猛禽類を思う──ヴェルディ《レクイエム》をティーレマンで

なかなか時間がある取れない最近です。いろいろなことに身動きが取れず、毎日もがいています。さすがにロボットではないので、スイッチを切る時間も必要。睡眠不足は朝の通勤電車で補い、帰宅後の90分はメンテナンスで消えていきます。

昨夜、夜中に起きて書く時間を作っている感じ。腹痛が酷く、起き上がってしまいました。昨日は久々に法定公休で、新宿を一人で少し歩きましたが、嬉し過ぎて無理をしたようです。

ところで、先日、仕事場のそばの陸橋を歩いていると、ビルからビルへと飛び伝う鳥を見ました。黒く大きめの鳥でしたので、おそらくはカラスでしょう。ですが、なにかその鳥が猛禽類のように思え、ビルを伝いながら、獲物を狙っているように思ったのです。おそらく、ニューヨークだったか、高層ビル郡にに住み着いたハヤブサがいる、というニュースを数十年前に見た記憶があって、その連想でしょう。土地に縛られずに飛び回る猛禽類の逞しさ。

昨日、新宿を歩きながら、何も縛られず街を歩く幸福感を感じました。これが猛禽類の気分? いや、獲物を狙わないだけ違うな、などと思ったり。多摩動物園の猛禽類は広いゲージで安全に飼われていましたが、天井のない空に舞う猛禽類は、本性のままだな、と勝手な想像をしました。

今日はこちら。

ティーレマンがドレスデンで振ったヴェルディのレクイエム。この劇的なレクイエムは初めて聴いたときには衝撃でした。《オテロ》以降のヴェルディの複雑で劇的な響きが心地よいです。AppleMusicのプレイリストで知った音源ですが、重みと厚みがありながら流れもあり、なかなか良い音源です。同じメンバーで《オテロ》を聴いてみたい、と思いました。

明日もかけるか、どうか。

おやすみなさい。グーテナハトです。

3+

音楽を聴く愉しみをあらためて──カンブルランのブルックナー

音楽を聴く愉しみをあらためて発見した気がする。

カンブルランがバーデン=バーデン・フライブルクSWR交響楽団を振った音源群に入れ込んでしまった。たまたまAppleMusicで見つけて聴いてみると素晴らしい演奏だったのだ。

今日はブルックナーの9番。抑制されていながらその中にたおやかで流麗さが備わった演奏。なにか、ドーリア式の円柱群が聳える旧跡に薔薇が咲きほこる場面を想像してしまう。理知的な感覚の中に、まるで差し色のように輝く美しさが介在してくる感覚。デカルト的論理性の中にモネ的な色彩が織り込まれているのだ。

このカンブルランだが、数年前に実演に接していて、多彩な表情と所作でオケを情感的に引っ張っているのが印象に残っている。オケから荘重な音を引き出そうとするとき、カンブルランはまるでルイ王のようにオケの前に君臨し、オケを統率していてた。その挙措は俳優のそれに値する、と思ったのを記憶している。

この音源の中で印象的なのはオーボエの美しさ。何だろうか。この官能的なオーボエは。第一楽章冒頭のオーボエは、なにか身悶えするような官能性に満ちいて、それはもちろんカンブルランの引き出したものなのだが、このオーボエの絶妙なリズム、音色、ビブラートを聴いていると、漆器の名品を愛でるような気持ちになる。どなたがオーボエを吹いておられるのか。少し調べたのだが、残念ながら、バーデン=バーデン・フライブルクSWR交響楽団は現在は統合されてしまい、すぐにはわからない。是非お名前を知りたい。

さて、今日は年度最後の営業日。週が開けると新元号が発表されるという歴史的な場面に立ち会うことになるのだが、なんだかそう言う実感はない。平成という元号の発表に際しては、昭和に慣れた身には、なにか違和感を感じたものだが、次の元号も、なにか初対面のぎこちなさを感じながらも、少しずつ慣れていくことになるだろう。新たな年度に感じる多く変化を飼い慣らし続けるような感覚を持ち続けたい。

それではおやすみなさい。Gute Nacht.

1+

オペラを観る愉悦──《ワルキューレ》を聴きながら

ワーグナーのワルキューレ。

オーストリア読みだとこうだけど、ドイツ読みだと、ヴァーグナーのヴァルキューレになる。どちらも正しいようだが、幼い頃は、ウの濁音に憧れて、ヴァーグナーとかヴォルフとかヴィルヘルムとなやたらと言いたい年頃だった記憶がある。

http://www.dokken.or.jp/column/column22.html

それはそうとして、このワルキューレ、あるいはヴァルキューレ。リング四部作の中で一番好きな作品。他の作品は少しばかりとっつきにくい。あえていうなら、《神々の黄昏》のオーケストレーションの素晴らしさ、というのはあるけれど。

10年近く前の新国立劇場のリング上演の知的興奮が懐かしく、当時は、指環のことばかり当ブログに書いていた記憶がある。その後、新国立劇場のバックステージツアーで、ワルキューレ第三幕の小道具(キャスター)が、舞台裏で転用されていると聴き、あのトーキョー・リングはもう見られないのか、と少し寂しくなり。で、数年前に新たなプロダクションが上演されたが、私は諸般の事情によりこの数年オペラを封印しており、フォローできていない。

ともかく、リング四部作を全て実演で見た、というのは、音楽を聴き始めた小学生だか中学生の頃からの夢であり目標であったから、四半世紀後の実現はやはり嬉しかった記憶がある。ただ、それは、すこし拍子抜けするようなものでもあった気もする。意外にも、こじんまりとした世界ではないか、という感覚だった。

どうやら、中学生の頃に読んだトールキンの「指輪物語」のスケール感を求めていたように思うのだ。全6巻に加えて補遺版まであるトールキンの世界観は、恐らくはワーグナーの頭の中にあり、普通に聴いただけでは垣間見ることもできないのだろう。あるいは、ある種の仕事というのは、手がけてみるとあっけなく終わることがあるが、そうした感覚だったのかもしれない。それは、初めて第九を全曲聴いたときのあっけなさ、マーラーの交響曲を全て聴き終えたときのあっけなさ、にも似ていたようにも思えた。聴くだけなら、時間をかければできるものだ。

だが、その先がすごかった。とにかく、キース・ウォーナーの演出からそこに意図された解釈、あるいは自分が思う解釈を必死に考えた時に現れる無限の世界観に圧倒されたわけだ。簡単な例でいうと、ジークフリートは、映画《スーパーマン》のマークのシャツを着ている。そのSは、スーパーマンでありジークフリートでもある。2人とも、親を知ることなく、この地上で育てられた超人、という共通項がある。だから、キース・ウォーナーはあのシャツを着せたのか、とか。この解釈は不完全でもあり、あるいは誤りでもあるのだが、少なくとも、私はそうした解釈をしたという事実が重要だとなのだ、ということ。そういうオペラを観る愉悦を十全に堪能した。

またオペラハウスに行けるのはいつのことになるか…。だが、必ず行くことになるだろうから、その日を楽しみに待つことにしよう。

本当は、ワルキューレのことを書こうと思ったのだが、思いは横滑りして、ついついオペラの愉しみに着地してしまった。昨日から聴いているハイティンクが指揮をする《ワルキューレ》が素晴らしいのだが、そのことについては次のエントリに委ねよう。

おやすみなさい。Gute Nacht.

1+

ヴェーゼンドンク歌曲集を聴く

リオバ・ブラウンが歌うヴェーゼンドンク歌曲集を聴いているが、特に、《Schmerzen 心痛》に心が奪われる日々。これだけで辻邦生なら短編を書くだろう。

歌詞はワーグナーの不倫相手のヴェーゼンドンク夫人マチルダで、《トリスタンとイゾルデ》との関連が深い相手でもある。その背徳感を感じる。恋愛とはある種の背徳的な要素を持つものだが、その痛みを感じさせるものだ。まさに、本人たちはそれを感じて、この曲を作ったのだろうし、だから、その後、《トリスタンとイゾルデ》が生まれたのだと思う。

リオバ・ブラウンは、ドイツのメゾ・ソプラノ。だが、イゾルデやマルシャリンなどのソプラノもカバーしているようだ。やはり、イゾルデ歌いが歌うヴェーゼンドンク歌曲集は説得力があるということか。ここから二曲ほど《トリスタンとイゾルデ》に転用されてもいることもあるし。

指揮は、私が敬愛し、何度も(良い意味で)泣かされたペーター・シュナイダー。オーケストレーションはワーグナーではなく、フェリクス・モットル。ブルックナーにも師事したらしい。この深みのある憂愁は本当にたまらない。

シュナイダーの指揮は、柔らかくしなやかで、まるで和音が溶け込むような自然な響きを醸し出す。何度この響きに落涙したことか……。まさに、西欧の響きなんだと思う。欧州のオペラハウス、確かミュンヘンのシュターツ・オーパー、あるいはベルリン・コンツェルトハウスで感じた、ホールにオケの音が柔らかく吸い込まれる感覚を思い出す。新国立劇場で聴いたシュナイダーもやはりそういう響きだった。なんというか、非理性的な意見になるが、この響きが、西欧の響き、というものではないか。まめやかで、そつがなく、洗練され、雑味のない、すっきりとした、それでいて味わい深い響き。西欧を無条件に礼賛するわけではないが、貴重な芸術的所産だ。

こういう日々の一つ一つの感動を、先日も書いたように、まるで飛び石を伝うようにして生きている感覚がある。あるいは、油に覆われた海を必死に泳ぐような時に、一回一回の息継ぎに感謝するような感覚。

書き継げないのは、仕事の帰りが遅く、睡眠が足らなくなっているから。たしかに、これは、油にまみれて泳いでいるような感覚だ。そして、今日はなんとか息継ぎできたということのようだ。

1+

ワーグナー《ヴェーゼンドンク歌曲集》

雨の降る休日、ペーター・シュナイダーが降るワーグナーを聞く。この瞬間、幸福。だが、人生は瞬間の連続。 #wagner

今朝方のNHK-FMで、フラグスタートの特集をやっていて、そこで流れていたワーグナーのヴェーゼンドンク歌曲集が心に染み入りました。そこで聴いたのが、リオバ・ブラウンが歌っている音源。指揮は私が何度も何度も(いい意味で)泣かされた、ペーター・シュナイダー氏。

今日の東京は冷たい雨が降りしきっていて、本当に深くこの楽曲が心の中にしみこんで来ました。まるで心臓を取り囲む毛細血管にまで冷たく楽曲が入りこんだ感じ。この憂愁感はたまらないです。ワーグナーがマティルデ・ヴェーゼンドンクと不倫関係にあったときの作品で、詩を書いたのはその当のマティルデ。楽曲自体も一部《トリスタンとイゾルデ》に転用されていて、あの濃密な終末観な楽劇を思い起こさせます。

特に、心に残るのがSchmerzenという楽曲。太陽の没する夕刻のもの悲しさ、あるいは太陽が昇る朝への期待。なにか日夜の繰り返しのように、希望と絶望の間を振り子のように揺れる心うちが、あまりに深刻でダイナミックなオーケストレーションで示されているように想います。

冷たい雨は今もなお降りしきっていますが、なにか静かに机に向かいながら、この曲を聴ける瞬間が幸福に思います。人生は瞬間の連続で、こういう幸福感を感じる瞬間を愛おしむことが生きると言うことなのだろうと考えています。

明日も東京地方は雨。名古屋や大阪も雨ですね。憂愁な3月という感じでしょうか。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

1+

移動に際してマーラー10番を聴く

今年に入ってから、忙しさが続いています。もちろん、忙しさというのは相対的な概念で、私が忙しいと言っているのも、世界の忙しい人々に比べると暇な部類に入るのかも知れない、ともおもいます。結果的には、忙しさというのはタスクの優先順に帰結するもではないか、と思います。がゆえに、このWeblogに書くというタスクの優先度が下がってしまっている、というのが、忙しさが続いている、という先述の表現に対するるひとつの回答だと思います。さまざま時間が足りません。困りました、と言うところです。

今日は、仕事の集まりで、東京から大阪へ日帰り出張でした。我が家では、疲労というものは、移動時間に比例するのではなく、移動距離に比例するのではにか、という説が有力です。東京から大阪まで移動する2時間30分というのは、その時間よりも距離に応じて消耗しているのではないか、と思います。これ、なにか相対性理論と関連するのではないか、と言う発想があります。新幹線の移動であったとしても、相対性理論は有効で、その速度に応じて時間の流れが変わっているはず。疲労と時間に関連があるとするならば、距離が長く、高速で移動すれば、人間の疲労感覚にも影響するのではないか、というSF的発想があったりします。

それで、この2時間半をきちんと使いたいと言うことで、東京へむかう車中で書いています。

聴いているのはマーラーの交響曲第10番。シアトルフィルをトーマス・ダウスゴーが振ったもの。

どうも、昨年末もマーラーの交響教第10番ばかり聴いている時期がありましたが、どうやら今今でいうとこの曲への共感が半端なく高まっているなあ、と感じています。もともとマーラーは好きでしたが、そこにある民謡的なフレーズに苦手意識を感じていたのです。10番について言うと、なにかあまりそうした感覚を受けず、直接、楽曲が胸の中に差し込んでくる感覚を持っています。この音源、すこし弦のポルタメントが聴いていたりして、ねっとりとした感じに仕上がっているように思います。とても共感できる演奏だと思います。今日はすでに③回ほど聴いていると思います。

それにしても、仕事含めてたくさんの出来事がありますが、こうして音楽をしばしきいて心を洗い流すことができる、ということはひとつの幸いだと思います。そうしたいくばくかの幸いを見つける、というのが人生なんだろうな、と思います。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

2+

世界を探す。ワーグナーを聴いて。

今朝から聴いているのが、ティーレマンが振るワーグナーの《パルジファル》。

ワーグナーを聴いたのは久しぶり。と言うか、最近はろくに音楽を聴くことが出来ていなかったのだ。仕事が忙しいと言えば、それまで。だが、なにかほかの理由もあったような気がする。音楽を聴けなかったと言うことも、ワーグナーを聴けなかったと言うことも。

そのとき聴いている音楽というものは、おそらくは、その時々の身体と精神の状態を表しているはずで、例えば、モーツァルトを好んで聴く時は、なにか身体のなかの軋みのような、あるいは錆のようなものを外に出したいときだし、リヒャルト・シュトラウスを聴きたいときは、世界に疲れて、清らかな水で心臓を洗い流したいときだ。ジャズを聴くときは、たるんだ身体を引き延ばして世界に焦点を合わせたいときだ。

では、ワーグナーを聴きたいときの身体と精神の状態というのはどういうものだろう。

私がワーグナーばかり聴いていたのはおそらくは8年前のこと。2010年に新国立劇場で上演されたリング全曲公演を聴こうとしていたときだった。あるいは、東京春祭で演奏会形式のパルジファルを聴いたこともあった。あの頃は、世界の秘密をオペラの中に見いだそうとしていた時期だった。オペラは世界を映し出す鏡だ。100年以上前に作曲されたオペラであったとしても、現代の世界を照影する演出が加わることで、そこに世界認識と真理への道程が現れる。そうしたオペラ・システムに入れ込んでいたのが2007年から2013年ごろだったと思う。

おそらくは、ワーグナーのオペラは世界記述であって、たとえば、《パルジファル》であれば、世界の苦悩と救済が含まれている。あらゆる欲望がもたらす苦悩とそこからの救済。おそらくは、普通に生きていれば意識しなくて済むであろう苦悩が横溢している。たとえば聖槍や性的誘惑からの解脱ともいえる境地が描かれている(書いていて、思ったのだが、仏教的なモチーフで、2014年の新国立劇場《パルジファル》に仏僧が登場したのが自明に思える)。

で、なぜ今ワーグナーを聴きたくなったのだろう。振り返ってみると、巨大な奔流の中に飲み込まれ、包み込まれたい、と思い、ワーグナーをApple Musicで検索したのだった。それは昨日の夜のこと。何か、世界に疲れ果てて、まるで母胎に回帰するかのような気分で、ワーグナーの音源を探し求めていたのだ。

そこで、昨夜聴いたのが、ペーター・シュナイダーが振る《トリスタンとイゾルデ》。シュナイダーは大好きな指揮者だ。だが、意外なことに、いつものような高揚した感動がなぜかなかったのだ。

今朝になって聴いたのがティーレマンが振る《パルジファル》。最初はなにか冷め切ったスープを飲むような、なにか白けた感覚だけだった。ヘッドフォーンで聴くオペラはなにか滑稽なものにも思えた。オペラハウスで、暗い客席に幕の合間から差し込む光に打たれる瞬間はなににも代えがたいが、朝の満員電車の中で、ボリュームに気を遣いながら聴く《パルジファル》には、ミニチュアの世界遺産の模型を見るような不自然さがあったのだ。

だが、地下の駅から階段を登り切って地上に出て、思いきってヘッドフォンの音量を上げたとき、ワーグナーの奔流に包み込まれた感覚に襲われたのだった。

ちょうど《パルジファル》の第二幕で、クンドリの誘惑にパルジファルが耐え、「アンフォルタス!」と絶叫するシーン。後付けだが、なにか世界に抱きかかえられるような感覚だったのだと思う。音楽と一体となった瞬間だったのかもしれない。

地下の駅から仕事場までの10分間、ワーグナーの和声に包み込まれながら歩いたとき、そこに懐かしさを覚えたのだった。母胎に回帰、とさきに書いたが、まさにそうした感覚で、居るべきところに居るのだ、という感情だった。帰るべきところを見つけたような、なに安堵にも似た感情だった。そして、そこでなにか新しいものが見つかるのではないか、という期待のようなものを感じたのだ。

それから、雑巾のように絞られながら、仕事をした。窓の外には雪がちらついていた。夜になって、ようやくとくたくたになって、頭と眼の痛みに耐えながら仕事場をでて、地下の駅に向かう通路を歩きながらふと思ったのだ。もし、ワーグナーが存命であれは、おそらくはノーベル文学賞を取っていたのではないか。音楽家でもあり文学者でもあるワーグナーの音楽とテクストは多くの解釈を可能とするユニバースとでも言うべきもの。あるいは、宇宙への入り口にも思える。その狭い入り口に頭を突っ込んで、這いながら進んでいくと、つかみどころのない、豊潤という言葉でしか表すことのできない存在があるようだ。掴もうとすると離れていき、離れると寄ってくる。

ワーグナーを聴く時は、おそらくは世界を探しているときなのだ。

ワーグナーを聴いていた8年前もやはり世界探しをしていて、その後、さしあたりの居場所を見つけたのだろう。だが、今になってまた世界探しをしなければならない時期が来ている。そういうことなのだろう。

夜の列車はやはり人が多い。さすがにヘッドフォンの音量は絞るしかない。だが、今日、帰宅し、静かに机に向かう時間を持てるとしたら、もう一度《パルジファル》を聴いてみよう。

2+

過ぎゆく時のはかなさを感じながら──辻邦生も観たカルロス・クライバー《ばらの騎士》

どうも、大晦日というと、ヨハン・シュトラウス《こうもり》を思いだしてしまいます。話の設定が大晦日から元旦射かけてのエピソードだからということで、ドイツ語圏の歌劇場で上演されることが多いとのこと。

確かめてみると、確かに。2018年12月31日、ウィーン、ブダペスト、ベルリン、ブラチスラバ、ローザンヌ、ケムニッツ、ダルムシュタット、デュイスブルク、フライブルク、ノルトハウゼン、シュトラールズントで《こうもり》が上演されます。

しかも、ウィーンは、国立歌劇場とフォルクス・オーパ両方で。

国立歌劇場のアイゼンシュタインは、新国立劇場で活躍していたアドリアン・エレートです。なんだかウィーンに上り詰めて良かったなあ、と。ロザリンデは、アンネッタ・ダッシュですか。この方は、バイロイトでも歌っている方ですが、2003年の新国立劇場《ホフマン物語》に出ていたなあ、とか。

しかし、取り上げるのは、《こうもり》ではないのです。私の中では、《こうもり》の倒錯した感覚、つまり、女中が女王を演じるとか、変装した妻を誘惑するとか、そういう倒錯の感覚や、ウィーン的な絢爛な演出という観点で、リヒャルト・シュトラウス《ばらの騎士》を思い出すのです。

シュトラウスつながり、というわけではなく、どうも、ウィーンの爛熟した貴族社会を描いているという観点で、あるいは、その貴族社会の没落の兆しが仄めかされているという観点で。

あるいは、カルロス・クライバーの《こうもり》と《ばらの騎士》双方が映像化されているので、なにか関連を感じているのかも。

(前振りが長くてすみません)

私が、《ばらの騎士》を初めて見たのは、2000年頃だったか、NHKBSでカルロス・クライバーがウィーン国立歌劇場で振った映像を見たからです。VTRで録画しましたが、今ではもう見られなくなってしまいました。元帥夫人がフェリシティ・ロット。オクタヴィアンがアンネ・ゾフィー・フォン・オッター。ゾフィーがバーバラ・ボニー。頭を殴られたかのような衝撃を受けたのを覚えています。この映像を見て人生が変わった人がいたということも聴いたことがあります。私は、VTRが観られなくなったのを機に、DVDを買いました。

カルロス・クライバーがウィーン国立歌劇場を率いて来日したときも、やはりこの《ばらの騎士》を演奏したそうです。1994年のこと。私はそのころ、まだオペラのことは全く知らず、下手なジャズ・サックスを吹く毎日でしたので、そうした公演があったことすら知りませんでした。ですが、その後、日本でもクライバーの《ばらの騎士》が聴けたという事実を知って、本当に驚き、あと10年早く生まれていたらいけたのかも、と思ったものです。

今日、大掃除のあいまに、辻邦生が信濃毎日新聞に連載していた記事をまとめた「辻邦生がみた20世紀末」をつまみよみしていたのですが、その中に、辻先生がクライバーが日本で振った《ばらの騎士》を見に行かれたという記述を見つけて驚きました。

ちょうど昨日、twitterを見ていたところ、件の公演のチラシを見ていたこともあり、なにか引き寄せてしまった感覚がありました。

それは1994年10月28日に掲載された「オペラの至福に酔って」という題が付された文章で、クライバーの「ばらの騎士」のチケットをとるのが絶望的で、つてを頼んだがダメだったのだが、キャンセル待ちをしていたら、チケットが入手出来て、見に行かれた、というものでした。アバドも一緒に来ていたのですが、アバドは「フィガロの結婚」と「ボリス・ゴドノフ」を振っていて、それらも見に行かれたようです。

クライバーの《ばらの騎士》に関しては、以下のような感想を書いておられます。

甘美なウィーンの頽廃美すれすれの円熟芳醇や舞台。時の経過を嘆く公爵夫人(フェリシティ・ロット)のアリアは西欧文化の至高の瞬間。クライバーはレース織りのような繊細な音楽を心ゆくまで歌わせた。つくづく芸術は、人間が生きるために欠かさないと思いつつ過ごした秋の幾夜かであった。

レース織りのような繊細な音楽、というのが、まさにそうなんだろうなあ、と思います。何か、伝聞と歴史がつながった感覚があります。

私も、今晩は《ばらの騎士》を観て、少しは明るい気分になって、過ぎゆく時のはかなさを感じながら、新年を迎えたいと思います。

それではみなさま、よいお年をお迎えください。本年、ほんとうにありがとうございました。また来年もよろしくお願いいたします。

3+

淡い霧に包まれて──ハーディングの振るマーラー交響曲第10番

連休があけてきょうは仕事。掛け値なしに毎日大変です。心労という言葉がありますが、心の労働をしているという気もします。まあ、適宜やるのですが。

で、今日見つけたのが、ハーディングがウィーンフィルを振っているマーラーの交響曲第10番。ラトルがベルリンフィルを振ったバージョンと同じく、クック版第三稿第二版。2007年の録音。

まだ一度しか聞いていないので、語る資格はあまりありませんが、いやあ、これは本当に、淡い霧に包まれた街を眺めるような、そんな気分になります。ビロードかシルクのようになめらかで光沢のあるつややかなサウンドだなあ、と感じます。ウィーン楽友協会での録音。2007年10月23日だそうです。

しばらくは、この音源を聴いて、理解を深めてみようと考えています。指揮者の違い、オケの違い、ホールの違い。いろんなことが分かるはず。

さて、あと1週間で2018年も終わり。なんだかいろいろあった一年間ですが、あと1週間、出来ることをやろうと思います。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

1+

前世の記憶の錯角とともに──マーラー交響曲第10番

先日、マーラーの10番の第1楽章を聴いて、全曲版が気になり始め、さしあたりApple Musicで聴くことのできるラトル&ベルリンフィルのバージョンを聴いています。まだまだ、なにか理解は足らないですね。これまでも何度か聴いたことはありますが、その他のマーラーの交響曲に比べるとあまりに聴いた記憶が少ないです。

それで、このところ、クラシックと言えばほとんどこの曲ばかり聴いています。何度聞いても「果てしなさ」しか感じません。つまり、まったく分かった気がしない=飽きないのです。終わりを知ることなく、ただただ酩酊するだけ、と言う感じです。今日も大掃除をしながら何度も聞いていました。聴けば聴くほど新鮮な発見があるのです。神学の文脈における霊性という言葉が、なぜか心に浮かびます。この曲に彼岸を感じるというご意見を聞いたこともありますが、なにか、宗教的な文脈での死のイメージを強く感じるのです。

もちろん、この曲が書かれた背景というものもあって、妻であるアルマの不倫がマーラーを苦しめた時期にこの曲が書かれたなど、さまざまなのですが、そうした背景にとらわれずに聴いてもそこに何らかの意味を見いだしてしまうわけです。バスドラムとチューバの陰鬱なフレーズは、解説によれば、不倫相手が訪れたときの心のショックと言うことになっていますが、私にはどうにも天国の入り口でをノックして、裁きを受ける時の判決を知らせる音にしか聞こえませんでした。

それは、もしかするとすでに見知った前世の記憶なのかも知れません。ほかにも見覚えのある街を思い出す気がするのです。濡れた石畳とか、曇りきった港から出港する大西洋航路の客船とか。あるいは、マーラーのほかの交響曲の一節が聞こえたり、あるいは後代の作曲家であるベルクを思い出したり。

ウィキペディアによると、このラトルの演奏はクック版第3稿第2版を使っているとのこと。そうか、10番の補遺版はこんなにあるのか、と、ウィキペディアの記事はなかなか興味ぶかい情報が満載でした。マーラーも死に際して、扁桃炎にかかっていた記載も見つけまして、先日ひどい急性扁桃炎で苦しんだこともあり、すこし親近感を憶えたりもしました。

さて、今日は冬至。もう一息で正月ですか。早いものです。明日からは夏にまっしぐら! 早く夏になれ!と思います。

それでは、みなさまどうかよいクリスマスを。おやすみなさい。グーテナハトです。

1+