Gustav Mahler

いろいろなことがあった1日。

昨日からは、マーラー。それも、交響曲第10番クック版。しかし、よくここまで未完成の譜面からオーケストレーションまで再現したものです。未完成楽曲の完成という話は、このマーラーの第10番もそうですし、確か、アルバン・ベルクの「ルル」とか、プッチーニの「トゥーランドット」などもあるかと思います。あとは、モーツァルトの「レクイエム」もそうでした。いずれも、それをデフォルトとして聞いていますので、そこに違和感を感じることはないのですが、実際はどんな楽曲になったのかしら、などということを考えるのもいいのかもしれません。

この第10番に関して言えば、有名な第一楽章はかつてからよく聞いていましたが、私がApple Musicを聴き始めてからは、デリック・クック版の全曲版を気軽に聴けるようになって、ありがたい限り。クック版以外にもあるようです。私はマーラーの交響曲にある民謡的な感じとか、スケルツォ楽章はあまり得意ではありませんが、この曲の第一楽章と第5楽章は、深淵悩みを覗くようで実に素晴らしい曲だと思います。

もう少しこの曲を、指揮者を変えたりして聞いてみようかな、と。この深刻な感じが「三体」によくあうんです。

それではまた。おやすみなさい。グーテナハトです。

おまけ。こちらは紅麻辣(マーラー)担々麺。マーラーと入力すると麻辣と変換されるので。。

Gustav Mahler,Sports

いつもは、野球を見る時間もありませんが、今日は流石に見ることになりました。ドジャーズの勝利を同時間に味わいました。応援している方は見ているだけですので、楽なものですが、それでもどちらが勝つのかわからない、という緊張感だけでも同時体験することは、心を鍛えることにもなることだと思います。これまで、あまりスポーツ中継に時間を取ることもありませんでしたので、良い思い出になりました。

さて、昨日、カラヤンのマーラー交響曲第5番を聞いたので、今日は別のアルバムを聴いてみようと思いまして、ベランダのがサイモン・ラトルが振った。交響曲第5番。ベルリン・フィルの就任記念演奏会だったと思います。

あの時は第3楽章でホルン奏者がステージの前面に出て、まるでホルン協奏曲のような演奏を見せてくれたのを覚えています。もう30年ほど前のことでしょうか。時が経つのは早いものです。さすがにこの第3楽章の演奏は、スリリングで、当時、NHKのBS放送でオンエアされたのを見て、こんな演奏があるのかと驚いた記憶があります。もう懐かしすぎてなんだかなと言う感じ。

最近のオーケストラ界で言うと、どんな演奏があるのかしら。新しいオーケストラを味わうことも、野球をはじめとしたスポーツ番組を見て、関心を満たし、心を鍛えるためには、人生の構造を変えていく必要があるのかもしれません。

ということで、今日はこの辺で。おやすみなさい。グーテナハトです。

Gustav Mahler

なんだか、マーラーのアダージェットを聞きたくなり、Apple Musicで検索をしてみました。そういえば、カラヤンが振るアダージェットはあまり聞いたことがないなと思い聞いたのですが、いやーほんとに素晴らしいなぁと思いました。ここまで耽美的な美学。

ちょうど午後も深まった頃、東京の空から雲は消え、琥珀色の太陽の光が満ち満ちていました。このような美しさの中に本質的なものがあるのではないかと思うでした。

それでは。少し早いですが、おやすみなさい。グーテナハトです。

Gustav Mahler

Apple Music のレコメンドに表示されたハイティンクのマーラー。

Mahler 7 Haitink
Mahler 3 Haitink

最晩年の録音ですが、素晴らしいのです。先日、7番を聞き、今また3番を聞いていますが、なんというか、ただ、深く美しい藍色であったとしても、例えば藍染のような、実物に触れないとわからない淡く輝く織り目の輝きのようなものまでが現れていると思います。

デジタルではない、その場その場のフラクタルな輝き。じっと聞き続けてそんなことを思いました。

AIに関する情報が喧しい今日この頃ですが、だからこそ動かぬものへの憧憬が高まるばかりです。

それでは。

Gustav Mahler

7月に入り途端に環境が変わり忙しさに拍車がかかりましたが、なにかその忙しさに慣れつつある今日この頃という感じです。

文章を「まるでピアニストが書くように」書く、ということを、尊敬する辻邦生先生はおっしゃっていますが、まあ、辻先生ほど出ないにせよ、書くことはライフワークですので、諦めずに書かないといかんな、と思います。

このところ、なにか生きると言うことに虚しさを感じ、それは多分、あまりに忙しさにあって、音楽を聴いても何か砂を噛むような、なんともいえない手応えのなさがあったのですが、今、この瞬間において、なにか虚しさがすっと遠ざかった、と感じました。もちろん虚しさは何度も何度も波のように押し寄せるものですが、そのときに掴むものや立つところがあれば、波に押し流されずに済むものです。生きると言うことは、そうした掴むものと立つところを探し、手に入れるという営為である、と思います。かつては、なにか幸福という空気を息継ぎをするようにすっている感覚というものがありましたが、それと同じなんでしょう。なぜ、このような虚しさを一瞬でも遠ざかったと感じたのか。それはやはり音楽であって、ラトルの振るマーラー交響曲第10番を聞いたからでした。昨年の冬はアバドが振るブラームス交響曲第1番に支えられるように生きてきた感があり、なにかあのオプティミズムに彩られた感覚が素晴らしく感じたのでした。しかし、それもなにか昨今の感覚とは折り合わず、いくらアバドのブラームスを聴いても、虚しさを洗い流すには至らなかったのでした。

そんななかで、Apple Musicが自動で生成するプレイリストを何気なくクリックして流れてきたのが、ラトルが振るマーラー交響曲第10番クック版の第二楽章でした。あまりにフィットする感覚はなんでしょうか。不協和音と転調に彩られた複雑で美しく雑然とした軽快な曲調は、なにか現在の混濁した虚しさに寄り添うもののように感じたのでした。クックにより補遺された第二楽章以降は、未完成でありながらも生きたマーラーの心理的苦悩が詰め込まれた感覚がするのです。その心理的苦悩はやはり虚無だったのではないか、と想像したりしています。

災害が起こり、戦争が起こる中にあって、虚無について考えるのは贅沢なのかもしれませんが、人間というのは常に苦悩に浸るものなのでしょう。それは、おそらくは所有が一つの原因であり、所有とは、財産や家族友人だけではなく、過去の記憶や未来の想像をも含むものではないか、と想像しています。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Gustav Mahler

文化の日は晴れの特異日だったはずですが、東京地方は曇り空で、寂しい文化の日でした。もはや文化の日という新鮮味も感じられない茫漠とした感覚にさいなまれていましたが、こんな時には音楽を聴かないと、と思い、思いついたのがこちら。

マーラー交響曲第10番嬰ヘ長調クック版第三稿。

10年ほど前、マーラーの死に至る道程にとても興味を持ち、体調を崩してニューヨークからウィーンに帰り着きそこで息を引き取るというストーリーが映画のように思えたことがありました。

雨の降りしきるニューヨーク港に馬車でやっとの事でたどり着き、傘もさせずに、雨に打ちぬれながらタラップにようやくたどり着き、助けを借りながらようやくとタラップを昇る姿が目に浮かんだものです。

マーラーの最後の演奏会は、カーネギーホールでニューヨークフィルを振っているのですが、その演目ははブゾーニの「悲劇的子守歌」。母親の棺によりそう男の子守歌、ですからね……。

マーラーは51歳で亡くなっていますから、まあそろそろその気持ちもわかってくる時分になった気がしています。勝手な想像ですけれど。

ともかく、最近、世界の見え方がこれまでとは劇的に変わります。相転移ともいえる状態。ベルグソン的に言うと創造的進化。今が妥当なのか、遅すぎるのか、早すぎるのか。やれやれ。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

Gustav Mahler

まあ、たまには飲むのも許されるでしょうか。世界を笑い飛ばしたいことも多々あります。ウィークデーはひたすら働き、明日も深刻な1日になりそうなので、まあ少しの間脱力しても罰は当たりますまい。

ということで、大地の歌。

最近、マーラーを聴くと落ち着くようになってしまいました。何か、世界の混濁をそのまま表しているような気がします。今日もメータやラトルのマーラーを渉猟していたんですが、ワイン飲み始めたのと「大地の歌」を聴くのが同時になってしまい、なんだか運命的だなあ、などと思いながら。

やれやれ、アルコール飲みながら、第5曲「春に酔える男」を聴くのもなかなかオツなものです。

もう 歌えなくなったら
今一度 眠りに堕ちよう
春が一体 なんだというのだ
このまま 酔わせてくれ

人生とはこういうものです。乾杯。

それでは、みなさま、グーテナハトです。

Gustav Mahler

やれやれ、1週間が終わりました。いろんな意味で終わったという感覚も。

仕事のあとの静かな時間は、マーラーの9番をラトルの指揮で。ベルリンフィルを振った比較的新しい盤。AppleMusicでありがたく。

ラトルの、振幅のある、ある種生々しい躍動が、聴くほうの心の振幅に共鳴して、心臓の周りを音楽の膜にぴったりも覆われている感覚。

第一楽章の後半に、トロンボーンとフルートの二重奏(多分)があるのですが、あの部分、本当に恐ろしい。「復活」を思わせるメロディをフルートが吹いたあとに、悪魔的な執拗さでフルートを追いかけ、揶揄し、遮るトロンボーン。天使を追い回す悪魔ではないか。そんな感覚を覚えるのです。復活を妨げようとする悪魔。それに負けずに、天使は空を舞う、というような。

何かしら悪魔的な要素は、どこにでもあって、戦い続け、そうやって第一楽章最後に到る静謐は、戦いの疲れを癒す牧歌的風景であるかのような気がします。アルカディアの風景。

しかし、そこにはパンがいるのですが、そのパンこそが、キリスト教にあっては悪魔の原型ともなるという相対性があるわけですが。悪魔か天使か。それは価値観と解釈でしかないのでしょうけれど。

ともかく、このマーラーの9番に織り込まれた静謐は、砂漠に染み込む水のように心に入り込んできます。それだけは現時点では唯一の真理です。

というわけで、もう一度聞き直しながら、今日の夜更を楽しもうと思います。

みなさまも良い週末の夜をお楽しみください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Gustav Mahler

今日はラトルの指揮で聴くマーラーの「復活」。

マーラー「復活」を聴くシリーズになってきていますが、こう言ったテーマを作って書くのは、忙しい中にあっては、テーマを決める苦労がなくなり、ありがたいです。
(昔、ブラームスの交響曲第2番を聴くシリーズをやりましたが、あの時も楽しかったです)

ラトルのテンポ感がたまらなく素晴らしく、随分と楽しんでいます。ラトルはマーラー指揮者として若い頃から有名だったとのことで、大昔に買った音楽之友社のムックでも大きく取り上げられていました。バーミンガム市交響楽団の指揮者だった頃。

当時はあまりラトルを聴く機会はありませんでしたが、AppleMusicを使うようになってからは、心置きなくたくさんの音源を聴けるようになり、ラトルの演奏も随分聞いた記憶があります。

音源を聴きながら目を瞑ると、ラトルが恍惚とした表情を浮かべながら、タクトを静かに操る様子が見えてきたりします。

音楽を聴いて、こうしたことを書いたり想像したりできるというのはとても幸せなことだなあ、と改めて思います。


やれやれ、それにしても、随分と書くことから遠ざかっていたので、キーボードを打つ手もなんだかぎこちなく、困ったものです。尊敬する辻邦生は「ピアニストが毎日弾くように」、文章を毎日書いていたのだそうですが、あやかれないものですね。

会社では文章を書きますが、会社の文章とここに書く文章は全く違います。正直いうと、会社で書く文章は昔から違和感を感じていて、大嫌いで、嫌々苦労しながら書いています。

だからと言って、ここに書く文章がうまいかと言われると、今はよくわからないです。戻していかないと……。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Gustav Mahler

今日の「復活」はアバドです。

好きな指揮者と聞かれると、何人かの名前が浮かびます。

チェリビダッケ、クライバー、ラトル、シュナイダー、そしてアバド。

同曲異演を味わうことができるようになったのは、私は少し他の方より遅かったかもしれず、確か社会人になってCDを少しは帰るようになってからだったと記憶ししています。

指揮者の好みはこの同曲異演を味わうことができるようにならないと感じることはできないはずです。

学生の頃は、同曲異演なんて贅沢だと思っていましたが、ある時、清水の舞台から飛び降りる思い出、同曲異演のCDを買ったことがあり、それがアバドのブルックナーだったと記憶しています。

それ以来、何かアバドの演奏には親しみつづて、アバドが好きな指揮者になったなあ、という思いがあります。触れると消えてしまうような繊細さと優美さ、というのが私がアバドに感じる思いです。この演奏もやはりそうした優美さを感じました。特に第二楽章。西欧の柔らかい光という感じ。

こんな、過去の記憶を振り返るのも何かな、と思いながらも、昨日からブログのテーマは「復活」になっています。これは何か私のリハビリのようでもありますので、少し気が引けますが…。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。