Movie

先日、BSで放映されていた映画《男と女》をみました。

有名なタイトル音楽はもちろん知っていますが、実際の映画を見たのはお恥ずかしいことに初めてでした。なるほど、こういう映画だったのか、と。もっとドロドロとした愛憎劇を予想していたのですが。

とにかく映像が美しくて驚きました。ドーヴィルの風景がとてもとても美しく、なんだか夢の中の世界のようでした。夕暮れの海岸。暗くうねる鉛色のイギリス海峡。

ドーヴィルはノルマンディーの海岸の保養地です。プルーストの失われた時を求めてのカブールの近くでもありますし、あるいは辻邦生の短篇の舞台となっているル・アーブルの近くでもあり、これまで文学の中で慣れ親しんだ土地の風情を感じました。

さらには音楽の美しさ。シャンソンというか、ジャズというか、ボサノバというか、クラシックと言うか、とにかく映画の中の情感と音楽が緊密にマッチしていて、音楽だけで映画の中に込められている感興を感じることができます。

それにしても、出てくる登場人物達が、全身全霊を込めて生きているということに感銘を受けました。

主人公ジャン・ルイは高名なレーサーです。そしてもう一人の主人公であるアンヌの夫はスタントマン。いずれも危険と隣り合わせの仕事です。

以下、ネタバレ。

ジャン・ルイの妻は、ル・マン耐久レースで事故にあったジャン・ルイを心配するあまり、発狂して自殺すると言う設定。そしてらアンヌの夫は、爆破シーン撮影中に事故で亡くなっているという悲劇。夫にあるいは仕事に全身全霊を捧げた末の出来事。

さらに、ジャン・ルイもアンヌもすごいです。

アンヌは、知りあって間もないというのに、モンテ・カルロのレースに勝利したジャン・ルイに「愛している」という電報を売ってしまう。電報を受け取ったジャン・ルイは、モンテ・カルロからドーヴィルまで、フランスを一晩で横断して会いに行きます。
(この夜間のフランス横断は、なにか辻邦生の短篇「夜」を思わせるアイディアです)

それに祖手も、これが生きると言う事なんだな、と思います。この危うさに身を焦がしながらも、自分の情感に従って生きていくと言うありかた。これが辻邦生の言う「全身的に生きる」という事ではないのか、と思います。こんな生き方、日本では無理だなあ、と思います。が、せめてイデアールな世界のこととして心の中に大切にしまっておきたいものだ、と思います。

さて、ともあれ、明日からまた1週間が始まりますが、列島は台風縦断中です。東京地方もいよいよ風が激しく、窓の隙間から風が吹き込むかんだかいうなり声がしていて、幾分か心が乱れます。みなさま、どうかお気をつけてお過ごしください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

ぼくは時どき思うことがある──ぼくらはもと大胆に、生きることを十全に引き受けて、ヒロイックに生きなければならないのではないか、と。

大胆に、ヒロイックに生きるとは、太陽や風や海や大地に直結して、<いま・ここ>を全身的に生きることだ。街を歩いているなら、街の中に全身的に入りこんでいる。食事をしているなら、食事の楽しさの中に全身的に入りこんでいる──ぼくはそういう生き方をヒロイックと呼びたいのだ。

「夏の光満ちて」186ページ

おそらくは14年ほど前に呼んだときに、鉛筆で印をつけていたところ、やはり今読んでも心に響くなあ、と思いました。

さまざまな試練や苦難と言うものが、生きると言うことにひもついています。現に、先日も仕事場で巧くいかないことがあるわけです。組織を代表して持っていた説明が炎上して、会議中に被弾したり。ただ、そういう経験すらも、なにか清々しく感じられるなあ、と。楽しくはありませんが、まあ、何かにその瞬間は入り込んでいることは確かです。

全身的に入り込む、というテーゼは、なにか勇気を与えてくれるようにも思います。全身的に入り込めば、まだまだ生きられるのではないか、言う感じです。人生は長く短い。この瞬間瞬間を全身で生きないと、と強く思いました。

さて、この週末台風が来るようです。被害がなければ良いのですが。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

9月24日は辻邦生の誕生日。1925年生まれですので、今年で生誕93年です。時が経つのは速く、さまざまなものが現実から記憶へ、そして歴史へと移り変わっていきます。おそらくは、後世においては辻邦生と同時期に生きてきたことをなにか愛おしく思うことがあるかもしれません。例えば、私の父が、少年向け伝記に登場するシュバイツァーのような偉人と同時期を生きていたことに憧憬を覚えるかのように。

最近、辻邦生「夏の光満ちて」を再読しています。と言っても、前に読んだのはおそらくは(記憶が正しければ)2004年頃と思います。14年前ですか。早いものです。

1980年に辻邦生はデカルト街に部屋を借りて、パリ大学で教鞭をとります。その一年間の日記が、文芸誌「海」に連載されていました。それが単行本となって刊行されているわけです。

とにかく、冒頭の東京からパリへ向かう高揚感とか、パリで部屋を借りて、調度品を整えるシーンとか、新車を買ってシャルトルまでドライブに行くシーンとか。読んでいるこちら側も、何かパリで過ごしている気分になります。

そのなかで、とても印象的だったのは、パリはローマを模倣している、というもの。ギリシア・ローマを模倣するがそこにフランスらしい優雅典雅がある、という一節。パンテオンのような事大主義的な建造物について言及している箇所における一節でした。

ナポレオンが皇帝になったのは、もちろん、西ローマ帝国の皇帝の継承なわけで、そういう観点でローマを模倣する、という解釈もあります。ですが、「背教者ユリアヌス」を読み、そこにあったローマの精神の普遍性のような議論を知っていたとすれば、それは、何か、建築だけではなく、精神のあり方にあるのだ、と思うわけです。

それは、辻邦生の一貫したギリシア・ローマへの尊敬や憧憬があるのだなあ、とも思います。それは、「背教者ユリアヌス」はもちろん、「春の戴冠」における新プラトン主義を思い出すものです。

この「パリはローマを模倣している」という一節で、パリを愛した辻邦生を貫くギリシア・ローマを体感した気がします。まるで、背中をなでるとき、その向こう側にある脊椎を感じる、といったような気分でした。

さて、最近あまり書けておりませんでした。一人の時間を少しずつ作り、いろいろと進めています。今後はもう少し書けるようにしたいと思います。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Ralph Vaughan Williams

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夏が終わり、寂しさにくれる日々です。いつから夏が好きになったのだろう? 先だって、そんな思いを書きました。生きるということは盛夏にある、ということなのかも、と。もちろん、歳を重ねればまた変わることでしょう。

今日は、ヴォーン・ウィリアムズを聞いています。交響曲第3番「田園」夏の終わりに相応しい音楽のような気がしてなりません。

夏の夕暮れ、田園に落ちるバター色の夕陽。暑さにうだりながらも、そよぐ風の中に涼しさを感じるころ。夏を惜しむ蝉の声が聞こえる。収穫を終え、籠に積まれた夏野菜を積み込んで、ふと空を見上げると、淡い空に微かに三日月が見える。息を吸い込むと、湿り気を帯びた土の匂いがする。いつもの匂いなのに、なぜか愛おしく思う。そうか、この匂いは来年までお預けだからか。暮れゆく空は一層淡いモーヴ色に染まつた。峰々の向こうに姿を隠そうとする輝く太陽に手を合わせた。陽光が畝を照らし、木々は陽光で燃えるように輝いていた。

季節の変わり目で、気温はジェットコースターのように変わる季節です。皆様もお身体にお気をつけて。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Classical,Concert

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今年は、災害が多い一年です。日本は災害が多い地域ですので、おそらくは自然信仰がなされていたのだと思います。こればかりは、備えをして、あとは祈るしかありません。どうかみなさまお気をつけください。

そんな中ですが、本当に久方ぶりにサントリーホールに参って、東京都交響楽団演奏会でルトスワフスキの交響曲第三番を聴いてきました。

プログラムは以下の通りで、オール・ポーランドでした。

  • ワーグナー 序曲《ポローニア》
  • ショパン ピアノ協奏曲第二番ヘ短調
  • ルトスワフスキ 交響曲第三番

指揮はアントニ・ヴィト。ピアノはシャルル・リシャール=アムランでした。

予習を幾分かしていたと言うこともあり、ほんとうにスリリングな体験でした。おそらく、実演で聴くことのできるチャンスはそうはないはず。貴重な機会をいただき感謝しかありません。

正直、前半の初期ワーグナーとショパンはあまりうまく聴くことができませんでした。予習不足でもあり、あるいは、今の音楽的嗜好が初期ワーグナーやショパンには向いていないと言うことだけでして、演奏は素晴らしかったと思います。

で、後半のルトスワフスキは前のめりになって聴いてまして、打楽器の連打や、金管の咆吼には、自然に笑みがこぼれてくる感じでした。予習で聴いていたとおり、まるでベルクのような響きにホールが満たされまして、ワクワクしながら次の展開を待ち続けるという感じでした。

さて、明日は金曜日。一週間はあっという間です。

ともかく、季節の変わり目です。どうかお身体にお気をつけください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

BelinerPhilharmoniker,Classical

ルトスワフスキを聴く

故あって、ルトスワフスキの交響曲第三番を聴くことにしました。

今聴いているのは、ベルリンフィルを作曲家自身が振っている音源です。

この曲はシカゴ交響楽団の委嘱で作曲され、初演は、ショルティがシカゴ交響楽団を振ったとのことです。何枚かCDも出ているようです。作曲家自身の演奏もいくつかあるようですし、サロネンなども録音しているようです。

何度か通して聴いていますが、かなり気に入ってきました。最初に聴いたときは、まずい、理解できるか?と不安に感じましたけれど。和声の感じが、ベルクの《ヴォツェック》を思わせる美しさで、かつてベルクばかり聴いていた頃のことを思い出しました。

管理された偶然性、と言うことで、指揮者が奏者のアドリブ演奏をコントロールする、ということのようです。まるでジャズのようなスタンスですね、と浅はかにも思ってしまいました。

楽譜の映像も見ましたが、なかなか手強い感じです。

現代音楽を聴くと言うこと

そういえば、現代音楽をアグレッシブに聴くのは何年ぶりだろう、と言う感じです。

20年ほど前、ずいぶん現代音楽に挑戦した頃がありました。コンロウ・ナンカロウとか、ヴォルフガング・リームなどを、アンサンブル・モデルンの演奏で聴いたのがとても懐かしいです。

また、ベルクも現代音楽だとすれば、前述のように、ベルクばかり聴いていた時期もありました。

現代音楽というくくり自体、難しい定義で、現代に作られているからといって現代音楽でもないわけで、そのあたりの勉強をしていたこともあったなあ、などと思い出したりしました。20年前はずいぶん音楽にアグレッシブで、そういえば、楽理科に入学できないか、などと思いついて調べたりした記憶もあったなあ、などと。

もっとも、音楽的な才能は、あるようなないような、と言う感じで、ということは、才能はあまりない、と言うことなので、それを理解してからは、あまり変なことを思うこともなくなったなあ、と思います。

ただ、そうはいっても、現代音楽、あるいはオペラでもよいのですが、音楽に対してアグレッシブに挑んでいた時期からみると、すこしその勢いもなくなってしまったように思え、これではいけない、とあらためて考えたのでした。

生活環境がかわり、なかなか時間がとれなくなったから、というのが一義的な理由なのですが、それはそれで、人間として寂しい限りだな、とも思います。

やはり芸術に触れることは、人間を人間たらしめること、と思います。緩んだ桶を箍で締め直すように、芸術は人間を締め直すのだと思います。

そういう意味では、今回ルトスワフスキを聞けたのは、よい機会でしたし、本当に嬉しい限りです。

おわりに

今日は西日本は台風とのこと。幸い関東には大きな影響はありませんが、それでも雨で電車が止まったりしているようです。どうか皆様、お気をつけください。

おやすみなさい。グーテナハトです。