Richard Strauss

はじめに

NHKBSのプレミアムシアターでドレスデンのカプリッツィオが放映されていました。先週の土曜日に、スマホで自宅のHDDレコーダにつないで、地下鉄に乗りながら観ながら、facebookに記事を書いていたら、乗り換え駅で降り損ねてしまうという。。まあ、それぐらい熱中してしてしまいました。やれやれ。

で、facebookに書いた記事を再構成して記録としてこちらに載せることにします。

この映像、ティーレマンがドレスデンを振った音源で、伯爵夫人は、カミラ・ニールント。ああ、カミラ・ニールントは2007年の新国立劇場「ばら騎士」が圧倒的で、2011年春再演時にも来日する予定でしたが、震災でキャンセルになったんですね。。本来18世紀フランスが舞台ですが、第二次大戦中に時代を映した演出で、これはよくある読み替えだと思います。後述の二期会も、あるいはおそらくは同じく後述のシルマー版もやはり時代的には第二次大戦中と思われます。

とにかく、このオペラ、10年以上前にドレスデンまで行って見に行った思い出深いオペラで、指揮はペーター・シュナイダーだったはずです。当時の記録は文章には残っておらず、証拠物件もみつからず。。

ただ、このオペラの真価を理解するにはまだ時間が必要だったし、まだその真価を理解できているとも思えません。本当にオペラ美学を語るオペラ。メタ・オペラなのです。

これまで、5種類ほど違う演奏・演出で見ましたが、そのうち3種類はメタ視点の導入による味わい深さがあったと思います。自分で自分の演奏を見る、と言った感覚。

これまで見た記憶

1)こちらが初めて見たカプリッチョの映像。NHKで放映されました。メタがかかった味わい深さ。

シルマー&フレミングの「カプリッチョ」のメタな構造

2)こちらは、メトロポリタン歌劇場。やはりフレミング。METライブビューイングでみたなあ。

MET ライブビューイング「カプリッチョ」短信

3)さらには、二期会。これも素晴らしかった。

やられた、泣いた、驚いた。二期会「カプリッチョ」

4)前述のとおりドレスデンで見ていますが、記録が見つからず。ただ、とにかく、最後の月光の音楽が美しくて、という記憶のみ。群青色のライトに満たされたゼンパーオーパーは大変素晴らしかったのです。

5)そして、今回のNHKで放映された、ティーレマンの演奏。

https://www.nhk.jp/p/premium/ts/MRQZZMYKMW/episode/te/MJQ54KXG47/

 

最後のロマンはオペラ?

とにかく、最後のロマン派オペラであり、オペラに関する蘊蓄と考察が加えられた、オペラを語るオペラ、メタ・オペラとも言えるリヒャルト・シュトラウス最大最高のオペラ。

戦時中に作られ、失われ戻らないかつての美的成熟を描いた作品で、正直、無人島に持っていくならこの音源とリブレットです。

おそらくは、西欧音楽はここに終わったとも言えるのではないか。そんな気にもなってしまいますが、もしかすると「四つの最後の歌」がそれに当たるかもしれん、と思ったり。

オペラを、歌詞、音楽、演出に分け、それぞれを擬人化し、さらには、オペラの華であるテノールとソプラノに甘い歌を歌わせ、さらには激しく難易度の高いフーガの六重唱入れたりするのだ。やる方はたまったもんではないはず。
さらにはオペラにおけるバレエの問題も、語られます。

で、最後に、オペラを象徴する主人公伯爵夫人マドレーヌが、詩人と音楽家のどちらを選ぶか逡巡するという。甘美な音楽とともに。オペラをめぐる永遠のテーマなんだろう。それが、文才にも恵まれたシュトラウス手により書かれるという僥倖です。

でもこの三角関係の勝者は音楽家です。伯爵夫人の台詞は音楽に傾いているし、今回見た演出でもやはり、音楽家に傾いていたなあ。

オペラにおいては詩が先か、音楽が先か? そしてありがとう、オペラ

喪われたものを顧みる知恵

それにしても、これが戦時中に書かれたという皮肉。いや、戦時中だからこそ書かれたというべきか。ミュンヘンが爆撃され、ドレスデンの歌劇場もドレスデンの歌劇場も焼け落ちたのだ。悲しみはあまりあります。

失われるものは数多ありこうして、懐古し、失われたものを、時と場所に措定するということは、グリーフ・マネジメントなのかもしれません。

戦争とコロナは似て非なるものだが、時代とともに喪われるという観点では、やはり似ていますね。世界がすべて変わり、次にドレスデンに行くことなんてできるんでしょうか。

 

最後に、このカプリッチョからいい言葉を。

Heiter entscheiden – sorglos besitzen. Glück des Augenbliks – Weisheit des Lebens!

「明るく決心し、心配なく保つ。幸福の瞬間こそ人生の知恵」。以下リンク先で10年前にキャッチーな意訳をしていました。

 

なにごとも陽気に明るく、心配事なんて忘れて、生きていこう!

「幸福な瞬間こそ人生の知恵」ですか。。

つうか、幸福の瞬間で息継ぎして生きる、という感覚を持ってましたが、これは、まさに戦時中にシュトラウスやクレメンス・クラウスが感じていたことなのかもしれん、と思いました。

虚無を超えて──マーラー交響曲第10番を聞いて

なんだかこのエントリー自体が回顧的になってしまいました。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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Franz Schubert,Piano

このところ心を落ち着かせる機会を作るのに腐心していましたが、大学時代の先輩がシューベルトを聴いているとのことで、この音源をApple Musicで求めました。内田光子のシューベルトはかなり前からCDを持っていて、数年に一度は手に取っていましたが、なんだかこのタイミングでこうして聞いてみると、日々のスピードを忘れ、一番正しいところへ帰ってくることができるように思います。

先だって、とある人と話をする機会があり、都内某所を「ここが一番正しいところなのです」と言葉がついてきたのですが、古い存在論で「真善美」というのがありますが、なんか、存在論と認識論と美学が一体になったような感覚得たために、「正しいところ」という言葉が出てきたようでした。自己反省すると。

となると、なにかこの内田光子のシューベルトも、また一つの正しいところであるに違いないわけです。それはまさに厳然としてある現実感であり、美しいものであり、またなお、そこになぜか倫理的なものをも感じるという感覚。音楽に倫理はそぐわない概念ですが、そうであってもなにかそこに正しさを措定したくなります。

なんだろうな、この音と音の間に込められた微妙な空気感。音と音の間に有限と無限を感じるような感覚。単なる音が、大きな存在感へと膨らむ感じです。

このCDは独りで夜に聞くもんだなあ、と思います。

そういえば、かつてはPhilipsだったはずなのに、最近はDECCAに移籍されたようです。Philipsのかつてのロゴが好きだったので少し寂しい。

それでは皆様、おやすみなさい。グーテナハトです。

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Gustav Mahler

7月に入り途端に環境が変わり忙しさに拍車がかかりましたが、なにかその忙しさに慣れつつある今日この頃という感じです。

文章を「まるでピアニストが書くように」書く、ということを、尊敬する辻邦生先生はおっしゃっていますが、まあ、辻先生ほど出ないにせよ、書くことはライフワークですので、諦めずに書かないといかんな、と思います。

このところ、なにか生きると言うことに虚しさを感じ、それは多分、あまりに忙しさにあって、音楽を聴いても何か砂を噛むような、なんともいえない手応えのなさがあったのですが、今、この瞬間において、なにか虚しさがすっと遠ざかった、と感じました。もちろん虚しさは何度も何度も波のように押し寄せるものですが、そのときに掴むものや立つところがあれば、波に押し流されずに済むものです。生きると言うことは、そうした掴むものと立つところを探し、手に入れるという営為である、と思います。かつては、なにか幸福という空気を息継ぎをするようにすっている感覚というものがありましたが、それと同じなんでしょう。なぜ、このような虚しさを一瞬でも遠ざかったと感じたのか。それはやはり音楽であって、ラトルの振るマーラー交響曲第10番を聞いたからでした。昨年の冬はアバドが振るブラームス交響曲第1番に支えられるように生きてきた感があり、なにかあのオプティミズムに彩られた感覚が素晴らしく感じたのでした。しかし、それもなにか昨今の感覚とは折り合わず、いくらアバドのブラームスを聴いても、虚しさを洗い流すには至らなかったのでした。

そんななかで、Apple Musicが自動で生成するプレイリストを何気なくクリックして流れてきたのが、ラトルが振るマーラー交響曲第10番クック版の第二楽章でした。あまりにフィットする感覚はなんでしょうか。不協和音と転調に彩られた複雑で美しく雑然とした軽快な曲調は、なにか現在の混濁した虚しさに寄り添うもののように感じたのでした。クックにより補遺された第二楽章以降は、未完成でありながらも生きたマーラーの心理的苦悩が詰め込まれた感覚がするのです。その心理的苦悩はやはり虚無だったのではないか、と想像したりしています。

災害が起こり、戦争が起こる中にあって、虚無について考えるのは贅沢なのかもしれませんが、人間というのは常に苦悩に浸るものなのでしょう。それは、おそらくは所有が一つの原因であり、所有とは、財産や家族友人だけではなく、過去の記憶や未来の想像をも含むものではないか、と想像しています。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

+1

Anton Bruckner

今週来週は、仕事場が少し離れたところでして、いつもと違う通勤路でなぜか永田町と赤坂見附の乗り換えが発生します。しかも有楽町線から丸ノ内線という。この長い通廊は便利なようでいて大変です。最近リモートワーク続きで身体がなまっていることもあり、また荷物が重いこともあり若干応えます。大昔、父が「この通廊は、核シェルターみたいだ」と話していたのを思い出しました。確かに、場所柄、いざというときに政府が逃げて執務するなんていうストーリーを思いついてもおかしくないです。そういえばフィンランドやスウェーデンの核シェルターは半端なく広大と聞いたことがあります。永田町=赤坂見附の比ではなさそうです。

そんななかで聞いたのはこちら。ティーレマンが降るブルックナー4番。やはり、ブルックナーの交響曲の白眉は緩徐楽章が落ち着くなあ、とか、第三楽章のホルンのフレーズ、これドイツ民謡だなあ、なんてことを思いながら。けだるい夜にはぴったりです。ブルックナーの緩徐楽章だけのプレイリストでもつくってみようかな。。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

+1

Richard Strauss

実に冒険のような一日でした。某図書館に出かけ文献を探し、あるいは請求し。

そんななかで聞いた一枚。リヒャルト・シュトラウスの家庭交響曲。
この曲、NHK交響楽団が2009年に演奏していまして、確かプレヴィンが指揮をされていたと記憶しています。前半は、フェリシティ・ロットが歌うカプリッチョだったはずで、私は泣きまくりました。
https://museum.projectmnh.com/2009/10/19214851_8627.php
https://museum.projectmnh.com/2009/10/21050407_8628.php

この家庭交響曲、家庭の様子を描いた曲として有名で、さまざま参考文献などで解説が出ていますが、2009年のN響の演奏では、勝手な解釈をして納得した記憶があります。その後NHKの「らららクラシック」でも取上げられたようで、そのときの解釈を聞いて、あれ、私の思った解釈とは違うな、などと思った記憶があります。しかしながら、まあこのあたりは世に出た作品は、それぞれの解釈において意味が付加されていくものですので、どの解釈が正しいということは、あまり意味がないのです。芸術、ましてや交響曲は論文ではありませんので。ただ、そうした解釈を強要することがだけは避けたいなあ、と思います。作曲は1902年から1903年にかけて。まだ、「サロメ」も「エレクトラ」もできていない頃。39歳で、まだまだこれから進んでいこう、という時代。
音源として聴いているのはこちら。スマートでクリアなのは録音が良いからと言うこともあるでしょうし、もちろん演奏の質が高いからです。指揮はフランスのフランソワ=グザヴィエ・ロト。フランス人が振るシュトラウスはより一層洒脱になると言うことなのでしょうか。

というわけで、今日はこのあたりで。明日も頑張らないと。
おやすみなさい。グーテナハトです。

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Richard Strauss,Tsuji Kunio

現代が暗い絶望的な予感に満された時代であるだけ、私は事柄のもう一つの反面──楽観的な側面を強調したい、と思ったのも、『祝典喜劇ポセイドン仮面祭』に軽やかな気分を加えた理由である。
<よくできた(ウェル・メイド)>ものへの好みが、それなりの危険を持ちながらも、事実性のレヴェルをこえて、感動の秩序をつくろうとする形式意志の一種であることを、とくに戯曲を書きながら、私はよりよく理解していったようにも思う。

辻邦生全集第18巻 401ページ

「ウェル・メイドへの偏愛」というエッセイを読みました。辻邦生全集第18巻に収められた文章です。「ウェルメイド=よくできた」というのは、「ストーリーの見事な作品」であり、「作品に起承転結があざやか」である作品です。「黄金の時刻の滴り」に収められた短篇の一つに、モームをモチーフに書かれた「丘の上の家」という作品がありますが、あのような推理小説張りのストーリーの見事な作品にあたるでしょう。
引用した最初の文章で、「現代が暗い絶望的な予感に満された時代である」に対してあえて、「楽観的な側面を強調」と述べていて、そこにおいて、「ウェル・メイド」なストーリーである「ポセイドン仮面祭」を書いたと見て取れるとおもいます。文学には様々な権能がありますが、こうしたあえて楽観的な側面を強調することで、何かを変えることに繋げるというやり方もあると思うのです。これも戦闘的オプテイミズムの一つであり、文学が現実を超えて現実を動かすために必要不可欠なあり方です。(フォニイ論争とも関連しますが)一般的には「通俗的」と言われ格下に見られることになり、がゆえに、「それなりの危険性を持ちながらも(同401ページ)」と書かれているわけです。

ここで思い出したのが、リヒャルト・シュトラウスのことでした。「エレクトラ」までは先鋭的なオペラを書いていたのが、「ばらの騎士」で、先鋭から離れ、洒脱な人間ドラマを描き始めたわけですが、私はその次のオペラである「ナクソス島のアリアドネ」の第一版に含まれていた「町人貴族Le Bourgeois Gentilhomme」という組曲を思い出します。なにか、こうした18世紀的な小編成オーケストラによる演奏が、なにか時代を逆行しているように見えながらも、あえてそうした洒脱さ、軽妙さを強調することで、逆に時代と戦っていたのではないか、と想像してしまうのです。

私が聴いているのは、ラトルが振ったこちら。なんというか、本当に落込んだ時に聴いてはいけませんが、少し元気になり始めたときにこの音楽を聴くと、心が晴れるかもしれません。明るい日差しの差込む広間でひとりで佇んでいる感じで、おそらく床のニスの甘い匂いがたちこめているはずです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

+2

Edward William Elgar

最近エルガーを聴いていますが、大曲「ゲロンティアスの夢」をきちんと聴いてないなあ、と思い、そういえばCDがあったはず、とゴソゴソとCD棚を探していたところありました、「ゲロンティアスの夢」。DECCAで買った記憶もありましたが、それはブリテン「戦争レクイエム」で、「ゲロンティアスの夢」はEMIでした。サー・ジョン・バルビローリがハレ交響楽団を1964年に振った古い録音。今はワーナーになっているんですね。

ブルックナーやマーラーほどに聴きこんでいないですが、そうか、この曲、実にドラマティックなオラトリオで、 年老いて死を迎える人物が魂となって天国へ行く課程を描いた作品。

天使の導きと、悪魔の激しい嘲笑と教唆の合唱。悪魔の合唱は歌詞の意味を追わなければ格好の良い合唱なんですが、そこにはやはり何かしらの胡散臭さがつきまとっています。で、歌詞を確認すると、やはりね、、という感じ。巧い話には裏があります。以下の歌詞は、現代社会においてもなにか通用する悪魔のささやきのように思い、少しゾッとします。

地獄の業火の恐れ、
憎しみに満ちた炎、
臆病者の嘆願。
彼の値段を教えてやれ,
聖人だろうが構わない。
抜け目ないセンスで、
賃金のためにあくせく働くだろう、
はは!

オペラ対訳プロジェクトより https://w.atwiki.jp/oper/pages/3304.html#2

繰り返し、かついくつかのバージョンで聴いてみて理解を深めてみる必要があるとともに、詩を作った19世紀の枢機卿ジョン・ヘンリー・ニューマンという方もすごい方で、もう少し調べ見ないと行けない、と思った次第です。

さて、また雨の酷い週末になっているようです。最近の雨はこれまでとは違いますのでどうかみなさまお気をつけて。

おやすみなさい。グーテナハトです。

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Richard Strauss

引き続き、緩くトーマス・マン「ファウストゥス博士の成立」を読んでいるのですが、本当にたまたま聴いたCDにリヒャルト・シュトラウスの《メタモルフォーゼン》が入っていて、流れた途端に、これはシンクロニシティだなあ、と思いました。

このアルバムは、ヤノヴィッツが歌う「最後の四つの歌」が聴きたくて購入したものですが、メタモルフォーゼンもなかなかの演奏だと思います。

「ファウストゥス博士の成立」は、戦争末期に米国に亡命していたトーマス・マンが、戦況に触れながら「ファウストゥス博士」をどのように執筆したかの回顧録であり、この《メタモルフォーゼン》は、ドイツ敗戦の直前にシュトラウスがミュンヘンやドレスデンが戦火に崩れたのを悲しみながら書かれたとされています。

いや、それはもう、いままで半世紀を超えて親しんできた街が破壊されるのを見るのは耐えがたいですよね、きっと。これが若者ならまだしも、70歳を超えてこれをやられると相当に厳しいはずです。よく気が狂わなかったな、と思います。まあ、トーマス・マンも同じだとは思います。

手元の資料によれば《メタモルフォーゼン》は、ドイツ敗戦直前の1945年3月に着手され、4月12日に完成。ドイツ敗戦は5月ですが、そのときラジオ放送でベートーヴェン《英雄》第二楽章「葬送行進曲」がながれたそうですが、この《メタモルフォーゼン》の最後もコントラバスが「葬送行進曲」のフレーズを弾いて終わりますので、シュトラウスは未来を予言するかのような曲を書いたと言うことになります。第二次世界大戦のことは、もうしばらくすると記憶が喪われると思われ、名実ともに「歴史」になっていくわけですが、そういう辛さや悲しさは、過去の記録だけではなく、こういった音楽の中にも遺されていくのだろうなあ、と思います。

シュトラウスはゲーテを読んでこの曲の着想に至ったということも手元の資料においては触れられており、これも、なにかトーマス・マンとの親近感を覚えます。「ファウストゥス博士の成立」においては、「ワイマールのロッテ」からの引用がゲーテその人の文章としてニュルンベルク裁判で使われたという逸話がマンによって面白おかしく取り上げられていましたし(「新潮世界文学35 トーマス・マンⅢ『ファウストゥス博士の成立』639ページ)。

「手元の資料」は「作曲家別名曲解説ライブラリー⑨R.シュトラウス」で、四半世紀前に渋谷のタワーレコードで買ったものです。当時、音楽評論家になりたい!と思っていた記憶がよみがえりました。楽理科をうけてみようか、とネットを調べたりしたなあ、と。

それにしても、リヒャルト・シュトラウス、あらためて大好き、と思いました。このウェブログのカテゴリ別の記事数をみると、2021/06/02時点で、ワーグナーが170本、リヒャルト・シュトラウスが161本になっていました。まあ、ワーグナーはさておき、シュトラウスへの愛情はこのあたりの記事数にも表れているのではと思います。魅力は語り尽くせないですが、一言で表せ、と言われれば「洒脱」ですかね……。

それではみなさま、おやすみなさい。

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Edward William Elgar

なかなか昼間は落ち着いて音楽を聴けませんが、夜になってようやく時間ができました。AppleMusicでエルガーのプレイリストを見つけてざっと聴いていますが、いやあ、なんだかいいですね、エルガー。これまでも聴いてなかったわけではありませんが、この一ヶ月ほどで急に私の中で存在感を増しつつあります。AppleMusicのプレイリストの注記には「イギリス版ブラームス」と書かれていて、もし、それが妥当な表現だとすれば、昨年の秋からブラームスに助けられてきた身に取っては、エルガーにたどり着いたのは必然だったのでしょう。

しかし、うかつにもヴァイオリン協奏曲は初めて聴いたかもしれないですね。チェロ協奏曲はあまりに有名ですが。ラトルがナイジェル・ケネディと演奏したヴァイリン協奏曲の静謐な美しさと激しい情感の間を揺れ動く波は半端ないです。
どうもエルガーを聴くと、イギリス的でもありながら、北欧の風景を思い出します。大昔に行ったベルゲンや、フィヨルドの中を船で通った時の記憶がなぜかよみがえります。まあ、スカンジナビアのバイキングが作った王朝もありましたからね。英語もたくさんの言葉が混ざってできていますし。

そうそう、期待のAppleMusicの音質向上ですが、日本時間の2021/06/01の21:18現在においては、まだドルビーアトモスもロスレスオーディオも来ていないようです。以下リンク先に「まもなく登場」と記載されていることもあり、もう少し待たないと行けないようですね。6月1日といっても、多義的ですから。

https://www.apple.com/jp/apple-music/

ということで、もう一晩眠りAppleMusicのレベルアップを待ちましょう。
おやすみなさい。グーテナハトです。

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Johannes Brahms,Running

それにしても良い天気の午前中と、夕立のような雷雨に見舞われた午後、という東京地方の今日という日は、夏が大好きな身に取っては、素晴らしい一日だったように思います。

先日からはじめたランニングは、やっと10回目。足が痛くなり、心拍数が上がりっぱなしだったということもあり、土曜日にガラガラの(本当です。。)スポーツ用品店にランニングシューズを買いに行きまして、まあいつまで続くか分からないから安いシューズを買おうか、とセール品を物色していたところ、店員さんに声をかけれ、試し履きしてみたのですが、なんだかキツい感じで、じゃあこれは?と出されたナイキのシューズ(嫌な予感。。。)を履いてみると、これが本当にフィットして、まるで空気を履いているような感じしかなく(やばい。。)、これおいくらです?と聴くと、やはり予算オーバー。「やれましたね、、、」と言うと、店員さんは「すみません。。」と。ただ、歳もとったので、身体を労らないといかん、と勝手に納得し、やむなく(?)購入。

今日、そのナイキのシューズを履いて走ってみると、定量的に改善していて、心拍数の上がり方が本当に違うのです。これまでは130まで上がってしまい、ペースをセーブしながらだらだら走っていた感じですが、今日は120を上回るぐらいで推移していて、数字として変化がでていました。まあ予算オーバーながらも、心臓への負担を減らして走れるのであればそれに越したことはありません。明日以降も検証してみないと。

走りながら聴いたのは、こちら。レヴァインのブラームス。これまで聴く機会がなかったのですが、AppleMusicに進められたので聴いてみましたが、ドラマティックにまとめられているというのがファーストインプレッションです。もう少し繰り返し聴いてみないと。。ちなみに、このミュシャ的なジャケットが素敵です。

村上春樹は洋楽を聴きながら走るようですが、最近の実績で言うとクラシックで、ベートーヴェン、ブルックナー、ブラームスで走っています。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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