オペラを観る愉悦──《ワルキューレ》を聴きながら

ワーグナーのワルキューレ。

オーストリア読みだとこうだけど、ドイツ読みだと、ヴァーグナーのヴァルキューレになる。どちらも正しいようだが、幼い頃は、ウの濁音に憧れて、ヴァーグナーとかヴォルフとかヴィルヘルムとなやたらと言いたい年頃だった記憶がある。

http://www.dokken.or.jp/column/column22.html

それはそうとして、このワルキューレ、あるいはヴァルキューレ。リング四部作の中で一番好きな作品。他の作品は少しばかりとっつきにくい。あえていうなら、《神々の黄昏》のオーケストレーションの素晴らしさ、というのはあるけれど。

10年近く前の新国立劇場のリング上演の知的興奮が懐かしく、当時は、指環のことばかり当ブログに書いていた記憶がある。その後、新国立劇場のバックステージツアーで、ワルキューレ第三幕の小道具(キャスター)が、舞台裏で転用されていると聴き、あのトーキョー・リングはもう見られないのか、と少し寂しくなり。で、数年前に新たなプロダクションが上演されたが、私は諸般の事情によりこの数年オペラを封印しており、フォローできていない。

ともかく、リング四部作を全て実演で見た、というのは、音楽を聴き始めた小学生だか中学生の頃からの夢であり目標であったから、四半世紀後の実現はやはり嬉しかった記憶がある。ただ、それは、すこし拍子抜けするようなものでもあった気もする。意外にも、こじんまりとした世界ではないか、という感覚だった。

どうやら、中学生の頃に読んだトールキンの「指輪物語」のスケール感を求めていたように思うのだ。全6巻に加えて補遺版まであるトールキンの世界観は、恐らくはワーグナーの頭の中にあり、普通に聴いただけでは垣間見ることもできないのだろう。あるいは、ある種の仕事というのは、手がけてみるとあっけなく終わることがあるが、そうした感覚だったのかもしれない。それは、初めて第九を全曲聴いたときのあっけなさ、マーラーの交響曲を全て聴き終えたときのあっけなさ、にも似ていたようにも思えた。聴くだけなら、時間をかければできるものだ。

だが、その先がすごかった。とにかく、キース・ウォーナーの演出からそこに意図された解釈、あるいは自分が思う解釈を必死に考えた時に現れる無限の世界観に圧倒されたわけだ。簡単な例でいうと、ジークフリートは、映画《スーパーマン》のマークのシャツを着ている。そのSは、スーパーマンでありジークフリートでもある。2人とも、親を知ることなく、この地上で育てられた超人、という共通項がある。だから、キース・ウォーナーはあのシャツを着せたのか、とか。この解釈は不完全でもあり、あるいは誤りでもあるのだが、少なくとも、私はそうした解釈をしたという事実が重要だとなのだ、ということ。そういうオペラを観る愉悦を十全に堪能した。

またオペラハウスに行けるのはいつのことになるか…。だが、必ず行くことになるだろうから、その日を楽しみに待つことにしよう。

本当は、ワルキューレのことを書こうと思ったのだが、思いは横滑りして、ついついオペラの愉しみに着地してしまった。昨日から聴いているハイティンクが指揮をする《ワルキューレ》が素晴らしいのだが、そのことについては次のエントリに委ねよう。

おやすみなさい。Gute Nacht.

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ヴェーゼンドンク歌曲集を聴く

リオバ・ブラウンが歌うヴェーゼンドンク歌曲集を聴いているが、特に、《Schmerzen 心痛》に心が奪われる日々。これだけで辻邦生なら短編を書くだろう。

歌詞はワーグナーの不倫相手のヴェーゼンドンク夫人マチルダで、《トリスタンとイゾルデ》との関連が深い相手でもある。その背徳感を感じる。恋愛とはある種の背徳的な要素を持つものだが、その痛みを感じさせるものだ。まさに、本人たちはそれを感じて、この曲を作ったのだろうし、だから、その後、《トリスタンとイゾルデ》が生まれたのだと思う。

リオバ・ブラウンは、ドイツのメゾ・ソプラノ。だが、イゾルデやマルシャリンなどのソプラノもカバーしているようだ。やはり、イゾルデ歌いが歌うヴェーゼンドンク歌曲集は説得力があるということか。ここから二曲ほど《トリスタンとイゾルデ》に転用されてもいることもあるし。

指揮は、私が敬愛し、何度も(良い意味で)泣かされたペーター・シュナイダー。オーケストレーションはワーグナーではなく、フェリクス・モットル。ブルックナーにも師事したらしい。この深みのある憂愁は本当にたまらない。

シュナイダーの指揮は、柔らかくしなやかで、まるで和音が溶け込むような自然な響きを醸し出す。何度この響きに落涙したことか……。まさに、西欧の響きなんだと思う。欧州のオペラハウス、確かミュンヘンのシュターツ・オーパー、あるいはベルリン・コンツェルトハウスで感じた、ホールにオケの音が柔らかく吸い込まれる感覚を思い出す。新国立劇場で聴いたシュナイダーもやはりそういう響きだった。なんというか、非理性的な意見になるが、この響きが、西欧の響き、というものではないか。まめやかで、そつがなく、洗練され、雑味のない、すっきりとした、それでいて味わい深い響き。西欧を無条件に礼賛するわけではないが、貴重な芸術的所産だ。

こういう日々の一つ一つの感動を、先日も書いたように、まるで飛び石を伝うようにして生きている感覚がある。あるいは、油に覆われた海を必死に泳ぐような時に、一回一回の息継ぎに感謝するような感覚。

書き継げないのは、仕事の帰りが遅く、睡眠が足らなくなっているから。たしかに、これは、油にまみれて泳いでいるような感覚だ。そして、今日はなんとか息継ぎできたということのようだ。

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ブラームスを聴く夜

今朝は5時半に起きて仕事場へ。で、10時に仕事場を出て、新幹線に乗り新大阪へ。1年半にわたって御世話になった方々に会って、再び新幹線に乗り東京へ向かっています。

ともかく、なにか物寂しい気分になる弾丸大阪行きでした。そんな中で、一瞬、太陽の光を浴びたのが幸福でした。瞬間の幸福、でしょうか。

瞬間瞬間の幸福があるからこそ、人間は生きられると言うことです。その瞬間瞬間の幸福を胸にかき抱いて愛おしむことができるということこそが、人間の強さを形成しています。

聴いているのはブラームス。ヴァントが振った2番、3番、4番を聴いています。意外にもアグレッシブに聞こえてしまうのは、今日の私の気分によるところでしょうか。

ともかく、ブラームス聴きながら、真っ暗な車窓に映る自分の顔を眺めながら、なんて、遠くまで来てしまったのか、と思います。窓に映る自分の顔は、なにか重苦しくもあり、積み重なる疲れの幾重もの膜に覆われているようにも見えます。年齢相応でもあり、あるいは年齢を超えて居るようでもあり。こればかりは私にはどうこういえるものでもありません。

ともかく、むこう半年は大阪に行くことはないでしょう。しかし、その後はきっと定期的に新幹線で関西に向かうことになるんだろうな、とも思います。

それにしても。これからまた、一瞬一瞬に少しだけ見えてくる幸福を踏みしめながら生きていくことになるんだろうな、と思います。最近になって、幸福に生きるコツのようなものが分かってきた気がします。幸福というのは、心意気であったり、あるいは身の回りを整えるということから生まれてくるものなのかも、と思います。

つれづれと書いてしまいましたが、なにか、揺れ動くものが腹落ちしつつあるような気分でもあります。すこしずつ物事を変えていく時期なのかも、と思いました。

明日の東京地方は晴れるようです。良い天気もまた幸福の礎です。明日も晴天を楽しめるよう、今日はゆっくり休みたいです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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ワーグナー《ヴェーゼンドンク歌曲集》

雨の降る休日、ペーター・シュナイダーが降るワーグナーを聞く。この瞬間、幸福。だが、人生は瞬間の連続。 #wagner

今朝方のNHK-FMで、フラグスタートの特集をやっていて、そこで流れていたワーグナーのヴェーゼンドンク歌曲集が心に染み入りました。そこで聴いたのが、リオバ・ブラウンが歌っている音源。指揮は私が何度も何度も(いい意味で)泣かされた、ペーター・シュナイダー氏。

今日の東京は冷たい雨が降りしきっていて、本当に深くこの楽曲が心の中にしみこんで来ました。まるで心臓を取り囲む毛細血管にまで冷たく楽曲が入りこんだ感じ。この憂愁感はたまらないです。ワーグナーがマティルデ・ヴェーゼンドンクと不倫関係にあったときの作品で、詩を書いたのはその当のマティルデ。楽曲自体も一部《トリスタンとイゾルデ》に転用されていて、あの濃密な終末観な楽劇を思い起こさせます。

特に、心に残るのがSchmerzenという楽曲。太陽の没する夕刻のもの悲しさ、あるいは太陽が昇る朝への期待。なにか日夜の繰り返しのように、希望と絶望の間を振り子のように揺れる心うちが、あまりに深刻でダイナミックなオーケストレーションで示されているように想います。

冷たい雨は今もなお降りしきっていますが、なにか静かに机に向かいながら、この曲を聴ける瞬間が幸福に思います。人生は瞬間の連続で、こういう幸福感を感じる瞬間を愛おしむことが生きると言うことなのだろうと考えています。

明日も東京地方は雨。名古屋や大阪も雨ですね。憂愁な3月という感じでしょうか。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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辻邦生のことば──「大切なのは、全体を、閉じた円環のように、まず持つことだ」

わけあって早めに仕事を終えて、都内某所で待ち合わせ中です。少し時間が出来ましたので、久々に書き物ができるという幸せ。

それにしても今年の冬は体調を崩し続けました。

  • 10月の頭に風邪をひいて、声がかれるぐらいになりました。
  • 11月の後半に急性扁桃炎で入院寸前になり、引き続き薬疹が発生してしばらく寝たきりになりました。
  • 12月の終わりにまた扁桃炎になりました。
  • 1月の終わりに胃腸炎で発熱に
  • 2月のはじめからずっと風邪が治らず、咳が治まらず、とうとう血痰が現れ、本日医者に言ったところ、気管支炎でした。

いや、本当に何だかなあ、と言う感じです。急性扁桃炎にかかってからは、毎日うがいを欠かさず、寝室には加湿器を増設し、喉の痛みが出たら、早めにイソジンで対処し葛根湯を飲む、と対策を取っているのですが、2月の風邪にはまったくききませんでした。ま、いろいろ限界なんだろうな、と思う今日この頃です。まだ人生は続きますので、少し自分をいたわらないと。

さて、辻先生の言葉から。

君はぼくの性癖に気がついたことだろう、都会へ着くとすぐ、高い塔に上るという……。(中略)ぼくは何かを認識する場合、まずその全体を直覚する必要をかんじるのだ。つまり塔に上って、頂上から、都会の全体と周辺の風景を一望のうちに入れる。

(中略)

大切なのは、全体を、閉じた円環のように、まず持つことだ。

「黄金の時刻の滴り」のなかで、辻先生がゲーテに語らせている言葉です。

記憶では、「小説への序章」の中で、世界認識はまずは全体で把捉する、という考え方が提示されていました。小説を書く場合、なにか小説の世界全体をとらえて、そこから小説を書き続けていく、というようなテーゼでした。

帰納法的に、世界の個々のものすべてを捉えて、世界認識を構築するという方法は、人間には不可能です。「嵯峨野明月記」のなかで、狩野光徳という画家が登場します。彼は世界のすべてを描ききろうとして失敗します。

この「黄金の時刻の滴り」でもやはり、ゲーテに語らせるかたちで「具体的知識を加算しただけではもう追いつけるしろものではなくなっていた」という考えが出てきます。

このあたりの考え、辻先生の三つの原体験のうち「一輪の薔薇はすべての薔薇」という話に通じるのではないか、と思います。「言葉の箱」から引用すると、

一輪の薔薇のなかにはすべての薔薇が顔を出している。あるいは、薔薇の全歴史、全存在がたった一輪の薔薇のなかにもある。それはあたかも芸術作品の運命を象徴しているようだと、ぼく自身感じたのです。

という部分です。

小説世界の認識も、世界への認識も、なにか個々の認識から、全体の認識へと飛躍するという構造が語られています。以前も書いたかも知れませんが、これがどうにも哲学的な考えで、質料の差違が突如形式の差違へと変化する、という話を彷彿とさせるわけです。この考えは、私が若い頃読んだ西田幾多郎の「善の研究」で読んだものです。あるいは「善の研究」のなかで語られるベルグソンのエラン・ビタールの類いです(ただしいあるべきベルクソン解釈かどうかはわかりません)。

なにか、通常の認識行為が突然質的な変貌をとげるような瞬間。なにか悟りのような瞬間。キリスト教的に言うと神の啓示が来るような瞬間。そういう世界認識の瞬間を語っているように思います。それは、日常のなかに埋没して、単純無色の生活を送っているだけではダメで、そこになにか驚きのようなものであるとか、ゲーテの言葉でいうと「塔の上にのぼる」というパースペクティブを変える行為が必要なのだ、と言うことです。

とにかく、平板な無感動な生活は、きっと恩寵に満ちた人生にとっては、問題のあることなんだと思います。つねに感動を持ちながら生きられると良いのですが、と思いますし、そのための努力もしないと、と考えました。体調が悪ければ、抜本的な対策を考えないと、というのもその文脈でとらえると、まあ私もさまざま考えないといけないな、と思います。

今日の東京地方は雨です。久々の冷たい雨に思います。今日で2月も終わり。明日から3月。変化の季節が訪れます。

それではみなさま、おやすみなさい。

3+

今年も春が来た

先日の大阪行き、いつものように弾丸出張ですので、朝の新幹線に乗ってお昼前までに大阪へ移動しました。車内ではずっと端末を叩いていましたが、静岡か愛知あたりでしょうか、ふと窓の外に目をやると、梅でしょうか、桃色の花が咲いているのを見つけたのです。

スマホを窓の外に向けてタイミングを見計らったのですが、とれたのは傾いた写真だけ。左側に花をつけた枝がかすか見えます。SNSでは見事な早咲きの桜の写真なども観られますが、私にとっては車窓を流れる花が今年初めての春の兆しでした。

昨年もそうでしたが、なにか冬が永遠に続くような感覚があって、いったいいつまで続くのか、と、その始まりを想定することすらしていないような状況のなかで、ふと春の兆しを見つけたときに、あれ?という驚き、つまり意外なものをみたという感覚がありました。ああ、今年も春が来るのか、という驚きの感覚で、継ぎに来たのがホッとしたような安堵の感覚でした。それは春が来て寒い冬が終わるのだ、という安堵ではなく、今年も無事に季節が回ってくれるのだ、という感覚でした。地球が無事に太陽の周りを公転してくれているという安堵でした。

さらには、そうした天地の摂理が変わらず維持されていることへの感謝のような気持ちさえ感じました。よくぞ、地球を保ち続けてくれている、という感じです。

昨年あるいは一昨年に、天体としての地球の行く末について書かれた本を読みました。太陽の膨張による環境の変化は必ず起きますので、今の地球が未来永劫存在すると言うことは天文学的にはあり得ません。いつかは環境が変わるはずです。そうした中で、いまここにおいて人間が生きられる環境があると言うこと自体が、恩寵的な側面を持っている、と感じたのです。人間が生きられる環境が保持されているのは奇跡的なことです。

昨年は、オオイヌノフグリを見て春の訪れを感じて、同じような安堵を覚えました。今年もまた春の訪れを感じ、この春の訪れを毎回毎回愛おしむことが、生きると言うことです。それは春の訪れでもあり、夏の訪れでもあり、秋の訪れでもあり、冬の訪れでもあります。

日本における時間概念は四季のサイクルによって意味づけられています。四季を楽しむことこそ、人生を着実に歩むということ、あるいは充実した生をかたちづくることです。他の気候帯には、また別の時間概念があるのでしょうが、これは四季がはっきりしたのある温帯地方にある日本文化圏における人生なのだなあ、と思いました。

来週で2月は終わり。もう3月ですか。なんとなく、2月の立春よりも、3月に入った方が春になったという気分になります。ことしも良い春が来るといいな、と思います。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

2+

移動に際してマーラー10番を聴く

今年に入ってから、忙しさが続いています。もちろん、忙しさというのは相対的な概念で、私が忙しいと言っているのも、世界の忙しい人々に比べると暇な部類に入るのかも知れない、ともおもいます。結果的には、忙しさというのはタスクの優先順に帰結するもではないか、と思います。がゆえに、このWeblogに書くというタスクの優先度が下がってしまっている、というのが、忙しさが続いている、という先述の表現に対するるひとつの回答だと思います。さまざま時間が足りません。困りました、と言うところです。

今日は、仕事の集まりで、東京から大阪へ日帰り出張でした。我が家では、疲労というものは、移動時間に比例するのではなく、移動距離に比例するのではにか、という説が有力です。東京から大阪まで移動する2時間30分というのは、その時間よりも距離に応じて消耗しているのではないか、と思います。これ、なにか相対性理論と関連するのではないか、と言う発想があります。新幹線の移動であったとしても、相対性理論は有効で、その速度に応じて時間の流れが変わっているはず。疲労と時間に関連があるとするならば、距離が長く、高速で移動すれば、人間の疲労感覚にも影響するのではないか、というSF的発想があったりします。

それで、この2時間半をきちんと使いたいと言うことで、東京へむかう車中で書いています。

聴いているのはマーラーの交響曲第10番。シアトルフィルをトーマス・ダウスゴーが振ったもの。

どうも、昨年末もマーラーの交響教第10番ばかり聴いている時期がありましたが、どうやら今今でいうとこの曲への共感が半端なく高まっているなあ、と感じています。もともとマーラーは好きでしたが、そこにある民謡的なフレーズに苦手意識を感じていたのです。10番について言うと、なにかあまりそうした感覚を受けず、直接、楽曲が胸の中に差し込んでくる感覚を持っています。この音源、すこし弦のポルタメントが聴いていたりして、ねっとりとした感じに仕上がっているように思います。とても共感できる演奏だと思います。今日はすでに③回ほど聴いていると思います。

それにしても、仕事含めてたくさんの出来事がありますが、こうして音楽をしばしきいて心を洗い流すことができる、ということはひとつの幸いだと思います。そうしたいくばくかの幸いを見つける、というのが人生なんだろうな、と思います。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

2+

世界を探す。ワーグナーを聴いて。

今朝から聴いているのが、ティーレマンが振るワーグナーの《パルジファル》。

ワーグナーを聴いたのは久しぶり。と言うか、最近はろくに音楽を聴くことが出来ていなかったのだ。仕事が忙しいと言えば、それまで。だが、なにかほかの理由もあったような気がする。音楽を聴けなかったと言うことも、ワーグナーを聴けなかったと言うことも。

そのとき聴いている音楽というものは、おそらくは、その時々の身体と精神の状態を表しているはずで、例えば、モーツァルトを好んで聴く時は、なにか身体のなかの軋みのような、あるいは錆のようなものを外に出したいときだし、リヒャルト・シュトラウスを聴きたいときは、世界に疲れて、清らかな水で心臓を洗い流したいときだ。ジャズを聴くときは、たるんだ身体を引き延ばして世界に焦点を合わせたいときだ。

では、ワーグナーを聴きたいときの身体と精神の状態というのはどういうものだろう。

私がワーグナーばかり聴いていたのはおそらくは8年前のこと。2010年に新国立劇場で上演されたリング全曲公演を聴こうとしていたときだった。あるいは、東京春祭で演奏会形式のパルジファルを聴いたこともあった。あの頃は、世界の秘密をオペラの中に見いだそうとしていた時期だった。オペラは世界を映し出す鏡だ。100年以上前に作曲されたオペラであったとしても、現代の世界を照影する演出が加わることで、そこに世界認識と真理への道程が現れる。そうしたオペラ・システムに入れ込んでいたのが2007年から2013年ごろだったと思う。

おそらくは、ワーグナーのオペラは世界記述であって、たとえば、《パルジファル》であれば、世界の苦悩と救済が含まれている。あらゆる欲望がもたらす苦悩とそこからの救済。おそらくは、普通に生きていれば意識しなくて済むであろう苦悩が横溢している。たとえば聖槍や性的誘惑からの解脱ともいえる境地が描かれている(書いていて、思ったのだが、仏教的なモチーフで、2014年の新国立劇場《パルジファル》に仏僧が登場したのが自明に思える)。

で、なぜ今ワーグナーを聴きたくなったのだろう。振り返ってみると、巨大な奔流の中に飲み込まれ、包み込まれたい、と思い、ワーグナーをApple Musicで検索したのだった。それは昨日の夜のこと。何か、世界に疲れ果てて、まるで母胎に回帰するかのような気分で、ワーグナーの音源を探し求めていたのだ。

そこで、昨夜聴いたのが、ペーター・シュナイダーが振る《トリスタンとイゾルデ》。シュナイダーは大好きな指揮者だ。だが、意外なことに、いつものような高揚した感動がなぜかなかったのだ。

今朝になって聴いたのがティーレマンが振る《パルジファル》。最初はなにか冷め切ったスープを飲むような、なにか白けた感覚だけだった。ヘッドフォーンで聴くオペラはなにか滑稽なものにも思えた。オペラハウスで、暗い客席に幕の合間から差し込む光に打たれる瞬間はなににも代えがたいが、朝の満員電車の中で、ボリュームに気を遣いながら聴く《パルジファル》には、ミニチュアの世界遺産の模型を見るような不自然さがあったのだ。

だが、地下の駅から階段を登り切って地上に出て、思いきってヘッドフォンの音量を上げたとき、ワーグナーの奔流に包み込まれた感覚に襲われたのだった。

ちょうど《パルジファル》の第二幕で、クンドリの誘惑にパルジファルが耐え、「アンフォルタス!」と絶叫するシーン。後付けだが、なにか世界に抱きかかえられるような感覚だったのだと思う。音楽と一体となった瞬間だったのかもしれない。

地下の駅から仕事場までの10分間、ワーグナーの和声に包み込まれながら歩いたとき、そこに懐かしさを覚えたのだった。母胎に回帰、とさきに書いたが、まさにそうした感覚で、居るべきところに居るのだ、という感情だった。帰るべきところを見つけたような、なに安堵にも似た感情だった。そして、そこでなにか新しいものが見つかるのではないか、という期待のようなものを感じたのだ。

それから、雑巾のように絞られながら、仕事をした。窓の外には雪がちらついていた。夜になって、ようやくとくたくたになって、頭と眼の痛みに耐えながら仕事場をでて、地下の駅に向かう通路を歩きながらふと思ったのだ。もし、ワーグナーが存命であれは、おそらくはノーベル文学賞を取っていたのではないか。音楽家でもあり文学者でもあるワーグナーの音楽とテクストは多くの解釈を可能とするユニバースとでも言うべきもの。あるいは、宇宙への入り口にも思える。その狭い入り口に頭を突っ込んで、這いながら進んでいくと、つかみどころのない、豊潤という言葉でしか表すことのできない存在があるようだ。掴もうとすると離れていき、離れると寄ってくる。

ワーグナーを聴く時は、おそらくは世界を探しているときなのだ。

ワーグナーを聴いていた8年前もやはり世界探しをしていて、その後、さしあたりの居場所を見つけたのだろう。だが、今になってまた世界探しをしなければならない時期が来ている。そういうことなのだろう。

夜の列車はやはり人が多い。さすがにヘッドフォンの音量は絞るしかない。だが、今日、帰宅し、静かに机に向かう時間を持てるとしたら、もう一度《パルジファル》を聴いてみよう。

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しばらく時を忘れた──早瀬耕「未必のマクベス」

なんだか、ひさびさに没頭できる小説を読みました。「未必のマクベス」。

昨年買っていたのですが、ようやく、この数日、読み続けて時を忘れました。先日書いたように、少しは小説も読まないと、と思って手に取りましたが、ずいぶんとたくさんのことを勉強しました。

企業小説、恋愛小説、あるいはスパイ小説的な側面もあり、間口が広い作品です。

時間構成がすばらしく、経時的に物語を展開させるのではなく、さまざまなエピソードが時間を反復しながら進んでいくのが見事でした。辻邦生作品でいうと「風越峠にて」という作品がありますが、あの作品もやはり、戦時中と現代を行ったり来たりしながら進みます。「未必のマクベス」も、そうした趣があり、物語進行に重層的な膨らみと豊かさを感じたなあ、と思います。

また、筆致が実にリアリティに富んでいて、こういう世界はきっとどこかにあるのだろうな、と思わせるものでした。もちろん誇張や想像も含まれてはいるのでしょうけれど、そうした違和感を感じて首をひねるようなことは全くありませんでした。ただただ、ページをめくる速度が、先を知りたくなり、読み進めるにつれて加速していくような、そういう作品でした。

題名にあるように、シェークスピアの「マクベス」をモチーフにしていることもあり、そのあらすじとストーリー転回を重ねてしまうところも、この作品の素晴らしさだと思いました。バップジャズは、使い回されたフレージングの組み合わせを楽しむような趣があります。定められたパターンの中で、予測したパターンと、実際の演奏を比べて、その差違を楽しむような、そうした感覚がありますが、この「未必のマクベス」においても、やはり「マクベス」と「未必のマクベス」の差違を知らず知らず探すということを読みながらしていたように想います。

全くレールのない作品よりも、ある程度のレールがあって、そこにどういう列車がどういう速度で走るのか、というのを予測する楽しさ、というような感覚があるのだなあ、ということと思います。

なんだか、ずいぶんとたくさんのことを書いてしまいました。主人公はいわゆる団塊ジュニア世代ではないでしょうか。おそらくは、現在40代の男性が読むとぴったりはまりそうです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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つれづれ──今週は長く短かった

1月最後の週が終わり、2月に入りました。あまりにたくさんのことがあった一週間で、月曜日が遙か彼方のように思います。けれども、なんだかあっという間に終わった感じもします。

時間の感覚が狂っています。睡眠時間も、4時間の日もあれば、7時間の日もあります。仕事場へ向かう電車のなかも睡眠をとっています。なにか朝なのか夜なのか、あるいは寝ていたのか起きていたのかよくわからない、といったような、そんな感じもします。時間感覚に違和感があり、二ヶ月のスパンがかなり短く感じています。つい二週間ほどまえ、扁桃炎で寝込んでいたような気がします。

本も、時間を見つけて何冊かよめましたし、昨日は500m、今日は400m泳ぎました。まあ充実した一週のかもしれませんが、それにしてはなにか感覚が違います。なにか人生レベルの変化が起きているような気もします。何が起きたのか、もうしばらく眺めてみないと、と思っています。

きょうはこちら。大学でジャズをやっていたときにとてもとても流行っていたIncognito。7年ほど前にもマイブーム的なものがあって、ずいぶん効いた記憶があります。

そうか、Incognitoを聴いていたのは7年前なのか。私はすでに、時がたつのが速く感じることに慣れていた気がしていましたが、なにか、慣れていたということ自体にも違和感を覚えているようです。時間の長さを感じるのは、時間÷年齢という算式によるもので、反比例的な曲線を描くと思っています。ジャネーの法則というそうです。しかし、一年ほど前に読んだ雑誌記事では、人間の代謝の速度に関係しているのではとありました。代謝が落ちると、心的時間が長くなるが物理時間が短くなるとのこと。

イベントが多いと時間の経過は遅いけれど、年を重ねると時間の経過は速くなる、のだとしたら今週はそんな一週間だったのかと思いました。

人生まだまだ加速していくのだとしたら、動きを加速しないと。やるべきことはたくさん。がんばらないと。

それではみなさま、おやすみなさい。

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