今日は園生忌です──辻邦生「廻廊にて」朗読会

はじめに

今日は7/29、辻邦生先生のご命日です。

軽井沢で倒れられてしまった辻先生。それでもなお、20年経った今でも新刊本が出るというのは、辻先生の作品が今でも生きているということなのだと思います。

「廻廊にて」朗読会

昨日は、学習院大学史料館主催の朗読会「廻廊にて」に行って参りました。午前の部でしたが、キャパは30名で、満員でした。写真は会場となった学習院の東別館です。おそらくはこの通路を辻先生も歩いたことでしょう。

「廻廊にて」は、辻先生最初の長編です。私も3回ほど読みましたが、ずいぶん前でのことになりました。おそらくは15年以上は読んでいません。それでも、朗読を聴いていると、いろいろなことを思い出しました。

辻先生の素晴らしさは、描写の素晴らしさ、というのがひとつあると思います。朗読を聴きながら、太陽の光に満ちた回廊を、「光の島」、と表現しているところなど、本当に圧巻だと思います。

それから、匂いの描写。亡くなった親友のアンドレの葬儀で感じる死臭の描写など、身震いを禁じ得ません。

この絶えざる長きに渡る鍛錬と、この一瞬にかける肝のすわった瞬発力は、筆舌に尽くしがたいものがある、と思いました。

「廻廊にて」の暗さ

そして、何より、文学とは喜びであると同時に苦しみも表現すべきこと、を感じました。「廻廊にて」は本当に苦しいことが多いです。

学習院の中条省平先生が、昨日の朗読会の最後に解説として話されていたことのひとつが、「廻廊にて」にある陰鬱な空気というものは、戦争体験によるもので、戦争なしには、生を愛おしく思う、ということは考えられない、ということでした。中条先生は、暗さをバネに生きることを肯定する、とおっしゃっていましたが、まさにその通りだと思います。

辻文学には、さまざまな死の影が散りばめられる物語が多く、高校時代に読んだ時に、辻文学には必ず死がつきまとう、と考えていました。死があるからこその生、なんだと思います。

(その後、「西行花伝」で、生と死が融合したのには驚きました)

おわりに

そのほかにも、中条先生の刺激的なお話もありましたし、なにより朗読された4人の大学生も素晴らしかったです。

「廻廊にて」は、小学館から復刊していますが、どうやらそろそろ品切れのようです。500円と安く、活字も大きいのでつい買ってしまいました。みなさまもお急ぎください。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

2+

NHK BS プレミアム「美の壷」に辻先生の山荘が登場

今週末、7/19(金)19:30〜20:59に放映されるNHK BS プレミアム「美の壷」で、辻先生の山荘が登場するようです。教えていだきましたので、こちらでもご紹介いたします。ありがとうございました。

https://www4.nhk.or.jp/tsubo/x/2019-07-19/10/14817/2043752/

軽井沢高原文庫のブログでも紹介されていました。

https://ameblo.jp/kogenbunko/entry-12492807532.html

辻先生倒れる直前まで過ごしておられた山荘登場するようです。取り上げられかたは変則的なもののようですが、どのようなものなのか楽しみです。

今日は短く。

おやすみなさい。グーテナハトです。

2+

辻邦生『パリの手記』より『空そして永遠』を読む その2 スペインの思い出

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毎日5分辻邦生を読む、という習慣付けを3日間続けました。朝の5分がなにか楽しみになってきた感があります。読んでいるのは通勤電車のなかです。幸い私は始発電車に乗ることが出来ますので、まずは座って5分本を読みます。その後は、すいませんが、睡眠をとります。毎日の睡眠時間が4時間強なので、通勤電車の睡眠も実に重要です。

『空そして永遠』は、スペイン旅行から始まったと言うことは先日書いたとおりです。やはり、フランコ時代のスペインは今とは違う風情だったのかもしれません。辻邦生はスペインの人々の印象を、かなり厳しい口調で書いていました。それは独裁制によるものという印象を感じたようで「独裁制によって骨ぬきにされ、不機嫌で疑いぶかく……」とここに書くのがはばかられるほどの内容でした。「ようやくスペインを脱出した」という表現は、やはり酷暑と疲れによるものでしょうか。

このあたりをよんでいたときに思い出したのが、ギュスターヴ・ドレが書いた「シェスタ スペインの思い出」という絵です。

Gustave Dore - La Siesta, Memory of Spain - Google Art Project.jpg
By ギュスターヴ・ドレGwHIUBydu4m7Ig at Google Cultural Institute maximum zoom level, パブリック・ドメイン, Link

酷暑の街の日陰で休む人々の姿。この19世紀に描かれた情景はもしかすると50年前のスペインにまだ息づいていたのではないか。そんな想像をしていました。

と言うわけで、明日もまた読めますように。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

4+

辻邦生『パリの手記』より『空そして永遠』を読む

先日の講演会のあと、私は最近、あまりにも時間が取れず、辻邦生をあまり読めない、ということをある方に話したところ、その方は「毎日五分読めばいいんですよ」と言われました。

確かに。

ということで、早速、「パリの手記」を読み始めました。今回は、趣向を凝らして、最後の巻「空そして永遠」から読み始めました。

この巻ら、私の大好きな「サラマンカの手帖から」のもととなるスペイン旅行記から始まります。もちろんサラマンカを訪れたときのことも。

サラマンカで泊まったホテルは、やはり、エル・アルコ。老婆、美人の奥さん、美男のポーイは、「パリの手記」にも登場しています。両替に「グラン・ホテル」に行くのも同じ。コロンブスへの言及もありました。そして、イカとエビのフライを食べたのもおそらくは実話のようです。

ここから、あのジプシーの少女がどのように登場するするのか…。興味は尽きません。

辻邦生はあとがきにこう書いており、詮索はあるいは無意味なのでしょう。

この『パリの手記』の出版はそうした作品の世界を説明したり補足したりするために行われたのではない。ある意味ではそれらと『パリの手記』とは別個の独立した世界と考えることもできる。むしろそこに一個の閉ざされた空間があると感じられた故に、私は、それを明確な形で所有したいと考えたのだ。

さて、スペイン。

私は行ったことはありませんが、この辻邦生の描く半世紀前のスペインが、私のスペインになっています。全てを放擲して、スペインへ向かうことを夢想しますが、おそらくは、辻邦生のスペインはありません。私のスペインがあるだけでしょう。

同じく、私のドイツもあれば、私のイタリアもあります。この考えが、あのポン・デ・ザールで辻邦生が得た直観なのか、と思います。それは、いわば、各々の閉ざされた空間です。そして、こうした閉ざされた空間の交わりもやはり文学の機能であり、意味なのだろう、と考えます。哲学的な間主観性とはまた違う原理です。

また長く書いてしまいました。他の仕事もあるのですが、ついつい。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

3+

講演会「没後20年辻邦生を語る」にいってまいりました──その2 松浦寿輝先生「辻邦生──天性の小説家」について

はじめに

昨日の続きです。

学習院大学史料館講演会「没後20年辻邦生を語る」の後半は、作家・詩人・批評家の松浦寿輝先生による講演「辻邦生──天性の小説家」でした。こちらも本当に勉強になり、さまざま考えを巡らす機会となりました。

松浦先生のお話は、辻邦生を天性の作家として捉え、作家デビュー前のパリの手記における1つのクライマックスであるパルテノン体験記述の文体と内容の解釈を通して、辻邦生がデビュー前にいかに作家として完成していたのか、説明していくものでした。

天性の作家

辻邦生の作家デビューは37歳。早いとはいえない作家デビューではありましたが、実のところ、その時点で辻邦生は作家として完成していて、つづく40台において奇跡的ともいえる創作エネルギーを爆発させて、「背教者ユリアヌス」をはじめとした大作群をものにしていくのです。

これは、作家デビュー前に、技術的訓練をただひたすらに積んでいたわけで、「たえず書く人」という言葉が相応しいものだったわけです。

松浦先生は、作家でありたいという意志・決意・努力の持続にこそ天分が現れるのであり、「天性の作家」とは、作家たらんとする情熱と決意を持続し、電圧を高めて、一挙に書き出し、花開くもの、とおっしゃっていました。今風にいうとレジリエンスの発露という所だと思います。

実際に、パリの手記のなかから第3巻「岬そして啓示」の中から、ギリシアを訪れた辻邦生がパルテノン神殿を訪れたときに書き記されたとされる実際の文章を分析して、均整のとれた躍動感のあるリズミカルな文章を解きほぐしていき、デビュー前からいかに完成されていたのか、松浦先生は熱く語っておられたと思います。

文章の長さと時間が呼応していたり、風の描写など身体感覚を大切にした描写、過去時制と現在時制を織り交ぜた文章、など、あらためて味わいました。長いセンテンスと短いセンテンスの組み合わせが、音楽的でリズミカルなアクションに満ちた文章となっている、という話で、おっしゃるとおりと思いました。

(ただ、私は辻邦生以外の作家の小説をあまりよむことが出来ずにいまして、こうした文章の特徴を言われたとしても何かそれが自明のことであるようにも感じました。それしか知らないとその価値が分からない、というようなそういう感覚でした)

辻邦生と西欧文明

辻邦生は西欧文明に影響をうけたとされますが、そもそも、西欧というのはヘレニズムとヘブライイズムという二つのH(世界史の教科書で2Hと言う言葉で表されますが)によるものですが、辻邦生はヘレニズムには興味があったがヘブライイズムには興味がなかったのでは、という見解があったりしまして、たしかに「ユリアヌス」も「異教」が一つの要素ですし、「春の戴冠」においても、ギリシア的イデア論の復興がテーマでした。

個人的には、そうした割り切りができたとしても、キリスト教的モチーフを用いた作品も思いあたたりしまして(「風の琴 二十四の絵の物語」の第八の旅「地の装い」)、あるいは、「背教者ユリアヌス」の最新文庫版の解説で加賀乙彦さんがドキッとすることを書いておられたり、これもなにか一つの大きな辻邦生研究のテーマなのではないか、と思いました。

あるいは、西欧は車の両輪の一つであり、日本文化への興味と眼力があったということもわすれてはならない、と話しておられました。

また、宗教的な観点では、「美と永遠」ひとつの根本概念として辻文学の中に屹立している、という趣旨のお話をされていたことも付記いたします。

辻邦生の小説とは何か?

辻邦生の小説は、一体何か?という問い。池澤夏樹さんが、辻邦生をモダニズム小説として捉えている点について松浦さんは否定的にとらえておられました。モダニズムと言うよりもむしろ、十九世紀的小説を完成させたのが辻邦生だ、という見解でした。辻邦生が留学した1957年から1961年のパリはヌーヴォー・ロマン、アンチ・ロマンの時代だったのです。その時代にあっても辻邦生は、十九世紀的小説を守り続けた訳です。まさに、辻邦生のなかには小説の完成形があって、それを守り続けたのだ、ということでしょうか。

辻先生との思い出

松浦先生の講演の最後は、辻先生との個人的な思い出でした。松浦先生も学習院大学の仏文科の非常勤講師をされていたとのこと。そのころ辻先生との交流があったとのことです。松浦先生が辻先生に詩集を贈られた後に、学習院大学で辻先生とすれ違ったときの思い出、秋の日の光の中で、辻先生と挨拶されたことを懐かしそうにそしれ嬉しそうに話しておられて、辻先生は、アポロン的知性の持ち主で、明晰、明澄、にこやかだったというお話で締め括られました。

おわりに その1──十九世紀ロマンの時代

辻邦生の小説が十九世紀小説の完成形というのは、ひとつ直球的な結論で、実に明快に感じました。しかし、この十九世紀的(辻先生の時代にあっては「前世紀的」となるのでしょうけれど)という言葉は否定的に捉えられるのではという思いもあり、すこしショッキングに感じたのも事実です。

ただ、その後考えたのは、おそらくは十九世紀というロマン派の時代を再構成しているという肯定的な意味合いでも捉えられるのではないかと考えたのです。クラシック音楽において、十九世紀ロマン派はまだアクチュアルで、多くのコンサートでは十九世紀に作られた音楽が演奏されているわけですし、現在の人権意識などは十九世紀において完成形へと形作られたわけです。

もちろん、その後、十九世紀は良くも悪くも瓦解していくわけですが、そうした十九世紀的なロマンの時代=つまりローマ風=異教風=ヘレニズム風の時代を現代に再興しようとしているルネサンス的なありかたとして辻邦生の小説があるのだ、と考えました。

十九世紀は古いのではなく、何度となく人類の歴史に訪れる人間性恢復の波の一つが辻文学なのだ、と思い、おそらくは次の波が来るときに、あらためて辻文学の重要性が高まるのだろうなあ、と思いました。

おわりに その2──小説家の三要素

また、作家とは、文章表現、思想、物語構成、の三つがあるのではと思います。それは辻邦生が「言葉の箱」で語っている、詩、根本概念、言葉という小説の三要素に対応為ているのではないか、と思います。こうした三要素を天分の小説家である辻邦生がどのように鍛えていったのだろう、そういう思いを感じながら、昨日今日と時間を過ごしていました。「言葉の箱」をもう一度読むとか、「パリの手記」をもう一度読もうか、などと思いながら、そろそろ日付の回る時計を眺めながら、キーボードをたたいております。

なかなか時間が取れずに今日も夜更かし為て書いています。

そろそろ休んで、明日からの現実に向き合おうと思います。また雨が心配な季節になりました。どうかみなさまお気をつけください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

3+

講演会「没後20年辻邦生を語る」講演会──その1 拝戸雅彦さん「二つの磁場から──名前で語る人と語らない人」について

今年も、学習院大学史料館の辻邦生講演会の季節が参りました。梅雨空のなかではありましたが、目白へと行ってまいりました。

「二つの磁場から──名前で語る人と語らない人」

キュレーター・美術史家の拝戸雅彦先生の講演「「二つの磁場から──名前で語る人と語らない人」は、本当に刺激的で、私にとってはなにか刺激的な辻邦生解釈を得たような気がします。

拝戸先生は名古屋大学文学部哲学科美学美術史専攻における辻佐保子さんのお弟子さんで、佐保子さんとの関わりの中で、辻先生との接点をもたれていて、さまざまな思い出話を盛り込みながら語られる辻邦生像はとても新鮮でした。辻先生を語るアプローチが本当に斬新で、私は我を忘れて聞き続けたのです。

ジャズそして未来へ

まず、辻先生と拝戸先生の接点が間章氏という点。間章氏は、音楽評論家で、立教大学時代に辻先生と交流があったというのです。拝戸先生は間章氏の文章を中学生の時に読まれて影響を受けたというのです。それは、チューブラーベルズのライナーノーツのテキストで実に難解ななもの。拝戸先生は、辻夫妻のご自宅を訪ねられたときに、この間章氏の著作について話をされたことで、拝戸先生の印象が辻先生に残ったのではないか、とのことでした。

そして、最後の締めはロバート・グラスパー。どうやら辻家では、日曜の午後にマイルス・デイヴィスを聞いておられた、と言うこともあり、きっと、辻先生や辻佐保子さんがご存命なら、ロバート・グラスパーを聴けば喜ばれたのではないか、というお話。

(Robert Glsper, Black Radio)

これは、本当に凄いことだと想うのです。

いずれもジャズを通底としたお話で本当に新鮮だったのです。普通にはできない発想で辻先生や辻佐保子さんのことを語られたなあ、と考えました。

辻先生は、ジャズを聴きながら自動車を飛ばして軽井沢へ出掛けられた、というエピソードをどこかで読んだ記憶があり、確かに、グラスパーのドビュッシー的な和声・旋律と織りなす言葉を聴いてきっと喜ばれるのではないか、と思いました。

何か、現代の新しい芸術や文学をみて辻先生が何を思われるのか、という発想につながり、いまはおられない辻先生が、まだ生きておられてなにか語りはじめるのではないか、という感覚を持ちました。辻邦生再解釈というと言い過ぎかもしれませんが、未来に開かれた辻邦生像を考えられるのでは、と感じました。

「最後の四つの歌」をめぐる解釈

実に印象に残ったが、リヒャルト・シュトラウス「最後の四つの歌」に関する考察です。

辻佐保子さんが書かれた「辻邦生のために」の中に、「最後の四つの歌」のうち「夕映え」を辻先生が聴かれるシーンがあります。アイヒェンドルフの詩が使われた「夕映え」は、人生の終わりと一日の終わりを重ねた歌詞ですが、辻先生がなにか死期を悟りながらこの「夕映え」を聴いていたのではないか、というシーンです。

拝戸先生は、辻先生の死後まもない時期に佐保子さんが幾分かメランコリックな状況で書かれたシーンであり、実は違うのではないか、と解釈されていました。辻先生は、最後まで現実世界で死を克服するかのように語り続け書き続けることに尽くそうとしていたのではないか、という解釈。たしかにそうかもしれない、と思いました。あるいは、拝戸先生が、辻さんご夫妻のこと、とくに佐保子さんのことをよくご存知だったからこそできた解釈なのだ、とも考えました。

おわりに

拝戸先生の講演は、実際にチューブラー・ベルズやロバート・グラスパーの音楽を聴かせてくださったり、あるいはキュレーターのお仕事の大変さを垣間見るものであったり、と実に素晴らしいものだったと思います。ほかにも重要なことを話しておられましたが、私の印象に残ったことを書きました。

ロバート・グラスパーは、私も2015年頃に知って以来よく聴いていて、拝戸さんが取り上げられたAlways Shineと言う曲も知っていました。

学習院大学の講堂でグラスパーを聴くことになるとは想像しておらず、なにか不思議な気分に浸りながら、グラスパーの雨の都会のような冷たい匂いを感じていました。そのとき、拝戸さんの姿がモニタに隠れて私の席から見えなくなり、拝戸先生が退席されたのではないか、と感じたのです。

何か、このまま音楽とともに講演が終わっていくような感覚、それはまるでジャズのアルバムで、トラックがフェードアウトして終わっていくように感じ、それはそれで心地よい終わり方では、と思いました。もちろん、それは私の錯覚で、最後は、きちんと締めがありました。

すいません、書いていたら、どんどん長くなってしまい夜更かしをしてしまいました。松浦寿輝先生の講演は次回書きます。これもまた刺激的でした…。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

4+

美しい人生の階段を昇りたい──辻邦生「美しい人生の階段」より

最近、なるべく自分の机で過ごすようにしています。

大変贅沢なことなのかもしれませんが、この先を生きるためには、一人で過ごす時間が必要です。昼間は、いくつもの耐えがたい思いをしながら過ごしていますので、せめて一人で音楽を(今日はモーツァルト)聴きながら、モニタやノートを見ながら物思いにふけると、なにかしら人生の目的へと進んでいるのではないか、と思います。

今日はなにかこの本をめくっていました。

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辻邦生の映画評論集。何冊か出ていますが、この本は1988年から1992年にかかれたもの。私がちょうど学生だった頃の映画が出ていますので、思い出がよみがえります。表紙は、ル・コントの「仕立て屋の恋」でしょう。あの憂愁なブラームスのピアノ四重奏曲は忘れられないです。

そのなかで、実に世界のなかの日本を的確に表した言葉があって胸に刺さりました。

東欧問題、ユーゴの戦乱、中東和平会談などは、日本にいると、頭では解っても、隣国の出来事という感じはしない。だがパリでは、地理的に近いだけではなく、東欧から亡命した人も多い(中略)パリはアメリカとは別の形で世界の人種の坩堝であり、歴史的現実の風は容赦なく吹き付ける。日本ではまだ「国際人を養成しよう」「英語で喋ろう」などとのんきなことを言っていられる環境だ。前期のチェコ人は、子供の頃から十カ国語近くを喋らなければならなかったという。

辻邦生『世界の風に吹かれて』「美しい人生の階段」文藝春秋1993174ページ

初出は婦人の友1991年12月号とのこと。

辻先生の言葉で「どんなことがあっても外国語をやらなければならない」というものがあります。私は、確かに高校大学とあまり外国語をせずに過ごしました。まあ、あまりそちらには向いていなかったんでしょう。とはいえ、その辻先生の言葉を忘れることはなくて、社会に出てからも英語はコツコツとやっていたつもりです。まあ人並みとまではいきませんが。

しかしながら、まあその先があって、日本のような島国においては、パリのように世界と地続きで、摩擦の中に生きてる感覚とは全く違うのだ、ということがよくわかります。グローバル化したとはいえ、ボーダーの中で成立している世界もあり、それは恵まれているようでもありあるいは「のんきなことを言っていられる環境」なのかもしれません。

なにか、頭で解っているグローバルという言葉が空疎に思えるほど厳しい言葉を見つけた気がします。だからといって何ができるのか、という思いもあります。努力しよう、という言葉もまた空疎です。

せめて、毎日の生活の中で、人生の階段として昇るべき階段をみつけて、一段一段のぼることなんだろうな、と思います。よそ見をせず、脇目をふらず。

そんなことをおもいながら、夜も更けていきます。また明日も寝不足でしょうか。なんとかしないと。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

3+

辻邦生関連新作がさらに二冊発売予定

今年は、辻邦生没後20年となります。本当に早いです。そんな辻邦生イヤーに相応しく、さらに二冊の辻邦生関連著作が発売されます。

せんだって中公文庫のTwitterでアナウンスされています。

物語の海へ─辻邦生自作を語る

内容紹介によると、自作を通じ、歴史を物語ることへの思いを綴ったエッセイ集とのこと。どういう内容になるのか。単行本で3,240円ですので、ボリュームのある本になるのではないか、と勝手に期待しています。エッセイなどではなく、日記からの抜粋であれば、なお嬉しいです。

完全版─若き日と文学と

こちらは、すでに発売されている「若き日と文学と」に旧版に、「トーマス・マンについての対話」「長篇小説の主題と技法」「『星の王子さま』とぼくたち」「ぼくたちの原風景」「文学が誘う欧州旅行」辻佐保子のエッセイ「辻邦生と北杜夫」を追加したものとのこと。こちらも楽しみであります。

まとめのようなもの

まだカバーの画像が分かりませんが、美しい本になるといいな、と思います。

それにしても、20年ですか。なんだか遠くまで来てしまった、と言う感です。もうすでになんだか地に足のついたことをやれていないです。とにかく時間をつくって、落ち着いて辻作品を読める生活を望んでいるのですが、普通の仕事人にはそういう贅沢は許されません。やはりなにかしらのリスクをとらないと、このまま「秋の朝光の中で」と語られた競走を走り続けるだけなのかも、と思います。

幸い、目先のやるべきことが分かりつつあるので、地道に進めていきます。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

4+

絶版の「アヴァロンの霧」を読む。是非、再版を!

マリオン・ジマー・ブラッドリーの「アヴァロンの霧」を読み始めました。

先日、東久留米市立図書館で行われた図書館フェスの中で、武蔵大学の北村紗衣先生が選ばれた「やさしいフェミニズム入門」というブックリスト(ひとハコ図書館)のなかの一冊として選ばれた本です。先生に聞いてみると、アーサー王伝説を女性の視点からみつつも、フェミニズムなど別のパースペクティブで捉えている、という理由、とのことでした(私の記憶違いかもしれませんが、そう捉えました)。

絶版になっていますので、図書館にリクエストして、ようやく読み始めたのですが、本当に面白くて読むのが止まりません。

ローマ領だったブリテン島にキリスト教が入ってきて、ブリテン島の古いドルイド教が徐々に追いやられている時代が舞台。(手前味噌ですが)辻邦生「背教者ユリアヌス」の年代より少しばかり時代が下っている時期が、物語の舞台のようです。

グローバリズムとしてのローマ=キリスト教と、かつてからの宗教・文化の対立、と言う構造は、おそらくは普遍的な構造で、私が思いだしたのは、東北文化と大和文化の対立をえがいた高橋克彦さんの「炎立つ」であるとか、伝来する仏教と神道の摩擦が画かれていた手塚治虫の「火の鳥太陽篇」とか、もっというと「古事記」の国譲り伝説とか、そういう話を思い出しました。あるいは、もしかすると辻邦生「背教者ユリアヌス」も、キリスト教とローマ古来の宗教の対立を描いているという点では関係なくはないとおもいました(無理矢理辻邦生案件としてしまうという……)。

このグローバルとローカルの対立に、女性と男性の対立を重ね合わせているのが実に素晴らしく、現代の男性主導の世界がなにかメルトダウンしそうな状況にあって、別の価値観としての女系社会のようなものを提示するあたりが、本当に説得力がある、と思いました。

オペラ演出家のペーター・コンヴィチュニーが、現代の世界の問題点は男系社会に合って、その解決の鍵は女系社会にある、といった趣旨の発言をされていたのを記憶していますが、ローマ=キリスト今日=グローバリズムのひずみを解決するアンチテーゼとして女系社会、という読み方をすると、実に面白いな、と思います。女の子が生まれると、食事を与えず死に至らしめることもある、という極端な男系社会を描きながら、なにか郷愁をもちながら、その失われゆく女系社会を振り返っているような気がしてなりません。

また、失われた古代文明であるアトランティスが登場したり、龍や蛇が尊いものとして登場してしまうと、これはもうほとんど高橋克彦さんの「竜の柩」の世界になってしまい、失われた古代文明は、ブリテン島にも渡り、あるいは古代日本にも渡っていたのか、などとその共通性に驚いたりします。もちろん史実ではなく、幾分かオカルト的な要素もありますが、レヴィ=ストロースの文化人類学ではありませんが、人間の記憶というものはなにか共通する間主観的なものがあってもおかしくないのか、などと思います。

このアトランティス(オリハルコンも!)が出てきてしまうあたりのスケールの大きさには正直舌を巻きました。なんだか読み始める前から、昔読んだファンタジー的な展開が読めてしまったように感じ、やめようかと思う瞬間もありましたが、それはあまりに浅はかな考えでした。ますます先が楽しみになっています。

「アヴァロンの霧」は、現在絶版。アマゾンでも高価に取引されていて、日本の古本屋にも在庫はありません。再版されるとよいな、と思います。

4+

「辻邦生 永遠のアルカディアへ」発売へ!

辻邦生関連本が新たに発売されます。

中央公論新社から2019年6月6日発売予定だそうです。

表紙から以下の情報をまとめました。カッコ内は私の推定する出典です。

●日記

辻邦生 旧制高校時代の日記「園生」より(初出?)

●書き下ろしエッセイ

松岡寿輝、佐藤賢一、澤田瞳子、中条省平

●エッセイ

水村美苗、堀江敏幸、二宮正之、宇野千代、加賀乙彦、粟津則雄、髙橋秀夫 他

●書評

ジョン・アップダイク「安土往還記」

●講演

保苅瑞穂 (2017年日仏会館での講演)

小佐野重利 (2016年学習院大学史料館講座)

金沢百枝 (2018年学習院大学史料館講座)

●対談

塩野七生と辻邦生 (世紀末の 美と夢 第5巻?? )

(敬称略)

こうして、また辻邦生ワールドの未踏地に足を踏み入れることができる喜びはこの上のないものです。個人的には保苅瑞穂さんの講演は聞きのがしておりまして、本当に楽しみです。

今日は短めに。

3+