれてしまった。

辻邦生「言葉の箱」新潮文庫、25ページ

先だっても書いたこの部分。

今日もやはりこの球体のことを考えていました。というより、自分の最近の世界認識を「球体」と喩えて考えていて、あらためて一ヶ月前に書いた文章を見直したら、やはり辻邦生も球体と言っていることに驚き、潜在的にこの「大きな球体」と言う言葉が自分の中にしみこんでいたと言うことに気づいたところです。

どうも、この世界、というのは空間的な世界にとどまらず、時間的な世界をも指しているのではないか、と思うわけです。辻邦生的に言うと、「僕のパリ」には、ローマ時代のパリから、ブルボン朝のパリ、革命のパリ、そして20世紀のパリ、全てが含まれていて、あるいは、未来のパリをも含んでいるわけです。そして「地球」を包み込んでいるということは、パリだけでなく、東京もニューヨークもヨハネスブルグも(航空会社の宣伝のようですが)含むものであり、あるいは、地球から離れ、太陽系であったり、銀河、あるいは宇宙全体をも含む物になり得るわけです。パリも東京も銀河も、そこに量的な差異があるだけで、質的な差異はありません。

そういう意味で言うと、辻邦生の言うイマージュというもの、これは私の認識では、小説世界において我々の素朴な現実と同じぐらい確固とした質感のあるありありとした世界名分けですが、このイマージュすらも、現実の世界と等価となり、この私の「大きな球体」の中に含まれるわけです。記憶も想像もイマージュという観点では全て等価であり、ただ、いま個々にある認識主体において瞬間瞬間においてリニアに生じる「場」としての世界だけが唯一のよりどころであり、その「場」が中心にあるあまりに巨大な球体が、私というものではないか、と感じるわけです。

なんだか、今、この文章を書いていると、これは、誤解を恐れずに言うと、学生時代に囓り読んだ西田幾多郎の純粋経験ではないか、とも感じてしまいます。もちろん学生時代の記憶があったからこその発想ではあるのですが。

巨大な私という球体に、私は茫漠という表現を当てはめたくなるのです。つかみ所がないが、しかしそれでもそれは私であり宇宙であるというもの。そこに区切り意味を作ることで初めて茫漠を乗り越えられるという感覚。西田的に言うと主客分離というものでしょうか。

この考えは、辻邦生が「詩と永遠」で語る境地<開かれた自己>にも似た感覚なのですが、私はそこにポジティブな感覚をどうしても得られず、しかし、これがいつかひっくり返り、ポジティブな感覚へと転化するのではないか、という感覚も持っています。

 

Tsuji Kunio

今日は辻邦生誕生日。924だからくにおです。

今日も在宅勤務で、8時半から23時までみっちり。まあ、仕事は面白いですが、やり過ぎはよくありません。

すでに食事はとったので、ワインを飲みながら気分を緩める瞬間です。

それにしてもこのところ、いろいろなものがつながり始めています。辻邦生が、ポン・デ・ザールで感じた世界を包み込む感覚は、おそらくは西田幾多郎の純粋経験に他ならないもので、辻邦生はそれを実に鮮やかにポジティブにとらえ、生もなく死もない永遠の相をそこに見たのではないか、と思います。

私も実のところ、そうした純粋経験のあり方のようなものを1994年2月か3月に感じたのでした。新潟へ向かう新幹線の中のことでした。あの瞬間が、それまでの経験的認識論がひっくり返った瞬間でした。

辻邦生のポン・デ・ザール体験もやはり「ひっくり返った瞬間」だったのだと思います。

ぼく自信が世界を包み込んでいる、ぼくが世界を所有している、いままでぼくは世界に包まれていた存在だったわけですけれども、今度はぼくが大きな絵にでもなって、大きな球体にでもなって、地球をスッポリ包んでしまったような逆転した関係が生まれてしまった。

辻邦生「言葉の箱」新潮文庫、25ページ

それを辻邦生はポジティブにとらえ、この「ぼくの世界」を書き残すことが文学の一つ大事な仕事である、と言うわけです。

私も確かに、1994年から27年が経ち、どうやら、この「私の世界」というものの直感が深化しているようなのですが、どうにも辻邦生のようにポジティブに捉えることができない感覚を得ており、ずいぶんと苦しい日々が続いているようにも思います。

 

ナラティブ=物語ることの名手中の名手だった辻邦生は、辻邦生の世界を語りきることで、何を得たのだろう。

ナラティブの力、ナラティブが支える世界の強固さのようなものはつとに感じます。6月に「時の扉」を読みましたが、あそこにある厳然としたソリッドな実体感はまさにナラティブの力です。

もしかすると、辻邦生もやはり「ぼくの世界」の虚無をナラティブとポエジーの力で書き残し、昇華していたのではないか、そんな淡く恣意的な予感を得ています。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

7月29日は辻邦生の御命日です。もはや、私にとっては過去も未来も平坦で、1999年にご逝去の報を聴いたときのショックを今でもどこでも追体験できる気がします。

辻先生がその作品をものにしていった年齢に近づくと、若い頃に読んだ辻文学認識が少しずつ変容していくのに気付かされます。願わくば、その変容を「読み方に深みが増した」と捉えたいところですが、どうでしょうか。

辻文学においては、生きることの喜び、大切さが謳われます。しかし、それは、逆説的な死への畏れがあったからではないか、と思うのです。辻文学が「美と滅びの文学」と評されているという、おそらくは誤った記憶を持っていますが、それは実は誤ってはおらず、直観的に私が感じた辻文学の本質なのではないか、と考えるようになっています。

辻文学を読み始めた高校のころ、友人に辻文学のことを話したときに「死を捉えた文学である」という趣旨のことを話したのでした。当時は、辻邦生全短篇を読んでいた頃で、たしかに「空の王座」も「夜」は死にまつわる運命的な話であり、そうした捉え方をしたことに不思議はありません。あるいは、後年読んだ「西行花伝」において、母の死に直面した若き西行が、死も生も同じである、と認識するに至る境地が描かれていて、そこにもなにかリアリティのある凄みを感じたのでした。フォニイどころか、あまりにも熾烈な認識です。

残り何度夏を迎えることができるのか。そろそろ数えられる年齢に差し掛かると、どうやら、生の喜びを語ることと言うことこそが「戦闘的オプティミスムス」であるといえないでしょうか。そう思うと、また違う姿が立ち現れてきます。

しかし、それでもなお生きなければならないのであれば、世界は美しくあるわけです。それは、ザイン存在ではなくゾレン当為であり、ゾレン当為こそが認識の対象であり、が故にザイン存在となることを求められるわけです。

この深淵を見据えながらも美を見ると言うことは、なにか苦難を乗り越え理想を希うユリアヌスやサンドロの姿に重なりつつも、西行のように現世から一歩引いて、世界が島のように見える境地にも似ています。あらゆる正数と負数を同時に見やる視座は、虚数のようでもあり、世界から離れ、醒めたところにあります。

人生の次の戦場は、ここなのかもしれません。「春の戴冠」と「西行花伝」をもう一度読まねば、というようなことを思いながら、家路を急いでおります。

それでは皆さま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

以前こちらにも書きましたが辻邦生の「時の扉」を読み終わりました。

 

おそらくは20年近くブランクがあいていたはずで、細かい筋立ては覚えておらず、新しい気分で物語空間に引き込まれていき、途中から頁をめくるスピードがどんどん速くなっていきました。新聞小説ということで、面白さやわかりやすさはありながら、テーマとしては辻邦生作品群に通底するテーマを扱っているということもあり、いろいろと考えさせられました。

最後の章、題名が「太虚」とあり、あの「嵯峨野明月記」の最終章で語られる「太虚」に繋がる境地が、新聞小説である「時の扉」にまで波及しているということに驚きを覚えました。おそらくは、鬼塚しのぶが語る

深い悲しみの故に、私たちは本当の<生>の深さを知ることができる

辻邦生「時の扉」中公文庫、1986、547頁

という部分に当てはまるのでしょう。

「嵯峨野明月記」で本阿弥光悦が語る太虚を抜粋すると以下のような部分にあたるのでしょうか。

まさしくこの生は太虚にはじまり太虚に終る。しかしその故に太陽や青空や花々の美しさが生命を取り戻すのだ。太虚の豊かな死滅と蘇生のなかにあって、その宿命を完成させる以外にどんな仕事がのこされていようか。

辻邦生「嵯峨野明月記」 中公文庫、1990、431頁
それはなにか逆説的な物であるかのように思います。光悦は死の空しさである太虚を知ってそこに、生の意味を感じました。「時の扉」の主人公矢口は、罪の償いがかなわないことを知って、そこに生の意味を感じたと言うことでしょうか。

罪は、ぼくに恩寵となって現れることを知りました。罪は償いうるというものではありません。しかし償いえない罪のおかげで、ぼくは生が何であるかを知ったのです。もし罪の償いがあるとしたら、この真実の生の姿を深く知り、生きるほか、方法がないようにおもうのです

辻邦生「時の扉」中公文庫、1986、491頁
死であったり、罪であったり、あるいは恐怖や不安であったり、そうした生におけるネガティブな要素がありつつもそれを包み込みながらも、激しく生きると言うこと。昨日触れた「戦闘的オプチミスム」をモットーにして、砂漠のなかの発掘であったり(時の扉)、あるいは砂漠のレースであったり(おなじ新聞小説の「光の大地」のように)、なにはともあれ激しく生きると言うことなんでしょう。激しくというのは、なにか、太陽の照りつける夏に、オレンジを搾ったその果汁をのみほすような、生への渇きを癒やすものであるように思います。

だとして、何ができるのか。おそらくはなにもできず、ただ通勤者として労働に勤しむことになるわけですが、そうだとしても、大都会の出勤時の駅を詩情で捉え、

人間って、悪に染まり易いそんな弱い存在だけれど、もともとそれほど立派なものじゃないんだ。そんなことで悩むより生きていることを大切にしなければいけない。一日一日与えられている時間──太陽──雲の行き来──木々の緑──頭を揺らす花々──そういうものを心ゆくまで愉しまなければいけない

辻邦生「時の扉」中公文庫、1986、179頁

ということなんでしょう。

なんだか、仕事で悪人とやり合った記憶がよみがえり、自己規定のなくルール無視で動くことのできる悪こそが強いのでは、と同僚と話しをしたことを思い出し、ひとときは悪が勝つことがしばしばだったように思いますが、それでも生きるというトータルでは、なにかそれすらも包含し、そこには悪も正義もなく、全てが溶けきったような感覚を得たな、と思いました。

ところで、この本、ウィスキーを飲む場面、あるいは羊肉などのごちそうを食べるシーンが多く、ついつい酒量が多くなり、肉を貪り食べたくなる欲求に駆られました。確かに、仕事後の机上で本をめくりながら蒸留酒を飲むという愉楽は何ものにも代えがたい幸せだったなあ、と思いました。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio


このブログで何度も何度も「戦闘的オプティミズム」という言葉を使っていますが、出所について明らかにしていないのではないか、と思うようになりました。
この言葉は、1991年に新潮社より出版されたエッセー集「時刻のなかの肖像」の収められた「迷信について」という文章によるものです。

辻邦生は1957年に渡仏しパリで留学生活を送りました。そのころ、パリの大衆紙や女性雑誌に星占いの記事を愛読しており、日本でもいつの間にか星占いが人気の的になったのだといいます。こうした星占いのような迷信出会ったとしても、超合理主義で割り切るよりも、適度の迷信と神話が潤いを与える物として必要で、神社仏閣にお詣りにいったり、神輿を担いだり、おみくじを引いたりするのは人間の情緒生活を豊かにするものではあるが、とはいえ、病気や不幸によって、本物の迷信や新興宗教に走るというのはまた問題であるが、生きている以上、不安や恐怖から免れることはまず不可能であるから、こうした災難的事態には、合理的、方法適性はより他に道はないということも分かっておいた方が良いのでは、といいます。

とはいえ、この合理主義的な思考では落ち着くことできません。この文章は以下のように締めくくられます。

そんなとき、私は、自分にも他人にも戦闘的オプチミスムをすすめることにしている。単なる楽天主義ではなく、それに「戦闘的」という形容詞がつくのである。
いつだったか福永武彦氏の財布には「大吉」と書いたおみくじが入っているのをみたことがある。(中略)これなどは戦闘的オプチミズムの恒例だろう。何かのことで、おみくじを引いてみて「凶」と出たら、「吉」が出るまで引いてみるという気持ち。(中略)運というものがあるならば、自分には「好運」しかないんだ、と信じこむ力。あまりこちらが楽天的なので貧乏神も旗を巻いて逃げ出すといった態度──私は気質的にそういう生き方に共感するようである。

辻邦生「迷信について」『時刻のなかの肖像』 新潮社、1991年、162頁

これを読んだのは、おそらくは学生の頃だったと記憶していて、茶色く変色しつつある古い付箋が今でもここに貼ってあります。この「戦闘的オプチミスム(オプティミズム)という言葉は、なにか能動的に運さえも勝ち取ろうとする、運に関わることでありながらも「合理的」な生き方だなあ、と大いに感じ入り、共感したのを覚えています。以来、「戦闘的オプチミズム」をモットーに生きたいと思い、大吉のおみくじを財布に入れて持ち運んだりしました。まあ、巧くいかないこともしばしばでしたが、どうもそうした迷いのようなものも徐々に括弧に入りつつあるような気もしています。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。