Apple Music

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はじめに

すっかり、夏の風情がなくなってしまいました。なんだか今年の夏は短かったような気がします。まあ、9月に入ってからも残暑は幾日かはあるとはおもいますが、なにか、あの暑さが懐かしく感じてしまい、我ながら身勝手だなあ、と思います。

速度制限!

先日起きた不思議な出来事を報告します。教訓に満ちた経験ということもありますので。

御存知の通り、iPhoneには一ヶ月7GBの容量制限があります。それはそれで理不尽さ満載なのですが、まあ、営利企業の性ですので仕方がありません。

この数ヶ月、データ容量などを確認しながら使っていましたので、計算では、一ヶ月に7GB以上のデータ通信をすることはないはずでした。

ところが非情なメッセージがソフトバンクから。

目を疑いました。こんなはずはない、と。えーっと、何が起きたんでしたっけ、みたいな。

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で、リンク先を確認すると、7GBまでの残容量ゼロとのこと。つまり7GB使いきってしまったのです。

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原因究明

悶々としながら、通信容量を確認しました。可能性があるとすれば、Apple Musicです。Apple Musicが想定以上の通信量を費消しまったのか、と思ったのです。

が、そんなことはなさそう。ミュージックは941MBのみです。

あるいは、先日休日出社したときに、電話代をケチって、楽天でんわで長時間仕事の電話をしてしまったからなのか?

が、そんなことはなさそう。楽天でんわは230KBだけでした。

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Apple Musicが原因だった?

じゃあ、いったい何が?

いろいろ調べていくと、「システムサービス」のなかに表示されていた「メディアサービス」の項目に目がいきました。ここに、4.8GBの表示がありました。

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なるほど。もしかすると、ミュージックでやりとりされる音楽のデータは、この「メディアサービス」に集計されるのかもしれない、と。

気づかないうちに、4.8GBもApple Musicで使っていたのか、と衝撃を受けました。そうか、Apple Musicは、パケットを予想以上に使うサービスだから、7GB制限がある以上、実用にあたいするサービスではないなあ、ととてもがっかりしたのです。

またもや不思議な出来事

がっかりしながら、仕事をしていたのですが、そのうちにおかしなことが起きました。Apple Watchがオフラインになったのです。Apple Watchは、Bluetoothで常にiPhoneと情報をやりとりしています。iPhoneとの通信がきれると、画面にはiPhoneがオフラインになった赤いマークが表示されます。

あれ、iPhoneをどこかになくしてしまったか、と慌ててポケットを触ると、iPhoneは確かにあります。ということは電源を切ったということになりますが、そんな操作をした覚えはありません。

iPhoneを取り出してみると電源が入らないのです。電池容量がゼロになっていたというわけです。

しかし、いつもはこんなに早く電池容量がなくなることはありません。

あ、これは、もしかしてiPhoneに意図しないアプリがインストールされ、なにか良からぬことがおきているのではないか。

ヤバイ。。

とおもったのですが。。

続きは明日。

Miscellaneous

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自宅のテレビにMacをつないでみました。なかなか新鮮です。うちのテレビにはVGAしかついてませんので、こちらをつかってみました。

画面が大きいので、家族と相談しながら何かを決める時、便利そうです。

ただ、慣れない大きさ、慣れない解像度なので、眼が疲れました。姿勢に気をつけて使わないと。

今回は目的があって導入しましたので、その目的がはたせるよう頑張ろうと思います。

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今日はずいぶん涼しくなりました。いよいよ秋ですね。というか、今年の夏は短かった? まだまだ残暑もありそうですが、気が抜けない日が続きそうです。

それでは今日は早めにおやすみなさい。

Opera,Richard Strauss

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驟雨のあと。空気も秋めいてきて涼しくなってきた気が。

いよいよ、夏もおわりつつありますね。早いものです。

それにしても、なんなんすかね、この忙しさは、みたいな。

今週やっと3時間だけ自分の時間が取れそうで、それもあと30分でおわってしまいます、みたいな。

今年は、ワークライフ・バランス推進の役割を仕事場で担っているんですが、どうやら、仕事人間だったみたいで、まだまだ頭を切り替えられません。ムダに深読みするクセもあるみたいでして、本当にワークライフ・バランスしていいのか分からないのです。

「効率あげて、仕事の成果を変えずに早く帰ろう!」が趣旨なはずですが、「効率上げて、仕事の成果を増やそう!」が趣旨のダブルスピークではないか、と深読みしてしまうのです。趣旨を腹で理解できていないということですので、意識を変える意味でももっと勉強しないと。

今日はこちら。

コヴェントガーデンでの《ばらの騎士》。ライブ録音なので、子役の子どもたちの声なども入っています。トモワ=シントウ、クルト・モル、バーバラ・ボニーなどおなじみのメンバーが集っております。1995年の録音です。あのクライバーの録画の数年後ですね。Apple Musicのせいか、なにか音作りがライトな感じで、室内楽的に聴こえます。トモワ=シントウは円熟といえば円熟です。カラヤン盤《ばらの騎士》でのトモワ=シントウの素晴らしさとは違う円熟でした。蔵出しな音源という感じです。

詳細はこちら。

http://www.opusarte.com/details/OACD9006D#.Vdnjk3hxE69

明日は涼しい一日になりそうです。皆様お身体にお気をつけて。おやすみなさい。グーテナハトです。

Apple Music

Apple Musicを解約したら曲が消えた?海外メディアに届いた不穏な報告

やはりずっと楽しんでいるApple Musicですが、いろいろと不安も多々あります。こんな情報もあり飛び込んできました。

どうやら、Apple Musicを解約すると、iTunesで買った楽曲だけではなく、CDから取り込んだ楽曲も失われてしまう、というもの。

まあ、おそらくは仕様の問題、つまりはレベルアップが必要な残念なインシデントということなのだと思います。今後は対応されていくことを望みますが、9月の有料期間を前に、解約されるかたは少し気をつけたほうが良いかもしれませんね。

今日はこちら。これが定額で聴ける世の中になるとは、全く今まで何だったのか。というか、何度も書いてますが、このデフレは音楽業界にとってほんとうに良いことなのか、全くわからない今日このごろです。

それにしても、《マイスタージンガー》は、一度しか実演に触れたことがありません。それも演奏会形式でした。なおさら、もっと観たりしないといかんなあ、と思いますが、今はちょっと身動きが取れません。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

電車の中。大声で語り合う男二人。

対照的に、スマホにイヤホンさして、静かに電話する男。

電車の中での携帯の通話はご遠慮ください、と言うけれど、いったいどちらがよいのだろう、と。

私は、どうも静かな携帯の会話に違和感を感じてしまいました。よく考えると、大声で語り合う男たちの会話の方が音量は大きいのですが。

おそらく、だが、リアル会話はどんなにうるさくてもよいのだが、通例秘匿されるべき電話の会話は、たとえそれが静かな声であっても、周りにしてみれば聞きたくないものであり、が故に、マナーとして問題、とされるのでしょう。

ずっと前にドイツに行った時、電車の中でイヤホンつけて携帯をつかう人を結構見かけました。会話の種類にはこだわりがなさそうでした。

自分が日本人であり、その色眼鏡をかけてものごとをみているということをあらためて思いました。

それにしても、暑い毎日ですね。こんな時はモーツァルトです!

(??)

今日は、テイトの指揮でモーツァルトの交響曲。ならびにムーティの指揮でコジを聴きました。清澄な気分で、しばし暑さを忘れました。それにしてもオペラは侮れません。13年聴いてますが、まだまだわからないことだらけです。


ではおやすみなさい。グーテナハトです。

Jazz

苦い思い出があります。今でも覚えています。

ハービー・ハンコックのDis Is Da Drumに収録されているButterflyという曲のことをどなたかと話をしたのですが、そのとき、Butterflyの初出であるThrustに収められたButterflyのことを知らず、きちんと話ができなかったのでした。

その方はDis Is Da DrumのButterflyはあまりいいパフォーマンスではない、とおっしゃったのですが、私はその後を継ぐことができなかったわけです。

その後、何かの折に、ThrustにおさめられたButterflyを聴きましたが、たしかにそちらのほうがよいですね。もっとも、その方が、ThrustのButterflyのほうがよい、ということをおっしゃろうとしていたのかは定かではありませんが。

(iTune では、The Essential Herbie Hancockに件のButterflyが収められています)

今日あらためて聞きましたが、よりジャズ的であり、ハービー・ハンコックののプレイも、よりハービーらいです。特に中盤以降のハービーのソロが絶品。けだるい雰囲気から徐々にピッチアップして、スピード感のあるソロへと移行していくあたりは、さすが、という感じです。

Apple Musicのおかげで、あらためて勉強になりました。

ちなみに、ハービー・ハンコックのアルバムでApple Musicに収められていないアルバムはいくらかはあるようですね。件のThrustというアルバムは、そもそもiTuneストアにもないようです。

Thrust
Thrust

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今日の東京地方は、少しは涼しい一日だったように思います。明日もそうなりますように。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

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先日書いた、フォニイ論争の件。辻邦生を始めとした4名の作家を「フォニイ」とした論争だったようです。

ですが、なにか違う位相で、辻文学は現実と戦っていたのだと私は思うのですがどうでしょうか。

私は文学史はあまり興味がありませんでしたが、すこし調べてみると私小説とは、リアリズムの極地とされているようです。反対に、歴史小説は、現代の現実に則したものではないので、通俗小説と取られるということでしょうか。

よく言及されるトーマス・マンのように現実の市民生活を維持しながら芸術作品を産み出すという立場は、現実と乖離しない立場だと思います。社会的生活を維持しながら芸術を生成するという主人公は、例えば「雲の宴」にでてくる詩人の郡司などがそれにあたりそうです。普通の市民生活を維持しながら芸術を生成するというのは、逆に言うと極めて厳しい道のように思います。

フォニイ論争があった1973年のちょうど同じ頃に発刊された學燈社の「國文學」が辻邦生特集ということで、20年ほど前に古本屋で手に入れました。この中に、フォニイ論争の当事者の一人となった平岡篤頼氏による「辻邦生における異国の意味」という論文があります。

その中に、「生きることと書くこと」の対立という議論が登場します。「生きることは書くことよりも早く経過し、書くことは生きる時間をいちじるしく削減する」とあり、この矛盾が「あらゆる文学の根底に横たわる重大問題」とされます。大概は、生きることか書くことかどちらかを選択することになるのだが、辻邦生は「この二つが対立するものではなく、相関的かつ相補的な関係にある」といいます。

書くこと=芸術活動と、生きること=現実の活動を一つにまとめようとした文学ではなかったか、と思うのです。

また、辻邦生はトーマス・マンの市民的生活を模範として、破滅的な生活ではなく、規則正しい市民生活を送りながら活動をしていたはずです。

そうした意味からも、文学活動の源として、現実世界と向きあうということを課していたのではないか。が故に、大学で教え、サークル活動で学生と交流したのではないか、と思うのです。

(こうした記憶は、20年も前にいずれかのエッセイで読んだものですが、さすがに歳月の流れには抗えず、出典を探すのに苦労します。当時からノートをつけたりカードに記録していればよかったのですが、さすがにそこまではできておらず、というところです。)

先日、NHKの番組で、藤子不二雄Fのドキュメンタリーを見ました。そこでは、常に市民と同じ目線を忘れない、ということをモットーにしているということが語られていました。もしかすると、辻文学もそうした現実世界との密接な関わりを忘れないようなとっかかりが常にあったのではないか、などと思うのです。

辻文学は決して、現実と一切乖離したロマンではなく、現実と対峙するリアリズムなのだ、と私は思っています。

明日からまたウィークデーの始まり。お盆休みの皆様も多いかと思います。きっと、朝の電車は空いていると思います。読むべき本が多いのですが、最近は時事問題もかなり重要で、ついつい電車の中で新聞などを読んでしまいます。まあ、先日も書いたように、大事な時期ですので、そうした新聞を読むことも大切なのですが、通常の読書が進みにくく、難儀です。

それではおやすみなさい。グーテナハト。

Tsuji Kunio

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暑熱に満たされた毎日です。みなさまお元気でしょうか。

4回目のご報告です。今回が最終回です。

私は今日から「西行花伝」を読み始めました。10年以上ぶりになると思います。また、その他の長編、たとえば「廻廊にて」、「安土往還記」、「背教者ユリアヌス」、「春の戴冠」、「フーシェ革命記」なども読み返してみようと考えています。

思うに、どうやらそれらがなにか辻文学自体を象徴した構造を持っているように思えるのです。

学習院大学史料館での展示は昨日終わりました。本当に沢山の気づきを得ることができた大変素晴らしい展示でした。

何人かの方も書いておられましたが、日記の出版の要望はあると思いました。ですが、まだまだ存命の方もいらっしゃると思いますので、「パリの手記」のように、作者ご自身の編集がない限り難しいのでは、とも思いました。

ここに詳しくは書きませんが、今回展示されていた自筆日記にも興味深いことが書かれていたのです。ですが、さすがにこれは出版できないと言われても仕方がないなあ、ということも、書かれていました。
(実際、それはそれで実に勉強になりましたし、辻先生がより身近に思えるものだったのですが)

ただ、私が今回気づいたような、モームに関する考えなど、辻文学を理解する上でも重要なことがいくつもいくつも詰まっているのだろう、とは思います。

アンケートに答えたところ、はがきを頂きました。右下の絵は辻邦生によるものです。可愛らしい絵を書かれるのだなあ、と思いました。さすがに気安く使うことはできませんので、私の手帖に挟んでおくことにしました。

写真 1 - 2015-08-07

今回のシリーズはこれで閉じようと思います。ですが、先に触れたように、あらためて長編などを読み返す必要があることにも気づきました。そちらはまたこちらで取り上げていこうと思っています。

史料館の方に伺ったところでは、来年もなにかしらの展示をされるとのことでした。来年は一体どんな展示になるのか、楽しみです。そして、2025年の生誕100年には大きな展示を行う予定とのことでした。

今年も、9月24日の生誕90年というイベントがありますので、そこに向けて私もできることをやろうかなあ、などと思っています。

明日も暑そうですが、みなさまどうか体調にはお気をつけ下さい。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

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暑い毎日が続きますがいかがお過ごしでしょうか。この数年、冷房にやられることがおおく、必ず上着を来て仕事場に行きます。寒い冷房のなかで上着を持っていると、なにか安心をします。

ですが、さすがに今日は上着をあまり使いませんでした。年々耐熱性が下がります。熱に順応する訓練をしないと。

さて、一昨日、昨日に引き続きです。

それにしても、今回の展示は、なにか私の中の辻文学観のようなものが大きく変わったように思えます。

しばらく前に触れた「フォニイ論争」の件を調べている時に、このような文章を読んだわけです。

日本でも西洋でも、歴史小説は「通俗」の疑いを掛けられがちだし、『背教者ユリアヌス』は、いま読んでも、シェンキェヴィチの『クオ・ヴァディス』のような通俗歴史小説に見えるし、その後の辻は、井上靖より薄味な通俗歴史小説を書きつつ、それを純文学として通用させて終わった人だった。

小谷野敦『現代文学論争』筑摩選書 70ページ

この文章を読んで以来、引っかかりを覚えていむした。これは、一つの見解ですので、なにかネガティブな感情を持つということはあまりありません。ですが、このような見解がある、ということはわかっておいたほうがよい、とは思います。

私が調べていたこの「フォニイ論争」は、小谷野さんの『現代文学論争』において詳しく取り上げられており、前述の引用も、「フォニイ論争」の章からのものです。

フォニイ論争というのは、1973年に、評論家の江藤淳が、辻邦生、加賀乙彦、小川国夫の「73年三羽烏」に丸谷才一を加えた4名を、「フォニイ」と評したというものです。

「フォニイ」とは、まがいものであり、「うちに燃えさかる火を持たないもの」、という意味ののようです。

小谷野さんは、『現代文学論争』において、フォニイ論争とは、文壇における私小説をめぐる論争だった、というように捉えておられます。江藤淳は、紆余曲折はあったようですが、純文学を正当な日本文学と捉えていたようです。

つまりは、辻邦生のような歴史小説は通俗であり、私小説こそが本物だ、と捉えられていたのだと思います。リアリズムですね。

私は、あまり文学史のようなものに詳しいわけでもなく、これまではあまり興味もなかったのですが、この「フォニイ論争」を調べて以来、端的ではありますが、やはり文壇のメインストリームから辻文学へ向けられたある種の視線のようなものを感じていたのでした。

ですが、本当に繰り返しになってしまいますが、谷崎潤一郎賞を受賞したということこそが、こうした「視線」に一つの終止符をうったということにならないか。そういう捉え方をしたのでした。辻文学を理解するための史観を理解した、とも言えると思います。

ここに、辻文学の歴史の大きなうねりのような曲線を感じるのです。

今日もここまでです。どうかみなさまごゆっくりお休みください。グーテナハト。

Tsuji Kunio

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暑熱のなかにたたずむ学習院大学史料館の遠景です。昨日に続き、辻邦生──西行花伝展についてです。今日は展示されていた自筆の日記から。

辻邦生が日記を書いていたことはもちろん知っていました。ですが、実物を見たのは初めてでした。

JOURNALという標題がついていて、ローマ数字でナンバリングされていることも初めて知りました。私が見た1990年の日記は、方眼(今風に言うとグリッド)のノートに縦書で丹念に書かれていました。

見開きで展示されていた日記は1990年11月4日(だったと思いますが)でして、「西行花伝」の書き出しに苦心している記述があるもの、と紹介されていました

ですが、私はその前日である1990年11月3日の日記に心が奪われたのです。

ここには、モームが自身の文学を悔恨するセリフが書いてあったと記憶しています。モームは通俗作家として名前が残っています。つまり大衆文学を書いていたということです。日記には「大衆文学は面白さは、文学は真実を求める」と書いてあります。細かい記述までは残念ですが記憶から薄れつつありますが、そうした切り分けについて、大きな問題意識を持っているということが書かれていたはずです。

おそらくは、辻邦生にとって、面白い物語を創るということが、最上だったはずです。「背教者ユリアヌス」も「春の戴冠」も、そうした、ストーリーの面白さが横溢する作品です。そして、そのなかには哲学的とも言える真実の探求が織り込まれているわけです。ちょうど、美しい絵画のなかに、様々なアトリビュートが織り込まれていて、その作品の中の隠された意味が立ち現れるように。

ですが、文壇からはそうは取られていなかった、ということなのでしょう。歴史小説自体が、おそらくはそうした純文学側からは、異色に見えていたのではないでしょうか。(これも出典が不明確で申し訳ないですが)、四半世紀ほど前に、井上靖の「孔子」が、「あれは文学的だが、文学ではない」という評論を読んだことがありました。あれこそが、「純文学」からみた歴史小説観であったのではないか、と想像しているのです。

がゆえに、辻文学の文壇での評価が分かれていたのではないか、と思うのです。純文学において、こうした物語文学が異色であったのは、おそらくは、この「面白さ」というものに対する、違和感のようなものがあったのではないか、ということです。

(歴史とはつまり物語ではないでしょうか。ドイツ語のGeschichteが物語と歴史という両方の意味を持つように)

ですが、私は、この「西行花伝」が評価されたという点において、面白さと真実が結合した、あるいは、面白さと真実の壁を超えた、と、文壇に捉えられた、ということを示唆しているのではないか、と思うのです。がゆえに、昨日書いたように、「廊下に立たされていたが呼び返された」ということになるのではないでしょうか。

なにか、その事実が、「西行花伝」を書き始めた前日の日記に書かれていたということが偶然には思えないのです。

次回も引き続きです。

暑熱が続きますが、どうかみなさまご自愛下さいませ。おやすみなさい。グーテナハトです。