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ブラームスを聴くよろこびなど

今日は久々にリモート勤務。これまでとは違うワークスタイルにはなかなか慣れませんが、実のところ、かつてから憧れていたワークスタイルだったことに気がつき、またひとつ願いが叶ったんだなあ、と思いながら過ごしました。

自宅で仕事する最大のメリットは音楽を聴けるということ。今日はティーレマンのブラームスを合間に聞きながら、仕事をしました。

アーティキュレーションに斬新さを感じたりしながらも、安心しながら拡がりのあるサウンドを楽しんだ感じがします。とにかく音楽を聴いている瞬間は幸福でしかありません。

最近思うことは、どうも音楽を聴くとき、あるいは泳いでいるとき、あるいは文章を書いているときの幸福感が人生ないしは世界を支えているのではないか、という直感があります。こうやって人生と世界を支えることで、人生も世界も少しずつ良くなっていくのではないか、と思います。それは錯覚だとしても害のない良い錯覚なのでしょうから、現世を忘れ、ただただ今に打ち込むためには、そうした幸福感が必要なのだと思います。

いまこの瞬間、この刹那に集中すればするほど、どうやら人生がうまくいくのではないか、という直感を得ている気がします。この瞬間に永遠が宿っているような、気もするのです。なんだか、禅のような話ですし、若い頃哲学科にいたころは、全く共感できなかった議論で、教授からはそういう「体験」を戒められていた記憶もあり(勝手な記憶ですが)、封印してきたような感覚もありますが、実のところ、かつて読んだ西田幾多郎やリッケルトの哲学本に書かれていたことを今まさに体験しているのではないか、とも思います。感慨深いです。

とにかく、四つの交響曲を聴き通した感想として、ブラームスは幸福です。厳粛な第一番、典雅な第二番、悲愴な第三番、神聖な第四番。そんなことを考えられて、よかったなあ、と思います。

それでは、おやすみなさい。グーテナハトです。

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まだ会わぬ祖父のこと

ふと、思い立ち、祖父の名前をGoogleで調べてみた。会ったことのない祖父。わたしが生まれる何年も前に亡くなった。思い出話を聞くこともあり、写真もみた記憶はあるが、それももう何十年も前の話だ。そして、祖父を知る人たちも少しずつ少なくなっている。そんななかで、Google検索結果に忽然と現れた祖父の名前は、とある雑誌の編集者としての名前だった。

早速、その雑誌を古書店から買い寄せてみた。その雑誌は、戦後数年後、新制教育のなかで戸惑っているであろう若い人たちへ向けた雑誌だった。編集者の祖父が書いた文章は、それとわかる署名はない。だが、おそらくは編集後記は祖父のものだろうし、編集者が筆名を使って文章を書くのは通例だから、筆名と思しき不自然な名字が署名された文章は、祖父のものであってもおかしくはない、と感じる。

その文体は、戦中戦後のまだ生活文に格調が残っていた時代のもので、旧字体の活版活字で印刷されたその文章は、活字の不規則にばらつき、あるいは活字が必ずしも品質の良くない紙にインクだけでなく凹みをも刻んでいて、なにか、今の時代には味わえない、まだ、書物が人の手に近いところにあるものであることを感じさせるものだった。

この雑誌を書いたとき、祖父は何歳だったのか。微かな会話の記憶から、祖父が同い年だという有名人の生年を調べ、年齢を推定した。そうすると、どうやら、今の私と変わらない年齢だということがわかったわけだ。

そういえば、なぜ、祖父の名前をGoogleで調べる気になったのだろうか、というと、夜の部通勤電車に乗って暗い窓の外を眺めていたときに、ふと祖父のことを思い出したのだった。さらに、何か、祖父に話しかけられるような気がしたということも否めない。それは、勝手な自己問答だったはずだが、ふと思ったのは、誰しも孫のことを愛するだろう、ということだった。たとえ、会うことはなくとも、もし、その魂というものが不滅だとしたら、おそらくは、その魂は、孫をやはり愛するだろう、ということだった。そうだとすると、それが、わたしの自己問答で錯覚だとしても、そのうちのいくらかは真実なのではあるまいか、と想像したわけだ。

たしかに、8年ほど前にもやはり祖父の名前をGoogleで調べたことがあったが、その時とは検索結果は異なっていた。かかる雑誌は当時は検索結果に表示されなかったのである。同じ歳になった私に祖父がその姿を見せて何かを伝えようとしたのではないか、などと考えても良いだろう。

混迷の季節が終わり、さらに秋は深まり、なにか、全てが収まるところへと進んでいる感もあるときに、祖父のことを思い出し、祖父の出版物を手にするのは、なにかの縁(えにし)だろうか。この世に偶然はなくあるのは必然のみである。そうだとすると、この必然はなににつながるのだろうか。運命の糸はどこへ向かうのか。それは、分かっていることだが、その顕現までにはなお待つことになるだろう。

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続 映画「アリスのままで」

先日書いた「アリスのままで」のエントリーのなかで、最終シーンで語られる挿話について書きました。その挿話の出所がわかり、うれしく思っています。

この挿話は、もともとは劇作家トニー・クシュナーの手によるものとのこと。

私の心を打った最後の部分の原文もありました。

Nothing’s lost forever. In this world, there’s a kind of painful progress. Longing for what we’ve left behind, and dreaming ahead. At least I think that’s so.

永遠に失われるものなどないのだ。たしかに、この世において歩みを進めるということはある意味苦しいもの。過去を恋しく思いながらも、将来に夢を見る。つまるところ、そういうものなのだ。

(私家訳)

永遠というのは、時間を超えて過去にも未来にもあるもの。時間と空間という形式において存在する世界において、その時間の中で歩みを進めると言うことは、戻らぬ過去を振り返りながらも、まだ来ぬ定められた将来を夢見て想像し、あるときは希望を抱きあるときは不安を抱く。瞬間瞬間の時間において生きる私たちにとっては、そうとしか生きられないと言うこと。

記憶を失うということは、過去も未来も失うのだが、つまるところ、今この瞬間を生きると言うこと。過去も未来も我々が創っているものである以上、存在しているのは「今ここ」だけなのではないか。

辻邦生の言う「今ここをに生きる」「今ここに打ち込む」ということが、最近さまざまなところで気づかされます。


10月に入り、いろいろなものが動き始めた気がします。年末に向けて頑張らないと。どんどん涼しくなる季節。どうかお気をつけてお過ごしください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

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中秋の名月。そして接近中の火星。

今日は中秋の名月。素晴らしい満月。そして晴れ上がった美しい夜。

本当に月の姿は不思議です。銀色の光を地上に投げかけ、あらゆるものを浄めるような。

小さいですが、火星と一緒にとった写真。月の左側にかすかに赤白い火星がみえませんか。さすがに、普通のカメラでは撮れない……。火星は10月6日に地球に最接近。

これからお祈りをして寝ようと思います。

みなさまもどうかよい夜を。おやすみなさい。グーテナハトです。

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映画「アリスのままで」

表題の映画を見ました。昔NHKで放映されていたようで、録画のなかに遺っていたのでした。

優秀な言語学者アリスは、50歳の誕生日を迎えた。子どもたちにも恵まれ、幸福絶頂。だが、若年性アルツハイマーとなってしまい、自我を失っていく…。

自我を失うことはどういうことなのか。過去の記憶と未来の記憶を失うということは、人間としての存在が失われること、と理解していました。

しかし、どうもそうではない、とも思わせる最終場面でした。娘のリディアが創作したと思われる挿話を聴いて、アリスは必死に言葉を探し、なんとか「愛Love」とつぶやくのです。

その挿話とは、宇宙へといくつもの魂が旅立つ様を描写したものでした。

飛行機に乗って、1万メートルのオゾン層の境界へと到達すると、戦争や飢餓で命を落とした人々の魂が上ってくるのが見える。オゾンと魂の成分は一緒だから、オゾンの破れたところを魂が網のように補完していく。進歩とは、失ったものへの哀惜と未来を夢見ると言うことである……。

何をもって、その挿話をアリスが「愛」と表現したのだろうかと。「愛」にはいくらかの種類があります。昔、哲学の授業で習いましたが、アガペー、フィリア、エロス、ストルゲーの4種類。

魂を引き上げるという感覚においては、神の愛アガペーを感じたのでは、というのが普通の解釈です。あるいは、自分へと読み聞かせてくれている娘リディアの愛情か?

おそらくは、アリスは実際に魂が宇宙へと上っているのをいているのではないか? そしてその魂が神の手に抱かれ、オゾン層=宇宙と一体化している様を観ているのではないか。たしかに、そのシーンのアリスは何かを見つめるようなまなざしであるかに見えましたし……。

自我を失ったアリスは、逆になにか神々しささえ感じます。自我を失って一体何を見て誰と会話しているのか? アメリカの上流階級の生活とその中に忍び込む神秘あるいは神聖な空気という感じでした。

邦題は「アリスのままで」ですが、英語は「Still Alice」。「まだアリス」という訳を思い浮かべましたが、それは切迫し直截的がゆえに、「アリスのままで」のほうが品がいいですね。

それでは。おやすみなさい。グーテナハトです。

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辻邦生のパルテノン体験を考える その5 文学のなかの現実(1969年)──人間の精神は、貧しい現実をこえて、かくも豊かな内容をつくりあげた

日本の貧しさがそのまま精神の貧しさに直結しているような思い──それは私を何度か焦燥と不安にかりたてたのも事実だった。それで最初に取り除かれたのは、十年前はじめてギリシアでパルテノンの神殿を観たときである(中略)それまでの私は、現実の貧しさが精神の貧しさに直結していると、ほとんど無意識に考えていた。それは逆に言えば、豊かな精神、豊かな芸術は、豊かな生活の結果にうまれると信じることに他ならなかった。なるほど古代ギリシア文化が地中海公益と植民地支配による富の一結果であることは事実であろう。にもかかwらずこの精神の豊かさに匹敵しうる生活の豊かさなど、ほとんど存在するとは思えなかった。そこには、なにか言いしれぬ隔絶があった。ギリシアの不毛の自然が象徴するごとき貧しい現実と、神殿が象徴するごとき豊かな精神との、きわめて明白な対立があった。つまり人間の精神は、貧しい現実をこえて、かくも豊かな内容をつくりあげたという、啓示的な事実が、そこに示されていた。

辻邦生「文学のなかの現実」辻邦生全集17巻、2005年、293ページ

最近、パルテノン体験に関する文章がどんどん目に入ってきているのですが、この文章が収められた「文学の中の現実」という文章を本日見つけました。これは1969年10月8日、9日の両日にわたって読売新聞に掲載された文章のようで、「海辺の墓地から」ならびに「辻邦生全集第17巻」に収められています。前回の「時の終わりへの旅」を遡りますが取り上げます。

ギリシアの貧しい過酷な状況にあっても、精神的高みにあれば、パルテノンを打ち立てることができるのである、という直感です。物質的な豊かさが精神的豊かさを生み出すのではなく、精神的豊かさが物質的豊かさを作り上げるのである、ということです。

確かに、物質的豊かさ=現実があってから初めて、精神的豊かさ=芸術がある、というのが一般的な考え方です。まずは、営利事業があって、その余裕でもって文化事業をなす、というのが社会の常識でしょう。だから、文学であっても音楽であっても、それらは社会を支える本質的なものではあり得ないとされているわけです。

しかし、どうもそれは逆ではないか、と問うているように思うのです。精神的豊かさと物質的豊かさは論理的な相関関係はありますが、そこには前後関係はなく、同時的論理関係があるということなのではないか、と思うわけです。

物質的豊かさと切り離して、なお精神的豊かさを持てるのが人間の強靱な魂であるということでしょうか。あまりにも厳しい状況にあっても、希望を捨ててはならない、ということで、これは「言葉の箱」においてフランクル「夜の霧」を念頭に語った内容が思い出されます。

言葉が現実の事実と同じように生命を支えていた。あるいは、現実のそういう力委譲に言葉が生命を支えていた。だから、言葉はまったく無力ではない。むしろ言葉があって初めて現実そのものを変えることができるという認識が、しだいに自分のなかに生まれてきたということも、ひとつ大きくつけ加えなければいけません。

辻邦生「言葉の箱」メタローグ、2000年、30ページ

言葉=精神的豊かさが現実を変えることができるという信念は、パルテノン体験によって得られた直感だっと思います。がゆえに、精神的豊かさもやはり物質的豊かさと同じように大切なのでしょう。フランスやドイツなどが文化を大切にする理由がわかるような気がします。文化を大切にすると後から経済的豊かさがついてくる、ということをわかっているのでしょう。(私はあまり好きではありませんが)ゴールを設定して仕事を進める流行の仕事方法と同じではないか、とも思うのです。

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辻邦生原作映画「北の岬」パンフレットを書棚から発見!

今回も発見ネタで恐縮です。

数ヶ月前に、書棚を整理していたところ、茶封筒を発見。中を見てみると、こんなものが。「北の岬」のパンフレットでした。

入手の経緯は、おそらくはヤフオクで落とした記憶が微かに。貴重なものなのでしょうか。どうすべきか困っています。学習院に寄贈した方がいいのでしょうか…。しばらくお預かりしておきます。

今日も短く。みなさま、良い週末をお迎えください。おやすみなさい。グーテナハトです。

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辻邦生生誕95年

辻先生が生まれて95年。昨年は生誕94年のエントリーを書きましたが、世界はどんどん変わっていくように思います。

最近、新しいことを追うことのむなしさを感じ始めています。確かにデジタル化の世の中にあって(私は、DXとか、デジタルとか、昨今デジタルという言葉を使うことにすら違和感を覚えますが)、そのデジタル化は数万年の人類の歴史においてたかだか10年や20年の変化であるようにしか思えないのです。もちろん、加速度的な技術の進歩を否定するものではありません。ただ、人類の歴史、あるいは生物の歴史、あるいは宇宙の歴史において、このデジタル革命といわれるものが果たす意味になにか疑問符をつけざるを得ない心境に陥っているのです。

それは、なにかをきっかけとしたものでもあるのかもしれませんが、ともかく、この一年間のなかで私の身に起こってしまったことです。

かつては常につけていたAppleWatchもつけることをやめてしまいました。AppleWatchをつけると、手首や腕に違和感を感じるようになってしまったからです。AppleWatchを外した腕は実に軽やかで、なにか清らかな世界に立ち戻った感覚さえ覚えました。数ヶ月後に、もう一度AppleWatchをつけることが亜rかもしれませんが、今の私にはこの軽やかで清々しい腕の感覚が実に新鮮なのです。

辻文学において語られるのは、人類の普遍的な価値である、と考えています。それはパルテノン体験において語られる、人間と世界の研ぎ澄まされた関係であったり、人間が人間として生きる尊さのようなものを、物語世界に受肉させたからです。

この「受肉」という生々しい表現は、もちろんキリスト教用語ですが、私が大学時代に、辻邦生の「背教者ユリアヌス」で、当時の初期キリスト教会が人間性と乖離する形で描かれていることについて、レポートでまとめたところ、指導教官に、だからこそキリスト教においては「受肉」という形で、彼岸と此岸がつながったのだ、という指摘を受けたことに由来します。

それ以降、なにかこの「受肉」という言葉が、文学的理念を物語世界へと橋渡しする行為であるように思えてならないのです。

辻文学における普遍的価値が受肉された物語に触れることは、数万年に渡って人類を支えた普遍的価値に触れているようにも思え、そうだとしたときに、なにかこの十数年の物理的な記憶の中に遺る事物が矮小化してしまうのです。これは現代に生きる身にとっては実に危機的な状況であると思います。

人類を支えた普遍的価値とは、実のところ、質料をそぎ落とした形相によるものであるように思えるのですが、そうだとしても、その形相に質料を受肉させ、長大な物語群を作られた辻文学の壮麗な仕事が、今の私にはより価値のあるものであるように思えるわけです。それは個人個人への働き方を通しておそらくは世界を変化させうるものではないかとも思うわけです。字義通りに……。

ともかく、今に集中して、できることを考える、です。長くなってしまいましたが、また明日から力を尽くします。

おやすみなさい。グーテナハトです。

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ペトレンコの清冽な悲愴を聴く

たまには音楽のことを。

ペトレンコがベルリンフィルを振ったチャイコフスキーの悲愴。

最近、音楽と向き合う機会があまりなく、どちらかというと、心を癒やすために音楽を聴いていた感もあり、アグレッシブに目的意識をもって聴けていなかったなあ、という思いがありました。

といいながら、週末あたりから、何か体系的に音楽を聴きたいという思いもあり、音楽学者の広瀬大介さんが作ったプレイリスト「若いうちに聴きたいクラシック100曲」を聴いていたのです。これがずいぶんと面白くて、選曲もさることながら、演奏家のチョイスも今風で、実に心地よかったのです。

その中の一曲がペトレンコの悲愴で、ああ、なんだかこういう新鮮で清々しい悲愴を聴くことのできる幸せをかみしめたのでした。

今日はこのあたりで短く。おやすみなさい。グーテナハトです。

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辻邦生幻の遺稿? 没後4ヶ月後に発表された映画に関する小論を発見?!

20年前、週刊朝日百科は「世界の文学」として全121巻の冊子が毎週毎週刊行されていました。創刊号を買って以来、毎週取り寄せていました。すべてを読んだというわけではありませんが、文字通り「世界」の文学を一望できるという意味ではとても貴重な資料でした。内容も、文章だけではなく、関連する写真や映画などビジュアル面で充実していました。

もちろん辻邦生も世界の文学のなかに位置付けられていまして、第100巻において菅野昭正さんが「本の小説、小説の本の」という辻邦生論を展開しています。

https://museum.projectmnh.com/2016/03/21225416.php

そして、また辻邦生も執筆者の一人として登場していました。第20巻「映画と文学」で「小説、芝居、そして映画へ」というテーマで「映画的イデー」について語っている小論です。

この小論が掲載された朝日百科第20号「テーマ編 映画と文学」は、1999年11月28日付けで発刊されています。発売日でいうとおそらく11月15日だったようです。辻先生が亡くなられたのは1999年7月29日ですので、なくなってから4ヶ月ほどあとに活字になったと言うことになります。

ところが、この小論について、辻邦生全集第20巻の著作年表をみると、記載がないのですね……。1999年9月12日に日本経済新聞に掲載された「青い魚の家」が最後の著作となっているのです。

全集20巻の著作年表を10年ほど遡りましたが、該当する文章の記録は見つからず、これはもしかして、幻の遺稿?などと色めき立ってしまいました。

もしかすると旧い小論をあらためて取り上げたのかしら、などと思ったりもしているのですが、あるいは、私が著作年表を見落としたかもしれず、とはいえ、Google先生にも聞いてみたのですが、答えはなく、もし本当に記録されていない最後の出版物だとしたら、なにかのお役に立てばよいのですが、と思っています。

今日は予定を変えてこちらをご紹介しました。タイトルはあおりすぎですかね……。

それではみなさま、よい夜を。

おやすみなさい。グーテナハトです。

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