Miscellaneous

うーん、なんだか怒濤の二週間を過ごした気がします。怒濤はまだ続くのですけれど。

この二週間、仕事をしつつ、いろいろなことがあったなあ、と振り返りつつ。。

そんななかで淡々と続けているのが、AppleWatchを使って体を動かすことです。

毎日340キロカロリー分体を動かし、30分ワークアウトをして、12時感以上立ちましょう、という目標を達成しよう、という心がけをAppleWatchを使っているこの5年半やり続けた感じです。

目的は健康維持ですが、いつの間にか、ワークアウトを行うことが目的になっていたりしますが、まあ、トータルで考えると、心身の健康に寄与するものですから、いいんでしょうね。

一定の目標を達成すると「バッジ」がもらえたりしまして、まあバーチャルなバッチではありますが、いい意味で動機付けになるので、無邪気に頑張るのはありでしょう。数年前にはやった「ゲーミフィケーション」のようなものです。

ということで、明日もせっせと、Apple Watchにをにらみながら、身体に気を配ろうと思います。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

 

Tsuji Kunio

そうそう、初日の出、で思い出しました。日の出のひかりを曙光とも言います。この言葉を先日「日本国語大辞典」で調べました。すると、例文に辻邦生の「北の岬」が登場していたのでした。

この引用は、修道女マリー・テレーズがが最終場面で語る言葉です。

それはいま、何かある光のような者を感じているからなんです。それは光というより、光の予感のようなもの、夜明け前の曙光の先ぶれのようなもの、と言った方がいいかもしれません。そうなんです。それはさっき、あなたが私にふれて下さったとき、私のなかに訪れてきたものでした。私はあの瞬間生まれてはじめて味わうような、精神の高みへ──目のくらむような高みへ、運び去られたのを感じました。その瞬間に、私は、あたなへの愛をこえた愛を、その光をもたらす至高な存在への愛を、はっきりと感じることが出来たのです。(中略)その光の下では、私たちの生の永遠が信じられる、そうした至純の頂きでした。そうなんです、私は、真に永生の光を感じたように思います

北の岬 辻邦生全短編1 346ページ

それから続くマリー・テレーズの独白は、この光に触れる至福を語り、この光とはすべての人々に分け与えられている、と言います。そして、だからこそ、誰かが持ちこたえて、「誰かが貧窮や悲惨のなかにいって、人間の魂の豊かさが、眼に見えるものや、物質だけで支えられているのではないことを証ししなければならないんです」とマリー・テレーズは語るわけです。(同 347ページ)

決して、魂の豊かさは、経済的、物質的な要素だけで成立するわけではありません。あるいは、この無私の愛ともいえる境地、誰にも理解されず、時に狂気とも思われるような無私の奉仕が人間の証のためには必要なのであり、が故に人間が救われるのだ、という境地……。

辻邦生がパルテノン神殿を見て考えたこともやはりそうだったのではないでしょうか。不毛な岩山に、燦然と築かれたパルテノン神殿は、人間のを支える魂の豊かさを象徴するものであり、不毛な土地であったとしても、魂の豊かさ、精神の高貴さが最初にあれば、パルテノンの美が成立し、それが人間を支えるものとなる、と辻邦生は考えたと思うのです。

まず最初にあるべき姿を求めると自然とそれが成立するという、昨日も書いた因果の共時性のようなものをここにも感じるのでした。

というわけで今日も遅くなりました。今日から仕事始めの方も多いと思います。コロナの新規感染者数の急増で緊急事態宣言が、という状況もあり、気が抜けない毎日が続きますが、収束を信じ願いたいと思います。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Richard Wagner

今日も聴いているニーベルングの指環。「神々の黄昏」まで到達しました。丹念に訳文と照らしながら聴くと言うことはせず、いろいろなことをやりながら、お風呂の中にも持ち込んだりして聴いていますが、それにしてもすごいパワーだなあ、と感じます。
ちょうど、辻邦生の文章を探していたときに、「美神との饗宴の森で」を開いたところ、本当にたまたま辻邦生がニーベルングの指環について語っている小論に行き当たりました。「ワルキューレの陶酔」という小論です。
こういう一節がありました。

こうしてワーグナーは結末の「死と救済のモティーフ」をより強く響かすために、物語を発端へ、さらにその起源と遡らせて、ついに『ラインの黄金』から作曲を始めることになったのだ。(中略)トーマス・マンはこうした創作方法を劇よりも叙事詩に近いものと見ている。事実、彼の長編「ブッデンブローク家の人々』の構想の仕方と『指輪』のそれは奇妙によく似ている。

「ワルキューレの陶酔」 「美神との饗宴の森」174ページ 

今日、なぜ「美神との饗宴の森」を手に取ったかというと、辻邦生の言葉で「真の客観は主観を突き詰めた先にある」といった趣旨があったことを思い出し、その言葉を読んだのがちょうど昨年の夏頃で、メモをとっておらず、さて、どこに書いてあったかな、本を探していたから、です。

知られているように、ワーグナーは、元々は「神々の黄昏」をジークフリートの死をクライマックスに据えて構想し、その前史を作る形で、「ジークフリート」、「ワルキューレ」、「ラインの黄金」と構想を進めていったのです。この話を読んで、私は「小説への序章」の最終場面で語られていたことを思い出したのでした、つまり、物語主体とは、未来までも過去に属せしめる主体であり、あらゆる未来に先駆けて未来である主体である、という文脈です。経時的に語られていくストーリーではなく、論理関係が形作られるプロットとしての物語であり、論理関係とは、論理においては一瞬で波及するものであるがゆえに、未来と過去が共存する物語総体となりうる。「空間的にも時間的にも窮極的な「終り」を包み込む物語主体が、相互主観性を根拠づける意味の実態」となる、と。辻邦生全集第15巻 162ページ近辺の議論です。

さらに、この引用部部をよむと、なにかニーベルングの指環のことを語っているように思えてきます。

小説こそは「嘆き」の徹底からうまれてくる時間の窮極的な「反転」によって現前する「祝祭としての時間」である。小説は読者にかかる時間のもつ積極的な効果通し「物語的形態」という全一的な同体感を与える装置によって時代の達成した、眼に見えない本質の生を生活させるところに、より本源的な役割をもつ。

辻邦生全集第15巻 164ページ

このあたりの、主観と客観、過去と未来、言葉と存在、といった二元的要素を、普通の感覚とは逆転させるというテーマが、辻邦生の思想の多くにあるように思います。昨日の引用もやはりそうです。パルテノン体験にも、こうしたテーマが隠れています。

あけましておめでとうございます

この反転の構図を整理しながら、それをどうやって物事と結びつけるかが、今年のテーマだなあ、と思います。
時間切れですね。。今日はこのあたりで。よい週末の夜をお過ごしください。
おやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous,Tsuji Kunio

あけましておめでとうございます。

昨日、ゆくとしくるとしを書いたかと思ったら、それから半日もたたないうちに、謹賀新年となりまして、面はゆさもありますが、一つの区切りとして年が明けました。
年頭にあたり、尊敬する辻邦生の一節より。

人間にとって言葉は生命であること、その事実は、言葉が単なる伝達の手段だと思い込み、言葉の不正確さに悩んでいた私に大きな衝撃を与えた。眼から鱗が落ちるような気持ちだった。在るものを言葉で言うのではなく、言葉によって存在をつくるのだということが、ある震撼をともなって、自覚できたのである。

「海峡の霧」304ページ

昨年の年末に駆け込みで読んだ辻邦生作品の一節。昨年は言葉というものの力を学びました。
なかなか書く時間もありませんでしたが、書くことも読むことも大切なことですので、長期戦で取り組もうと思います。どうやらまだまだ人生は続くようです。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。