Tohmas Mann,Tsuji Kunio

 辻邦生が小説を書くにあたって参考にしていた本はなにか、という問いに対して、奥様の辻佐保子さんはトーマス・マンの「ファウストゥス博士の成立」を挙げておられました。これは、1994年の辻佐保子さんの講演会で直接肉声をもって私が聴いたことでした。早速この「ファウストゥス博士の成立」を購入したのを記憶しています。確か池袋の今はなきリブロにて。定価で買いましたので今確認すると4,500円もしていたようです。

 その後、ずっと書棚に収まっていてなかなか読む機会もなく、という状態でしたが、今週から少しずつ読み解きを始めました。

 マンが「ファウストゥス博士」を書き始めたのはアメリカ亡命中の1943年ですが、その当時の日記を引用しながら、「ファウストゥス博士」執筆にいたる状況をドキュメンタリーのように淡々と振り返るルポルタージュと感じます。ヨーロッパ戦線やアフリカ戦線の状況が、ロンメル、モンゴメリ将軍といった聞き知った人物名や、ソロモン海戦という地名とともに書き記されつつ、アメリカ国内のパーティの様子や、孫との団らんといった、戦時下とは思えない状況も書かれていて、その現実世界における戦争と平時のアンバランスを感じつつ、さらに、「ファウストゥス博士」のなかにおいても、現実と虚構がいり混ざる感じが、臨場感とともに書かれていて、これはこれで一つの文学である、と感じました。

この作品に付きまわっている独特な現実性の特色を示すことなのである。その独特な現実性というのは、一面からみれば技巧なのであって、レーヴァーキューンなる人物の作曲や伝記という虚構を、厳密に、煩瑣にわたるほどに、現実化するための遊戯的な努力のことであるが……

小説の人物と現存の人間とが現実性においても非現実性においてももはや区別がつかないようにしてしまう

それが現実のものらしく思われて、耳に聞え、本当のものと信じられる

引用したこれらの文章は、虚構を現実として見せることがこの作品の特性である、と見ています。

 これは、本当に辻邦生が小説を書く姿勢そのものだな、と思います。辻文学は理想すぎる、ということが言われますが、理想という虚構を厳密に、煩瑣にわたるほどに、現実化していて、逆に、現実を理想のために、虚構のなかで現実化することもあるはずです。昨日書いたフィレンツェのホテルも、看板の出方が異なっていたり、駅から少し離れていたりと、現実のレオナルド・ダ・ビンチホテルとは異なっているのですが、もしかすると、辻邦生の文学的「現実」においては、それが「現実」であったということなのだ、と思います。

 出典は差し控えますが、辻邦生は、小説で描かれた名勝に小説の読者が実際に行ってみる、という行為を否定的に捉えていたことを思い出しました。小説に描かれた名勝は、小説の中における名勝であって、現実の名勝とは全く断絶しているわけです。

 おそらく、一般的には現実と小説の中の「現実」(文学的「現実」)は同じであるべきで、そうでなければ、批判される向きがあるのかもしれませんが、それは区別して考えるべきでしょう。

 それにしても、この「ファウストゥス博士の成立」に登場する人物達は、有名人ばかりです。アドルノ、ブルノ・ワルター、アルトゥール・ルビンシュタイン、ストラヴィンスキー、ホルクハイマー、フランツ・ヴェルフェル・リトヴィノフ、パウル・ベッカー……。

 華麗な社交ととるか、亡命者たちのグループとみるか……。いずれにせよ、多くの才能がアメリカに集まっていたと言うことなんでしょうね。ちなみに、リトヴィノフは、ソ連大使ですので少し違いますが。

 読んでいるうちに、辻邦生が書いた文章ではないか、と思ってきたりしてしまいますが、この「ファウストゥス博士の成立」を読んで、辻文学の秘密をもう少し読み解いてみようと思います。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

European Literature

いやあ、ヤバイですねえ、この本は。
会社の後輩が読んでいたので、借りて読んでいるのですが、激しく破滅的なストーリーが素晴らしいです。
緻密細緻な研究に裏打ちされた科学的見解と堅牢に組み立てられた物語世界は揺るぎないもの。近い将来、この小説に描かれた世界の破滅が、現実のものになるかもしれないなあ、などと。
ちょっとした現代批判も織り交ぜてあって、ありがちな指摘だけど、さもありなむ、とも思います。
しかし、膨大な研究と取材をされているはず。こういう仕事にあこがれる。
wikiでは、記述に誤りがあるとか、盗作疑惑、冗長すぎる、なんて言うのもあるけれど、えてして成功者は批判されるものです。気にしちゃイカン。それに冗長だとは全然思いません。文学に埋め草は必要だし、そうした埋め草こそ楽しまないと。
2011年に映画化なんだそうです。見てみたい。
とりあえず、海の近くに行くのが怖くなります。日本は津波の被害が大きいところですから、なおさらリアリティがあります。
上中下の三巻組でして、中巻をもう少しで読み終わろうとしているところ。あと2冊で、年間100冊達成。今年は行けそうだなあ。

European Literature,Literature

ふう。3日で読了。
これも、実に読み応えがありました。
「第三の男」を書いた手練れのグレアム・グリーンのスパイ小説は、単なるスパイ小説ではない。
だいたい、主人公のモーリスの妻が、南アフリカで知り合った元工作員の黒人女性であるということが、完全に定石を外した独創性。関係のないエピソードと思ったものが、最後に一カ所に集まって、ぱっと弾け散る様は実に見事でした。
これぐらい骨のある小説だと本当に唸ってしまいます。
スリリングな場面などないのですが、この方がよっぽどリアリティがあります。グリーンは、第二次大戦中に実際に情報機関に所属していたとのこと。官僚的、組織的、スノッブ……。そういうイギリス情報機関の雰囲気が濃厚に漂っていました。
次は高橋克彦氏。私はこの方も大好きなんですねえ。
最近は、アラベラ漬けです。あ、来週、新国のオペラトーク「アラベッラ」を聴いてきます。

European Literature,Japanese Literature

いよいよ7月です。今年も後半。前半に積み重ねたものを発露させたいと思っています。本も読んだし、オペラをはじめ音楽も浴びるように聴きましたし。
吉田秀和の「オペラ・ノート」を引き続き読んでいます。二重引用で申し訳ないのですが、吉田先生は、プルーストの「花咲く乙女たちのかげに」のなかからこんなエピソードを紹介しています。主人公の「私」は文学者になりたいのだが、父親は外交官になることを望んでいる。だが、父親はこういって、主人公の志望を認める。
「あの子ももう子供じゃない。今まで自分の好みを知ってきたし、人生で何が自分を幸福にするかも分かっている。それは今後とも変るまい」
それに対して、主人公の「私」はこういう疑念を持つ。
「実は人生はもう始まっていたのであり、これからくるものもこれまでと大して変らないのではないか」
人生は、どこからか始まるわけではなく、昨日やり、今日やっていることの中にあり、それが人生そのものなのである、という認識。。
147ページ近辺から引用。ここが一番グッと来ました。いつとは言いませんが、私もこういう思いにとらわれ、名状しがたい悲しみにうち沈んだことがありましたので。私の場合、さらに人生のむなしさまでをも感じてしまった。その先は、もしかしたら俳諧の世界か、禅の世界にでも進んだほうがよかったのかもしれませんが、幸い(?)にも、社会に身をとどめて、サラリーパーソンをやっておりますが。
しかし、吉田さんはプルーストもちゃんと読んでいるんですよ。私はおはずかしながら、「ソドムとゴモラ」で止まっていて、早く再開しないといけないんですが、吉田先生は鈴木道彦の新訳全集の月報に解説も書いておられましたから。たしか「ゲルマントの方へ」だったと思いますが。
プルーストも読まんといかんのですが、何を血迷ったか、単行本版で全冊そろえてしまいまして、その後文庫版が出ていることに気づき、落ち込んだ記憶がありました。でも、単行本版の装丁の美しさは絶品ですからね。
6,7年前に集中的に読んでいたみたい。以下が、当時の記録。さすがに時間が経ちすぎている。私はここに宣言する。プルーストをもう一度再開します。プルーストを読まずに死ねるか! と。
“http://shuk.s6.coreserver.jp/MS/proust/":http://shuk.s6.coreserver.jp/MS/proust/
でも読みたい本はたくさんあるんだよなあ。会社サボって図書館にこもりたい稚拙な欲求。もう時間はない。
ちょっと話題がそれました。
この「オペラ・ノート」では、吉田先生が実際にオペラに言っていらしたレポートは面白いですが、CDを批評する段になるとちょっと筆が鈍るように思える。でも、それは吉田先生の筆が鈍ったのではなく、ビジュアルな要素に対しての言及が少なくなっているから。つまり、私はオペラにおいては、音楽的な部分に勝るとも劣らず演出面などのビジュアルな要素に大きな関心を抱いている、ということ。
それから、私自身の反省点として、モーツァルトやヴェルディ以前のイタリアオペラの聞き込みが足らないということ。でも、ちょっと肌が合わない感じなのですよ。やっぱり、ヴァーグナー、シュトラウス、プッチーニを聞くと、気が落ち着くし、懐かしい我が家に帰ってきた気分になります。
あ、新国のこけら落とし公演「建TAKERU」の批評は強烈でした。あそこまで書いちゃうんだけれど、吉田先生が書くのなら仕方ない。真実は常に残酷です。

European Literature,Opera,Richard Strauss

5月の新国立劇場は「影のない女」です。

苦い思い出

何度も書いたように、このオペラには苦い思い出があります。
生涯第3回目のオペラがこの「影のない女」でして、予習を十分にできないままパリに飛んで、翌日の夜にバスティーユに出かけたのはいいのですが、激務と時差ぼけでもうろうとした状態のまま数時間が過ぎ去ってしまったのでした。指揮者はあのウルフ・シルマーだったというのに!!
鷲のライトモティーフだけが、なんだか頭の中に先入観のようにこびりついたり、今聴けば、あんなに感動的な皇帝のアリアに心を動かすことができなかっただなんて。皇帝が歌っているのをなにか別世界のテレビのように感じていました。本当に残念。

予習の始まり

確かに、このストーリーを、今、私自身がきちんと咀嚼できているか、というとそんなことは全くないです。故若杉弘さんが、このオペラを理解するには、まずはホフマンスタール自身がノベライズした小説版を読んだ方がよい、と進めておられたのを思い出して、先だってくだんの本を古書店で入手しました。
というわけで今日から重厚で品のある邦訳版を読み始めた次第。ちょっと本が読めない状態だっただけに、久々の散文は本当に気持ちいいです。

ショルティ盤

で、もちろん音楽は「影のない女」です。今日はショルティ盤を選択してみました。それで大変重要なことに気づいたのです。それは、プラシド。ドミンゴがドイツオペラを歌う時に覚える言い得ない違和感の原因。私は、それはどうやらドイツ語の鋭利な子音をドミンゴが柔らかく解きほぐしているからではないか、と思ったわけです。ドイツ語は読み書きもできないし、話すこともできませんが、昔は語学学校に通っていましたので、愛着だけはあります。ドイツ好きですから。
ショルティ盤は、アマゾンでは取り扱っていないようです。私もたまたま入手できたのでラッキーでした。DVD盤もありますがこちらはCDとはキャストが違います。

これからのこのブログの行く先は?

それから、オペラ歴ももうそろそろ8年になりますが、初めてオペラを聴く方に役に立つコンテンツを作ってみようかなあ、と思案中。それから、新国立劇場の公演をまとめるような仕組みも作りたい。やりたいことはたくさん。でも、きっと僕は全部やるんですよ。間違いなく。そう思うようになりました。
今日はつれづれ風。

European Literature,Opera,Richard Wagner

この本、25年前に読むべき本でした。全く、若き私は怠惰な人間でございました。でも、この本はヴァーグナーの楽曲に触れていないと理解できないのも確か。若き貧乏な日々に、オペラのCDなんて買うことは能わず、ましてやオペラに行くなんてことは難しいことでしたので仕方がないというところでしょうか。まあ、今もお金持ちではありませんけれど。

はじめに

トーマス・マンは、この「リヒャルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大」と題された講演ををミュンヘンで行ったのが1933年2月10日のこと。その後、マンはアムステルダム、ブリュッセル、パリを回ったのですが、その間、ドイツにおいてはナチスが全権を掌握してしまい、マンはドイツに帰ることができなくなるという時代背景があります。

ナチスがワーグナーの音楽を利用したという事実は消えることのないことですが、マンが必死にヴァーグナーとナチズムの相違点を整理しようという意図が見えた講演録でした。

心惹かれる文章。

このたぐいの本の書評を書くのはきわめて難しいのですが、私の方法論は引用をつなげていくという者になってしまいます。まだ書評能力が低いのです。まあ、それはそうとして、気になったところを。

劇場の聴衆の只中で味った深い孤独な幸福のあの幾時間、神経と知性とのおののきと喜びとに充ち満ちた幾時間、この芸術のみが与えうる感動的で偉大な意義を窺い知ったあの幾時間かを、私は決して忘れることができません。

29ページ

これは、激しく同意します。あの孤独とも一体感とも言えぬ劇場独特の儀式的パフォーマンスを秀逸に表した一文です。

ヴァーグナーが芸術を一つの聖なる秘薬と考え、社会の障害を癒す万能薬と見なした(中略)。ヴァーグナーにとっては、芸術が持つ浄化し聖化する働きは堕落した社会に対する浄化手段、聖化手段として見なされるものでした。美的聖別という手段によって社会を贅沢から、金力の支配から、愛の欠如した状態から解放しようと望みました。

13ページ

うまくいっているかどうかはともかく、リングの最終幕ヴァーグナーが意図していたことをマンが咀嚼してくれた感じです。でも、そこまで単純化できるかどうかはわからないです。というのも、こうした社会正義、革命的な思想を、若き日のヴァーグナーは持っていたのですが、一方で、借金を重ね奢侈な生活を楽しみ、バイロイトという「ヴァルハラ」を築くという、おおよそ庶民とはかけ離れた行動をしているのですから。

全体感

全体を読んで思ったところ。

ヴァーグナーというのは単なる音楽家であったわけではないということ。詩人でもあり音楽人でもあった故に、楽劇が誕生したのだという事実。両者に秀でていたということが重要。逆に言うと、両方から圧迫を受けていたわけでそれがヴァーグナーの苦しみでもあった、という論調でした。

ヴァーグナーは若き日に革命運動に身を投じますが、あれは、社会を改正するといった動機よりもむしろ、自分の音楽をきちんと発表できる場にしようとするという動機の方が強かったのではないか、という指摘がありました。もっとも、ワーグナーは芸術が人間を救済する手段であると考えていましたので、終着点は同じなのかもしれませんけれど。このあたりは、シュトラウスがナチスに協力した経緯とも少し似ている感じがしました。

ワーグナーをロマン主義者として定義付けするところがあるのですが、ここが実に面白い定義付けをしています。また引用しちゃいますと、

性的オペラの中で芸術と宗教とを結び会わせ、芸術家のこのような神聖なる非神聖さをルルドの洞窟の奇跡劇としてヨーロッパの真ん中で舞台に載せ、退廃した末世がみだらに信仰を熱望するその心をに向けて開示してみせるという能力

99ページ

これ、この前「パルジファル」を聴いたときに引き裂かれるように感じたことと一致するんです。聖化と性化の二律背反(と捉えるのも間違いかもしれませんが)があまりに不思議で不協和音に思える。それが最後に解決するのがブリュンヒルデの自己犠牲であり、パルジファルによるアムフォルタスへの癒しとクンドリの救済というところでしょうか。

ここでいう「性化」とは、一種のセクシャルなものを含むのは事実ですが、それ以上に、いわゆる「愛」と捉えるべきだとも思いました。そういった言説をヴァーグナーがしているということもこの講演の中で述べられていました。

この本は、二回ほど読みましたが、まあ、いろいろと前提知識が必要だったり歴史的背景の理解が必要だったりということで難儀なものでした。折に触れてちびりちびりと、ブランデーを飲むように読むと良い本でしょう。お勧めです。

European Literature,Opera,Richard Wagner


こちらの写真は、2008年に訪れたヴァチカンのサンピエトロ大聖堂にある天才ベルニーニの手になる聖ロンギヌスの彫像。聖ロンギヌスは十字架にかけられたイエス・キリストの脇腹に槍をさしてとどめを刺した人物。キリストの血を浴びて、白内障が治ってしまい、後に列聖されるという人物。とはいえ、実在したかどうかはわからない。
“http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%83%8C%E3%82%B9":http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%83%8C%E3%82%B9
もちろん、この彫像の右手で持っているのが聖なる槍。すなわち聖槍。
“http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%A7%8D":http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%A7%8D
ということは、もちろんパルジファル。
パルジファルまであと三日。予習予習。
っつう感じで、この一週間はパルジファル漬けなんですが、東京春祭のこの以下の4つの記事が予習用として秀逸です。
“http://www.tokyo-harusai.com/news/news_443.html":http://www.tokyo-harusai.com/news/news_443.html
“http://www.tokyo-harusai.com/news/news_449.html":http://www.tokyo-harusai.com/news/news_449.html
“http://www.tokyo-harusai.com/news/news_459.html":http://www.tokyo-harusai.com/news/news_459.html
“http://www.tokyo-harusai.com/news/news_520.html":http://www.tokyo-harusai.com/news/news_520.html
リブレット読んだり、カラヤン盤の解説を読んだりしているんですが、実に興味深い。演奏会形式で見るのはもったいない。演出付きで見てみたい、という思いが強いです。
たとえば、「ダ・ヴィンチ・コード」をお読みになれば、聖杯と聖槍がなんのメタファーなのか、というのはおのずとわかりますし、そうすると、リングにおけるノートゥンクのメタファーとの関連性も見て取れる。
第二幕でクンドリがパルジファルを誘惑する場面は、「ジークフリート」のブリュンヒルデ覚醒の場面のミラーリングにも思えてなりません。クンドリは「私の接吻があなたに叡智をもたらしたのでしょうか?」とか「あなたに神性をもたらすでしょう」という。ブリュンヒルデもやっぱりジークフリートに知識を授けているし、ブリュンヒルデの神性は逆にジークフリート誕生に寄与したために失われていますし。
それから前述のリンク先に指摘されていたんですが、この物語には、キリストその人についての叙述がなく、典礼の言葉もないという不思議さ。おそらくは、ワーグナー自身がそれにあたるものとしているんじゃないか、と。
トーマス・マンの「リヒャルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大」を読んでいるところなんですが(これもめっぽう面白くて、何で今まで読んでいなかったんだ、という自己批判)、その中で愛情についての考察がいろいろ書かれていて、めちゃくちゃ興味深いんです。で、どうも、この愛と美というものが複雑に織り込まれている、あるいは織り込もうとしているのがヴァーグナーなのである、という直観に支配されています。
それと、ナチズムとの関連とか、ドイツ的なものとの関連とか考え出すと、身震いするぐらい面白い。この世界を20年前に知っていれば人生変わっていたと思います。
ちなみに、この「リヒャルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大」の後半に書かれている「リヒャルト・ヴァーグナーの『ニーベルングの指輪』」の結語が、ゲーテの「ファウスト」第二部の最後の一節なのです。
「永遠の女性なるものがわれらを高みに導く」
これ、もうご存知のとおり、マーラーの交響曲第八番の最後ですよね。もう、なんだか、頭の中が興味深い妄念で満ち溢れていて、仕方がありません。
明日からはマンに没入しつつ、パルジファルを聴く予定。マンの前述の本ではクンドリのことが分析されていたりして大変興味深いのです。

European Literature

 このスパイ小説は、ハードで文学的。内面描写は具象と抽象の間を行ったり来たりして、目がくらむ思いです。

イギリスの情報機関の諜報部員クィラーの活躍は、あまりに生々しく、冷たいリアリズムに背筋が冷たくなります。自動車事故に見せかけてロンドンで殺された同僚の事故現場を離れた直後に記憶を失い、次の瞬間自分も交通事故に見舞われる。要は命を狙われたと言うこと。キーは北京にあるとみて、中国首相の葬儀に参列するイギリス外相の随行員になるのだが、当の外相も爆弾テロで命を奪われる。手がかりを求めて韓国に潜入するが、情報を得る寸前で情報源は殺される。なんという救いのなさ。

著者のアダム・ホールは、ペンネームで、本名はエルンスト・トレヴァーとおっしゃるようで、えらくたくさんのペンネームをお持ちです。

ともかく、終盤は意外な展開で、驚きますし、途中に挟み込まれた悲壮なエピソードも衝撃でした。

とはいえ、キャセイパシフィック航空が金浦空港から平壌への定期便をDC-10で飛ばしている設定が出てくるのですが、そんなことってあったのでしょうか? キャセイはDC-10も保有していなかったようですし……。

European Literature

 下巻まで読み終わりました。

下巻は、上巻とは打って変わって、ストーリーは単一。上巻の複層性とは対照的です。物語としてはややもすると予想された方向に収斂していきますが、さすがにベテランの作家さんだけあって、下敷きにしている情報量が素晴らしかったです。映画を見終わったあとのすがすがしい感覚。

フィクションとはいえ、ロシアの実情をある程度は反映していると思われますので、非常に勉強になります。ロシアの抱える闇は、そう単純なものではないようです。最近はそうした諦観を覚えるようになってきました。

上巻で、実業家の男が語った以下の文がちょっと気になりました。

わたしは馬齢をかさねて、悪というものは存在しうる、そして悪はしばしば一個人によって体現されうると言うことを信じるようになりました。

この一言は、ナチスドイツを指し示す文脈で用いられていまして、まあ、個人的には善悪二元論に追従するほど耄碌していないつもりですが、少なくとも状態としての悪は少なからず存在しているという強い直観は間違いのないことで、それから、それらが単に断罪できるほど単純ではないことも、自分のなかにも悪が巣くう可能性があるということも。油断せずに生き抜かねばならないです。個人でできることは限られていますが。

以下の「続き」は、読み終えたかたのみごらん下さい。ネタバレ的なものが書いてあります。

 

European Literature

 先日読んだ「ジャッカルの日」が滅法面白くて、ああ、僕はスパイ系小説とか、国際政治的小説が好きなんだなあ、と妙にフィット感を感じていまして、同じフォーサイスの手による「イコン」を読み始めました。

読み始めから、構造に少々戸惑いまして、非常に視点が多く、時代も1980年代と1990年代後半を行ったり来たりします。途中でそうしたこった構造にも慣れてきたのですが、上巻を読み終えたときに、こういった複数視点同時並行的な話しの進め方が当然ですが意図したものであり、その効果を十二分に発揮していることを感じました。

この本が書かれたのは1996年ですのでいまから13年前です。その当時にあって、というかその当時にあってこそかもしれませんが、ソ連崩壊後のロシアの混迷の未来史的考察には、少々無理があるものの、さもありなむ、と思わされます。このあたりは明日から読む下巻で明らかになってくることもあると思います。

なにより、崩壊前のソ連KGBと、アメリカCIA、イギリスSISといった諜報機関が繰り広げたスパイ戦争の舞台裏に触れられるのが何よりの刺激です。オルドリッチ・エイムズという実在のスパイが登場して、臨場感を感じますし、なによりソ連国内で拘束されたスパイがたどる苛烈な運命にも、ほんの20年ほど前の欧州でこんなことがあったのか、とショックを受けたり。そう言えば、私らが子供の頃は、ソ連のミサイルがいつ飛んでくるか、と毎日が不安だったこともありました。ソ連が崩壊して、やっと核戦争の恐怖から解放された、と思ったのですが、今は以前より増して核攻撃の危険があるようではありますが。

今日は、ケンペの「アルプス交響曲」を聴きました。カラヤン盤のような音質には恵まれていませんが、まとまりがあって統率のとれた演奏でした。また明日も聴こうと思います。私は、何度も何度も同じ音源を聞かないと、なかなか語り出せないようです。

そういえば、最近いろいろ本を読んだりして思うのは、私らの歳になると、海軍では、もう小さい艦の艦長ぐらいにはなる頃合いですよねえ。まあ艦長は会社で言えば管理職だと思いますが。8月に入って、とりわけNHKで第二次大戦関連のドキュメンタリーが多く放映されていまして、今も昔も組織はかわらんなあ、と思ったり。軍隊も会社も組織という観点から見れば非常に似通っております。そういえば、私らが小さい頃の雑誌プレジデントは、毎月のように軍人特集でしたねえ……。