書くことは、〈生きること〉を徹底すること──辻邦生『空そして永遠』

「くる日もくる日もノートを書いていても、それは、あくまで〈生きること〉を一層徹底させ、没入的にするための作業、といった趣を持っていた」──辻邦生『空そして永遠』より。

辻邦生のパリ留学時代の手記をまとめた『パリの手記』。その最終巻の『空そして永遠』を鞄に入れて過ごしました。帰宅の電車のなかでなんとなく開いた最後の「あとがき」にこの言葉がありました。

辻邦生は、まるでピアニストがピアノを弾くように、たえず書く、と言っていました。書くことは、文章を作り出すということ以上の意味を持ちます。世界を作り出していたのでしょう。その世界とは、書き手だけの作りうる完結・統一した世界なのだと思います。

それにしても、こんな風に、生きることに打ち込み、やることが生きることと直結していたら、そんな感想を持ちます。

やることと生きることが繋がっていなければならず、そうでない時間は浪費になりかねません。生きることに繋がることをやるのが人生への責務なのだと思い、責務を果たすために努力をすること。これに尽きるのだな、と思います。

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「一九九一年師走 東京高輪にて」──辻邦生『霧の聖マリ──ある生涯の七つの場所1』を手にとるとき

1992年2月だったか。受験に上京し品川プリンスに泊まった。とにかく寒い頃だった。泊まったのは一番古い棟で、となりの部屋のビジネスマンが見るテレビの音が聞こえるような壁の薄い部屋だったが、ひとりで泊まるホテルに、なにか大人になったような気分を感じたものだ。

もちろん、当時はとにかく辻邦生を読んでいた。受験勉強そっちのけで。むさぶるように呼んだのは、古い新潮文庫『見知らぬ町にて』だったはずだ。『風越峠』や『空の王座』の哀しみに心を打たれていたはずで、『見知らぬ人にて』はまだよくわからなかった。

ホテルには小さな書店があった。新刊の文庫が何冊か書棚に並べられていた。ステンレス製の回転する本棚だったようなかすかな記憶もある。そこに、辻邦生の文庫が置いてあった。肌色の背表紙には『霧の聖マリ』と書かれていた。「聖マリ」という語感に身震いした。殺伐とした受験の中に、なにか、柔らかく、温かみのある、美しい存在が掌のなかに入っているような感覚だった。

辻邦生の書くあとがきには「一九九一年師走 高輪にて」と記されていた。ちょうど品川プリンスの裏手が高輪にあたっていたことを当時の私も知っていた。

なにか運命的な邂逅を果たしたような予感だった。

あれから28年。

バルセロナ、アトランタ、シドニー、アテネ、ロンドン、ペキン、リオ。7つのオリンピックを超えた。そして東京。

その文庫は私の書棚の一番上のよく見えるところに置いてある。

四半世紀を超えた文庫はさすがに変色している。『霧の生命マリ』にはじまる『ある生涯の七つの場所』に属する七冊の文庫のうち何冊かは、糊が剥がれ、ページが外れはじめた。本にも寿命はあるようだ。それでも記憶は残り続けていて、私のなかでは、四半世紀前の、新しいままの『霧の聖マリ』が今でも本棚にあることになっている。

もっとも、殺伐としているのは受験ではなく、この世界だった。この背理の世界で、僅かに在る真実にときおり触れるたびに、まるで薔薇の棘に手をかけたような甘い痛みを感じるのだ。イバラの冠をかぶるとはこういうことなのだろうか。

いつか、おそらくはいくつかの四半世紀を超えたさきの、永遠の眠りにつくときには、願わくばこの本とともに眠りたい。そういえば思うほど愛おしい本だ。それぐらいは許してくれよう。

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生命の流れとは──辻邦生『桜の国へ そして桜の国から』

生命の流れとは、この胸を突き上げてくる大きな歓びであった。ただ地上に生きてあること──そのことがすでに酔うような歓びであった。桜は自らもその歓びに酔いしれながら咲き誇っていた。

生きるための仕事(それはそれで困ったことに面白いのですが)に精一杯な状況に追い込まれ、それはあと数年は続くのだろうなあ、という予想を抱きながら、週末はただひたすら営業日の疲れを癒やすためにハイバーネーションに勤しんでいるのですが、日曜日の夜になるとようやく時間ができる感じです。

サイトウキネンオーケストラのブラームスを聴きながら、1993年3月に読んだ辻邦生の『神々の愛でし海』の納められた短篇『桜の国へ そして桜の国から』を読みました。

100の短篇の最後(実際にはエピローグの一つ前)を飾るにふさわしい美しさを湛えた短篇で、おそらくは10年ぶりぐらいに読んだのですが、目頭が熱くなる思いを抱きました。

日本も西欧もおなじものである、という感覚。それは、日本のおける戦時中の思想弾圧も、フランス中世の宗教弾圧や近世革命の殺戮も、やはり同じ人間のなすべきものであるし、あるいは料亭の庭や建物の美しさも、フランスのレストランのギャルソンの芸術的挙措もやはり、同じ人間のなすべきもの。日本だけが、とか、西欧だから、とか、実際はそういう区別はないのではないか、という感覚。

そして、年老いた母と、自らの子を宿したフランス人の妻が二人で歩く姿をみて、こう語り、100の短篇は幕を閉じるわけです。

母たちがつねに永遠なるものに向かって行き、そして永遠なるものから来る人であるのを私はその時ほど強く信じたことはなかったのだから。

永遠なるもの。それは人間一人一人の一生であり、人類という我々の種の永遠性でもあります。人類はこれからどうなるのか、そういうことを考えながら、なにか答えのない現代への抗いのようなものを感じながら短篇の余韻に浸っています。

また、明日から生きるための仕事にもどります。

おやすみなさい。グーテナハトです。

2+

つれづれ

本当に書く時間がとれず、という感じの日々が続いています。

なぜ書けないのか?

  • 書く時間がとれない
  • 書くネタがない
  • 書くツールがいまいち

そんな感じのことを考えています。

この三つの要因の中で一番重要なのは、書くツールがイマイチなんだろうなあということ。

端末の前に座ってキーボードをたたく、というのが昔ながらの文章の書き方ですが、どうも最近はさまざまな選択肢が増えていて、スマホのフリック入力であったり、音声入力であったり、という感じです。

個人的にはスマホのフリック入力はあまり好きではなく、音声入力だと思った以上に文章が長くなってしまったり、と今ひとつというところです。

結局のところキーボード入力に落ち着くのですが、最近、肩こりの関係か、指がこわばるようになり、キーストロークの深いキーボードが打ちにくく鳴ってしまいました。キーストロークの短いキーボードを買おうか、などと思っているうちに時間がたっている状況です。

だから、いざ書こうにも何か抵抗を感じてしまうのだろうなあ、と思っています。

まあ、生活もずいぶん変わってしまい(といっても部署が変わっただけですが)、生活パターンも乱れぎみ。今日も早く寝ないといけないのに、久々に文章を書いて喜んでいる感じです。

そろそろ切り上げて寝ることにいたします。おやすみなさい。グーテナハトです。

3+

つれづれ

それにしてもなかなか時間が取れない毎日がつづいています。本を読むにもなにをするにもなかなか時間が取れず、と言う感じ。時間は作るものだ、という話は良く聴きますが、それも限度があります。結局減るのは睡眠時間ですから。

どうも、冬に近づき、太陽が早く沈むようになると、さすがに元気もなくなります。やはり、私は夏が好きで、たしかに猛暑であろうとも、輝く日差しが窓から差し込んでいるほうが好きです。

それにしても、10月も後半になると、日没時間も16時台になってしまい(東京地方は16時55分だそうです)、驚いています。早く冬至を越えて、夏へ向かう公転の旅へと移行していきたいものです。

来年の夏が待ち遠しくてしかたがありません。銀色に輝くアスファルトを早く眺めたいです!

今日は短めに、おやすみなさい。グーテナハトです。

3+

生きるに値する生とは──辻邦生「地中海幻想の旅に」から

私には旅の絵はがき以上に一冊の時間表が汽車の旅をまざまざと呼びおこす。ああ、今この瞬間でさえ、私の心は汽車旅へと、なんと強くひきつけられていることであろう。

辻邦生の『地中海幻想の旅から」を読んでいる。昨年末に中公文庫から出版されたもの。もとは1990年にレグルス文庫から出版されていた。私はこのレグルス文庫版を1993年1月に神戸の書店で入手したはずだ。

受験を控え知恵熱か風邪熱か分からない高熱に苛まれながら、おそらくは人生でもっとも充実した勉学の時期を過ごしていて、有名講師の現代文の講義があるからと言うことで、当時住んでいた北大阪の街から電車を乗り継ぎ神戸に向かったはずで、当時習慣のように、新刊書店古書店があれば店内に入、タ行の作家が並ぶ場所に辻邦生の著作が並んでいないか確認し、持っていない著作を見つけては購入するという生活を送っていたはずだ。

それにしても、辻邦生の筆致はあまりに美しい。ギリシア彫刻の描写は絶品だし、そこに描かれた欧州の空気は、半世紀の時を超えていまここに現前しているかのようで、その場の空気の匂いまで感じ取れるようだ。

この本には、辻邦生が鉄道の旅を描写するエッセイが納められている。「ヨーロッパの汽車旅」と題されたそのエッセイは、辻邦生が初めての留学で、マルセイユからパリへ向かう汽車旅で感じる横溢する幸福感に圧倒されたり、寝台列車や食堂車の高揚が描かれている。

私も、かつてひとりドイツを旅したときに、ドイツ版新幹線であるICEに乗り込んだ。

それは若い時期の冒険だったのだろう。フランクフルトからひとりライプツィヒ、ワイマールを経てドレスデンへと向かったあの旅は二度と戻ってこない。あまりの緊張に微熱を出しながらも、ジャーマン・レイル・パスをバリデートし、フランクフルトの広壮な中央駅から白い車体に赤いラインのICEのプラットホームを探しだした。

あの、車窓に広がる雪をかぶった丘陵地帯、飴色の夕陽に輝く河の滔々たる流れ、鄙びた農村の無人駅。

ああした風景は二度と還らないのではないか。

もはや、欧州を鉄道で旅することなど出来ないのではないか。

その寂寥感はあまりあるものだ。

辻邦生が描く鉄道への郷愁は、私にそうした残酷な諦観を強いるものだった。冒頭に引用した一文、「ああ今この瞬間でさえ、私の心は汽車旅へと、なんと強くひきつけられていることであろう」を読んだ途端に、こみ上げる寂寥の思いとともに、嗚咽と涙が止まらなくなったのは、この果てしない喪失感のためだったのだ。

果たして、この寂寥が、現実なのか仮象なのか、私にはまだ分からない。

続くエッセイ「恋のかたみ」にはこんな一節がある。

一瞬のうちに愛の真実を生きた人にとって、その結果がどうあろうと、ともかく生きるに値した生があったのである。私たちの多くは、会社員となり、人妻となり、財産や地位に依存しながらも、一生かかって、結局、生に値するものを見いだせないのが普通なのだ。

ここで述べられている「愛の真実」は、S**さんという女性が過去の愛人にむけるひたむきな愛情のことを指している。だが、「愛の真実」とは「生の真実」でもある。

「生の真実」を生きれば、はたしてまた外国の鉄道に乗りゆく未来があるのだろうか。車窓に広がる異国の風景と、人々の息づく姿を眼前に観る機会を恢復できるのだろうか。生きるに値する生となるだろうか。

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国立西洋美術館のこと

先日、といっても、数週間も前のこととなりましたが、国立西洋美術館の松方コレクション展覧会に行ってきました。

仕事を終えた夕方、なにか芥にまみれた精神的状態でしたが、何か日頃の悪行を洗い流すような感覚もあり、所業を反省しながらも、美に触れたひとときでした。

個別の作品には触れませんが、松方コレクションに数えられる作品は、国立西洋美術館に所蔵される作品だけではなく、コレクションから散逸した作品も展示されていて、ああ、こんな作品まで買っていたとは、と感動を新たにしました。

私は、芸術作品こそが、世界の真実と信じていますが、そうした真実の世界が数多の作品群の中に実現しているのをみるのは壮観でした。何か、現実の虚しさを忘れるような思いです。

真実は芸術にあらわれる、というのが私の信念です。

そう思うと日頃のやるせなさも、そんなもんだ、と流せるようになります。

芸術は役に立たない、という向きもありますが、そんなことは全くないです。

何か、芸術に支えられて生きている気もします。

そんなアンニュイな夜。どうかみなさま、ゆっくりおやすみください。グーテ・ナハトです。

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辻邦生生誕94年

今日は辻邦生が生まれて94年目です。

また、今年は没後20年の節目でもあります。

生きておられたらまだまだたくさんの豊穣な作品群を産んでおられただろうに、と思います。

私が初めて辻邦生作品を読んだのが、1989年の夏ですから、あれから30年、という年でもあります。もちろん、私の先輩の読み手の方もたくさんいらっしゃいます。また、私より若く鋭い読み手の方とも知り合う機会も得ました。本当に、まだまだ辻文学は生きている、と思います。

しかし、このところ、辻文学に親しむことができずにいる、というのが悩みでもあります。さすがにこの生活状況にあって、文学に身を浸すことはままなりません。目まぐるしく動く身の回りの環境の中で、どうやって過ごすべきか、頭を働かせなければならない状況にあって、真実の世界ははるか彼方のように思います。

真実の世界を垣間見ることのできる窓や扉が、文学であり、あるいは芸術である、という直感を得たのはこの数年のことで、そうした窓の隙間から雫のようにしたたる美しさを見逃すことなく見つめ、あるいは時にその真実の雫に触れてみることが、生きる喜びをということなんだと思います。

先日、国立西洋美術館に参りまして、印象派の作品をいくつか見ましたが、やはり、それは、真実の世界への窓のように思え、いつかはあちら側を眺めたいという欲求に駆られました。

辻邦生の文学もやはりそうしたもので、たしかに、暗鬱な結末を迎える「春の戴冠」でさえも、その半ば達する昂揚は筆舌に尽くしがた甘美なものです。そうした甘美な雫にいくばくかでも触れること自体が、何か生きることの意味を感じさせるものです。

そうした甘美さの雫は、文学や芸術の窓からだけではなく、実のところいたるところにある真実の窓から滴り落ちているようにも思います。そうした真実の雫を見逃してはなりません。私も最近は、仕事場との往復に明け暮れ、実用にしか目が向いていなかったように思います。思考が硬直化し、何かさまざまな行き詰まりを感じていたように思います。昨日、自然にふれ、今日の辻邦生生誕祭(?)にあたって、何かさまざまなことが明澄な光の中に戻りつつあるのを感じます。

こうした気分になるのもやはり真実の雫に触れているということなんでしょう。辻先生なら至高体験とおっしゃるかもしれません。

また、これからも辻文学をも読みながらも、一年一年新しいことをやっていくことになる、と思います。

長くなりました。おやすみなさい。グーテナハトです。

4+

自然のなかで週2時間過ごすと良いらしい。

先日、以下の記事を読みました。

週に何分以上を自然の中で過ごせば健康さや幸福度が増すのか、その最低ラインが研究で判明
https://gigazine.net/news/20190921-2-hours-a-week-nature/

記事によると、週に2時間程度自然に触れると、健康や幸福感につながるというもの。確かに、最近、全く自然に触れてないなあ、と。

記録を確認すると、最後に「自然」に触れたのは、夏休みに行った房総の海岸以来だなあ、と。真夏は諸事情によりなかなか外出できないのです。

久々に行った近所の「自然」は、実に雄大に思え、広々とした農地を突っ切る畑道を走ったり、久々に湿った林の空気を吸って、気分が良くなった気がします。

今日は2時間弱ほど「自然」の中に居たようで、すこし気分がはれた気がします。で、さまざまな決断ができたのかもしれません。本当に、人間は考えるだけではだめで、身体を動かしたり、外気に触れたりしないと行けないみたいです。

またあすから仕事。すこしは外気に触れるように過ごしてみないと、と思いました。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

3+

つれづれ

少しご無沙汰になりました。

本当にもう、なかなか時間が取れなくて…。

近況?ですが、最近、アルコールをかなりやめてまして、8月は二回しか飲んでおらず、今月も、一回飲んだだけ。

メリットは、もちろん家計に優しいことと、帰宅してから自分の時間が少しできたこと。

デメリットは、寝る時間が遅くなってしまったこと。アルコール飲んで、さっと寝ていたのですが、やるべきことをられるようになったので、夜更かし気味。

で、スッキリ目覚める?と思いきや、なかなかそうは行きません。アルコールやめて、睡眠時間を取れば、体調は良くなるはずですが、レガシーな仕事なので、帰宅が遅く、手詰まりを感じています。都心に引っ越すと解決するのかしら…。

さて、最近は、イリアーヌ・イリアスを聴くことが多いです。疲れた時はイリアーヌ。ここ15年ほどお世話になっています。気だるいボーカルが本当に素晴らしいです。



さしあたり、週末はカレンダー通り休めるのでありがたいです。

それでは。

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