枯淡の境地──新国立劇場《こうもり》その1

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今日は新国立劇場《こうもり》に行ってまいりました。

東京地方は冷たい雨が降るあいにくの天気ではありましたが、3時間にわたっていろいろと考える機会をもらった感じです。

まずは素晴らしかったのはアルフレート・エシュヴェの指揮でした。すいません、3年経ったので書きますが、前回2011年のダン・エッティーンガーの指揮のこうもり》に馴染めなかったという記憶がありました。軍楽隊のようで、ガチガチだったものですから。

前回の公演の感想は以下の様なものでした。

驚いたのは、エッティンガーの指揮ぶり。これは賛否両論あるに違いありません。まずは鋼のような統率力が凄いです。序曲のスネアが軍楽隊に聴こえるほどの精緻な指揮ぶりでした。いつもより、東京フィルも気合が入っていたとおもいます。エッティンガーにかかると、ウィナーワルツの微妙なもたり感もすべて数値化され計算されているかのようです。
それから、音楽の力強さが半端ないです。テンポもすごく落とすところがあり、重い感じに仕上がっていました。ワーグナーばりかも、などと。。。
やはり、題材が洒脱な「こうもり」ですので、もうすこしゆるくかるくオケを動かしてもよい、という意見もあるかもしれません。
あとは、統率力のほう。この統率力で、東京フィルの音が先週と全く違って聞こえました。金曜日に聞いた日本フィル定期演奏会の山田和樹氏とは全く正反対です。指先の動きまで使って細かく指示を出している感じで、クリックも完全に全部統御している感じです。

ですが、今回のエシュヴェは違います。

私は序曲で落涙しました。なんというか、枯淡の境地という言葉を思い出していたのです。奇をてらうことなく、無理やりなウィーン的情緒を出すこともなく、淡い色合いの音楽を作り出していたからです。

ワルツのもたった感覚は、予習に使っていたクライバー盤よりも淡白です。透き通った白磁のようなワルツの感覚だったと思います。

日本のオケをこんな風に歌わせるとは、と驚きました。

抑制され過度などぎつさのようなものもないなかで、色彩感とかダイナミズムを出していて、ああ、これが伝統で、それをよくぞ日本で再現してくださった、と思ったのです。

もちろん、そうした指揮ですから、舞台上のナラティブを阻害することはありません。こうしたオペラの下地をきちんとつくる音作りは、オペラのパフォーマンス全体を支えるものとなります。

それはまるで企業活動を支えるITインフラのようなものなのかもしれないですね。あって当たり前のようなものなのです。それがあるからこそ、演出が活き、歌手が歌い演じる事ができる、ということだと思います。

しばらく《こうもり》については続けて書くことになりそうです。エシュヴェの指揮のおかげで、なにかブレークスルーを感じたり、このオペラの真の意図を感じたり。。

では、また明日。グーテナハトです。

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こうもり予習 引き続き。

引き続き《こうもり》のこと。今日もクライバーの《こうもり》を聴きました。なんというか、古き良き時代。このような時代が100年以上前にヨーロッパにあったということなんですね。

新国立劇場の《こうもり》は、2006年にプルミエを迎えたハインツ・ツェドニクの演出を使います。今回が4度目です。なかなか息がながいですね

私は2009年と2011年の二回観にっています。

2009年はなかなか楽しい思い出でした。

https://museum.projectmnh.com/2009/02/02235843.php

が、2011年は、エッティンガーの指揮が軍楽隊のようで、という感想でした。(リンク先、WordPress移行で情報が乱れている模様)

https://museum.projectmnh.com/2011/12/11225001.php

では、今回はどうでしょうか。

今回の式は、アルフレッド・エシュヴェです。フォルクスオーパーで指揮をしているアルフレッド・エシュヴェはみずから「ウィーン気質」と言っています。《こうもり》の経験も多そうですね。洒脱な《こうもり》が聞けると良いのですが。

こちらがインタビュー記事です。

http://www.nntt.jac.go.jp/opera/news/detail/150122_006234.html

いろいろ画像をみていると、前回2011年もアイゼンシュタインを歌ったアドリアン・エレートは、どうやら口ひげをつけて登場のようです。また、2009年、2011年とは違うキャストの方も入っていますので、今回は随分印象が変わるのではないか、と思っています。

そしてこちらが予告編。2011年の模様となっています。

すでに全5回のうち2回がおわり、金曜日と日曜日二回公演が残っているのみです。

こんな時だからこそ、見に行かないと、と思います。いわゆる、辻邦生のいう「戦闘的オプティミズム」です。

ではおやすみなさい。

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《さまよえるオランダ人》と《アラベラ》が似ている。。

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1月の新国立劇場は《さまよえるオランダ人」でしたね。

飯守泰次郎さんの指揮が素晴らしかったです、緊密というか、Solidという言葉を思いだしながら聴いていました。前回のパルジファルと同じく、微細なテンポコントロールが見事で、ダイナミズムや重厚さを表現していたと思います。

で、なんだか変なことに気づいてしまいました。

《オランダ人》は《アラベラ》と似てますね。オランダ人もマンドリーカも父親が連れてきた花婿で、あまり世間なれしていない男。で、ふたりとも妻となるべき女性の素振りを誤解して、すねてしまうという。《オランダ人》にも《アラベラ》にもそれぞれ、エリック、あるいはマッテオという、ヒロインに片思いを寄せる男が出てきますし。

2010年新国立劇場《アラベラ》のマンドリーカも、今回のオランダ人もどちらも、トーマス・ヨハネス・マイヤーで、私は強い既視感を覚えまして、こんなことを思いついてしまいました。もちろん、トーマス・ヨハネス。マイヤーの歌唱はやはり素晴らしかったのです。この方の《ヴォツェック》は忘れられないですね。

でも、この考え、意外と図星かも。同じことを考えている方がいらっしゃいました。「頭がいい人、悪い人の話し方」を書かれた樋口裕一さんです。

http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-283f.html

リンク先は、その2010年の《アラベッラ》についての感想を書いておられます。もう4年も前の話ですね。

それにしても、いろいろ興味深いです。もう少し考えてみないと。

なんだか今日も世界の波にのまれるような一日でした。いろいろありますが、良いことばかりではありません。

ではグーテナハトです。

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《ドン・カルロ》におけるカトリック──新国立劇場《ドン・カルロ》その4

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引き続き、先日の新国立劇場《ドン・カルロ》について。今から思っても本当に興味深いドラマでした。

登場人物の一人、宗教裁判長。彼は、王に意見することができるほどの権力の持ち主です。

王と聖職者の関係は、ドイツ国防軍やソ連における指揮官と政治将校、かつての日本における校長と配属将校の関係に似てます。指揮権とは別系統の指揮権が存在するという状況ですから。

フーコーの概念に司牧者権力というものがあります。他者の幸福を目的とするかのように振舞いますが、実際には教会の支配の原理を維持することが目的である、というものです。観ながらそのことばかり思い出していました。妻屋さん演ずる宗教裁判長はまさにそのように見えるもの。年老いて、杖を付きながらも、磔刑像を権力の象徴のように持ち歩いていました。

これは、確かにカトリックへのある種の抵抗のようなものがあるのかもしれません。19世紀以降の市民革命の時代に会って、旧態依然としたカトリシズムへの反抗のようなものは少なからなずあったでしょうから。

それに加えて、この《ドン・カルロ》が作曲された時代というものを考える必要があります。

これには、イタリア王国とローマ教皇の対立が背景にあるのもあるでしょう。作曲されたのは1865年から1866年にかけて、とされています。ちょうど、イタリア統一運動の中に会って、ローマの領有をめぐって、教皇とイタリア王が鍔迫り合いをしていた頃です。1864年12月8日(まさに今日ですね)には誤謬表というものが教皇によって発布されました。これは自由主義は誤っているという詔勅だったわけで、批判や議論が巻き起こったようです。

こうした、イタリアにおける王国と教皇の対立も、この《ドン・カルロ》のドラマになにかしらの影響を与えていると考えるとなにか首肯できるものがあります。

がゆえに、《ドン・カルロ》の初演で、ナポレオン三世の后であるウジェニー皇后は席を立ったのかもしれません。wikiにはウジェニーはカトリックだったので、ということになっていますが、私の勝手な想像では、教皇領をめぐってフランスとイタリアは対立状況にあったので、そういうことも背景にあったのではないかと思っています。教皇領を守っていたのはフランス軍でしたし。

もちろん、この手の、ヴェルディと政治運動の関連性に安易に飛びつくことの危険性も指摘しておきたいとおもいます。あの、Verdi = ヴィットリオ・エマヌエーレ万歳!という都市伝説のような胡散臭さというものは常につきまといますから。その辺りは以下のリンク先の記事をどうぞ。

https://museum.projectmnh.com/2013/05/18235903.php
https://museum.projectmnh.com/2013/05/19105240.php

というわけで、取り急ぎグーテナハト。

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カルロ5世かカルロ1世か。──新国立劇場《ドン・カルロ》その3

霜柱ゲット。

今朝は冷え込みました。本日撮影した霜柱です。

高校のころ、冬場にグラウンドに霜柱ができまくって、部活の練習ができず困っていたようです。朝方に立った霜柱は夕方には泥濘となりますから。

で、体育の時間に、霜予防の薬剤をまるまる一時間グラウンドに散布しました。それも何週間も何週間も。本当はバスケットをやる時間だったんですが。四回目ぐらい、さすがに生徒はキレてましたね。一回ならいいが、四回連続で部活のために体育の時間で作業をさせるのは何事だ、と。

まあ、世の中そういうものです。

カトリシズムの話の前に一つだけ。フェリペ2世の父親は、いわゆるカール5世です。ハプスブルク家最大版図を築いた王。それも戦争ではなく婚姻で、というやつです。高校時代にかじったポール・ケネディ「大国の興亡」の冒頭がカール5世だったんですが、予備知識なくして読めるわけもなく。その後高校で世界史を学んでいろいろ理解が進んだ記憶があります。


Charles V, Holy Roman Emperor by Tizian” by かつてはティツィアーノ・ヴェチェッリオ の作とされていた。. Licensed under Public domain via ウィキメディア・コモンズ.
で、このカール5世は、神聖ローマ帝国肯定としてはカール5世なんですが、スペイン王としてはカルロス1世なんですね。これは有名な話。

《ドン・カルロ》においては、カルロ5世とイタリア語読みとなっていました。カルロ1世でも良いはずなんですが。

原作者シラーはドイツ人ですので、カール5世としたのか。ヴェルディが活躍した頃のイタリアは、オーストリアの支配が及んでいた頃、あるいはその直後だったのでカール5世のままとしたのか。

ちなみに、ウィキペディアには、初号一覧が乗っていて、とても興味深いです。シチリア王としてはカルロ1世。オーストリア大公としてはカール1世。ブルゴーニュ公としてはシャルル2世、だそうです。

痛風に悩まされ、統治と戦争につかれたカール5世は晩年修道院に隠遁するそうです。なるほど。こういう権力者もいるということなのですね。

それでは取り急ぎグーテナハトです。

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フェリペ二世の逡巡──新国立劇場《ドン・カルロ》その2

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蒼天へと向かう木々も葉を枯らして冬支度をしています。私も冬支度をしたいところですが、なかなか。。この前、「夏だけどカラッとしてる」なんて書いた気がしますが、あっという間に冬です。

東京の冬は、実のところ快適なのかも、などと。とあるドイツ人は「東京の冬の青空は観光資源だ!」言っていた、というエピソードを思い出しました。確かに鉛色の曇天のもと何日もすごさなければならないヨーロッパの冬に比べると、東京のカラッとした冬空は魅力的なのかもしれません。ちなみに、このエピソード、ICEの中で偶然同席した某大学の哲学科教授から伺ったものです。

さて、新国立劇場《ドン・カルロ》の件。やはり後期ヴェルディは面白いですね。人間ドラマ、歴史ドラマを堪能しました。

スペイン王宮が舞台となるこのオペラですが、主人公ドン・カルロの父親がフェリペ2世です。あのスペインの黄金期を体現したフェリペ二世です。劇中ではフィリポ二世ですが、スペイン語読みではフェリペ二世です。


King PhilipII of Spain” by アントニス・モルWeb Gallery of Art:   Image  Info about artwork. Licensed under Public domain via ウィキメディア・コモンズ.

フェリペの逡巡の場面がありました。エリザベッタの愛情を得られていない、と苦悩する場面です。

ですが、あれは文学者が作り出した幻想だと思いました。あんなことつゆぞ思わないのが権力者でしょう。文学者は、こうして溜飲下げているにすぎません。権力者にああした心の動きがあるのか。権力者は心を明かすことはありません。きっと、我々が、権力者を憐れむことで、何かを代謝しているに過ぎないのだと思います。

フェリペ二世はエリザベッタに愛されなくても何も気にしないのではないか。がゆえに、エボリ公女とも関係を持つわけです。そう思いました。世間の権力者というものは、芸術生成者
とは全く異なる論理で動いていますから。

そうした前提にたって、フィクションとしてのフェリペの苦悩を味わうのが、あのシーンの権力者への嗜虐的な感情を持ちながら観るのが醍醐味だったのかもしれない。などと思います。

人間と人間は、思った以上にわかりあえないものです。一人ひとりが、独立した宇宙と論理を持っているわけですから。約束も守らず、嘘を突き通すような人間はあまたいるわけです。

ですが、長い歴史において、今もなお文字として残るのは芸術生成者の手になるものに限られるのかもしれず、そうだとすると、いわゆる「芸術生成者史観」のようなものに基づいた権力者像というものが、現在残っているにすぎないのではないか、などと思うわけです。

がゆえに、実のところ、私はあのフェリペ逡巡の場面にはリアリティを感じることができなかった、ということになるのかもしれません。

もっとも、リアリティとはなにか、という問題も生じてくるわけです。(1)事実と、(2)歴史的事実と、(3)事実の解釈、この3つのズレのようなものがあるわけで、ここでのフェリペ像は、この三者のどれに当たるのか、ということが問題で、劇中のフェリペは(3)事実の解釈に基づくもの、とすれば、それはそれで首肯すべきものなのかもしれません。

そういえば、この劇におけるカトリシズムの問題も興味深いです。そちらは次回です。

ではグーテナハトです。おやすみなさい。

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新国立劇場《ドン・カルロ》その1

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すっかり冬模様の新国立劇場です。冬至に向けて一直線。お昼が短いというのは悲しさもありますが、なにか非日常の感覚も覚えます。なんだか北欧にでもきた気分かも、などと。

それにしてもご無沙汰してしまっています。生活リズムが変わり、書く、という行為をいささか後回しにしすぎました。少しずつ新しいリズムにも慣れてきましたのでようようと再開します。
(というか、こういうムラはなくさないと行けないんですがね。。ここで食べているというわけではありませんが、反省すべきことだと思います)

先だって新国立劇場で《ドン・カルロ》を見てきました。ヴェルディオペラのドロドロとした人間模様を堪能してきました。

歌手の方々、最高すぎて、ほんと東京にいるとは思えないぐらい。いや、東京がここまでレベルが高くなったということを喜んだほうが良いのかもしれません。もちろん、外国歌手の方々に支えられている部分もあるのですが、山下さんや妻屋さんといった新国をささえる日本勢のみなさん、いつもながら素晴らしい合唱の方々には本当に頭が下がります。

指揮のピエトロ・リッツォは素晴らしいのひとこと。さすがにオケを完全解決とまでは行きませんが、統御された指揮で、激空間を支え続けたのだと思います。全く違和感なく劇に身を浸すことができました。

ああすごいなあと思ったのは、カルロが人違いでエボリ公女と愛を歌うシーン。わざと早めのテンポを取っているように聞こえました。なにか空疎な感覚を感じさせるように。なんだか、オケが空元気のようにおもえたのですね。音でドラマを創り出すというのはこういうことなのか、と、あらためて認識しました。本当にうまいなあ、と思います。

明日に続きます。

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劇空間を統一する演奏──新国立劇場《パルジファル》その4

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はじめに

世の中というのは十二分に非論理的で、自らの努力でその妥当性を変えることはできません。こうなったら、アウト、という状況にならないよう、常日頃細心の注意を払いますが、外的要因でそうした配慮がおじゃんになることなんていうことはままあるものです。だからこそ、常日頃の細心の注意が生きてくるのでしょう。

飯守さんの音楽

さて、今日は先日の新国立劇場《パルジファル》の演奏面について。といっても、後述しますが、オペラにおける演奏面というのは、なにか言葉にするのが難しい物があると思います。

飯守さんの指揮は、じつにゆったりとしていました。それは演奏時間にも現れていて、予定を20分オーバーしたぐらいです。それが、演奏時間のみに起因するかはともかくとして。

ただ、聴いている中では、まったくそのスローテンポに違和感を覚えることはありませんでした。それは奇をてらうようなことはない本当に湧き立つような自然なものでした。そのおかげで、劇空間に没頭できたのです。

以前から思いますが、いいオペラの指揮は、おそらく、それが印象に残らないぐらいがいいのではないでしょうか。音楽についてオペラ公演でかたる、というのは、いい場合もあれば悪い場合もあるのだと思うのです。音楽になにか不自然さがあれば、間違いなく劇空間に入っていけなくなる気がします。今回は、前述のとおり、劇空間に没入できましたので、素晴らしい指揮だったのだと思います。

これと似た経験は、2007年のペーター・シュナイダーの指揮でも感じました。あれが、私の中の最高のオペラ体験ですが、演奏中より、そのあとからその絶妙さを、反省的に認識しました。

逆のパターンも有ります。劇の流れを、自分の方向に矯正しようとする指揮です。まれに聴きますが、個人的には、劇に入ろうとした時に音楽が気になって、あれあれ?、と思うこともあるのです。このあれあれ?、というのは、もちろん良い面も含んでいます。私の考えでは、音楽における「驚き」こそが、音楽の「意味」なのですから。ここでこんなことやりますか? ということをやられてしまった時の驚きが、音楽の愉しみの一つなのです。

ですが、オペラの場合はどうなのか。緊密な一つの劇空間にあっては音楽だけが突出することはできません。もしそれがそうだとすれば、それはバランスを欠いているはずです。

そういう意味でも、今回の演奏は、劇空間を統一に導く、素晴らしい演奏だったわけです。音楽がだめなら、劇に没頭できません。私が、パルジファルの愚者ぶりに感動したり、クンドリの横顔に深い感銘を受けられたのも、音楽に支えられての事だったといえます。

終わりに

指揮者もやはり組織を束ねる長です。《パルジファル》という6時間に及ぶパフォーマンスを発揮させるためには並大抵の努力では足らないでしょう。

オケのメンバーも必死です。ピットをのぞき込むと、フリスクが譜面台に置いてあるのをみて、なにかオケの大変さを思い知った気がします。

芸術だろうが会社であろうが、組織の牽引は同じ。組織の長というものは、組織のために常に闘うものであるべきです。

飯守さんは十全に戦っておられて、オケを引っ張っていたのだ、そう思いました。

本日皆既月食。欠けた月を仕事場の洗面所の窓のブラインドの隙間からのぞきました。太陽に吠えろの石原裕次郎のように(笑)

ではみなさまおやすみなさい。グーテナハトです。

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救われた女クンドリ──新国立劇場《パルジファル》その3

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はじめに

今週の日曜日に行った新国立劇場《パルジファル》。多分18時ごろの写真。第二幕と第三幕の休憩の時に撮りました。

今日はクンドリ

今日はクンドリについて。このキャラクターはヒロインとは言えないでしょう。そこまで単純な性格付けができるキャラクターではありません。

《パルジファル》における謎めいた女性。善悪、それはもちろん、相対的な価値観に過ぎず、「とある言語ゲーム」において対極の側面をあわせ持つ人物、という方が正確な言い方とおもいます。

そのクンドリを歌い演じたのはエヴェリン・ヘルリツィウス。ドイツのメゾ・ソプラノです。バイロイト、ケルン、ベルリン・ドイツ・オペラやウィーンでもクンドリを歌っています。また、ブリュンヒルデもバイロイトで歌っていますし、イゾルデもレパートリです。

歌唱はもちろん安定していて、静謐と狂気を自在に使い分けていました。あのLacht と絶叫し、十字架を背負うイエスを嘲笑ったことへの究極の悔恨の表現は怖ろしさすら感じました。おそらく、あそこの一点において、アンサンブルの中で突出したものを体現したのだとおもいます。

一方で、第三幕の場面。あそこは絶品です。歌詞はほとんどありません。クンドリは黙劇を演じるかのようです。が、ここがほんとうに素晴らしかったのです。人間の人間らしさとはこういうものなのか、と思います。

苦しみを乗り越え、パルジファルの脚を洗い、香油を塗るクンドリに、もはや迷いはりません。パルジファルとエロスを超えた愛情で結ばれている至上の幸福感を感じました。

ヘルリツィウスの表情は第二幕の欲情に燃えさかるそれではなく、老成し落ち着いた老夫婦の愛情なんだろうなあ、と思います。髪の毛を包むベールをとると白髪になっていたところに私は本当に本当に心をうたれました。長い時間がなせる奇跡を見たのだと思います。

もちろん、時間と空間が混合した世界であることはリブレットにある通りです。それでも、第二幕のクリングゾルの城の崩壊から長い時間が経っていることの示唆、つまり、クンドリの白髪もそうですし、パルジファルが水を受け取り上着を差し出す青年が、前奏曲でアムフォルタスに水を与えた少年で、成長しながらも、そこになにかしらの貧困のなせる不幸という文脈を、感じ取ることができるとか、そうしたところで、劇空間の時間的拡がりを認識できたのだと思います。

そうした、時間の中を苦しい旅を続けたパルジファルもクンドリの境地は、どのような宗教においても普遍的な巡礼や回行といった行をおさめた者の境地なのでしょう。そう意味では時間という、人間が決して操作できない最大の自然力こそが、人間を鍛えるのでしょう。

私はあの第三幕のクンドリの横顔を一生忘れることはないと思います。辛苦を乗り越えた横顔であり、そこで得た安らぎを味わう横顔だったと思います。

終わりに

明日も公演が14時からありますね。いらっしゃる方、どうぞ楽しんでいらしてください。って、ネタバレのことばかり書いてすいません。

6時間の公演を聞き終えたあと、おそらくその業績を名刺に書くことがゆるされるんじゃないか、と思うほど。大袈裟ですかね。たしか《失われた時を求めて》をすべて読んだ人は、その業績を名刺に書ける、という話が会ったと思いますが。。

それではみなさまおやすみなさい。

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愚者パルジファル──新国立劇場《パルジファル》その2

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はじめに

みなさま、今日の台風はいかがでしたか。私は台風が来る前にということで、早々に仕事場に向かいました。いつもより一時間半早く到着しましたが、悠々と通勤できました。早起きは三文の得。

こちらの写真が台風前夜の新国立劇場。

あらためてみてみると、凄い色の写真になってます。広角でパースがめちゃめちゃですがこも崩壊感がいいのかも。なんだかよくある舞台装置みたいです。

昔、バイエルン州立歌劇場で《マノン・レスコー》觀ましたが、舞台上に、バイエルン州立歌劇場が現れて驚きました。アンドレアス・ホモキの演出だったはず。新国でも、新国を舞台にした演出ができるかもしれない、などと。もちろん、《ヴォツェック》のようにじゃぶじゃぶと水を張ると面白い。この水庭が舞台なんですよ。なーんて。

愚者パルジファル

新国立劇場《パルジファル》の感想。その2です。

とにかく、パルジファルは愚者としての描かれ方。フォークトやドミンゴだとこうはいかないのかも、などと。
ただ、これも真実。この方が真実。パルジファルとイエスがかさなるようにおもえたし、作務衣のような服からは、お寺の小坊主みたいな雰囲気を感じました。

すこし驚いたのが、第二幕での「アムフォルタス!」と絶叫するシーン。あそこは、決定的認識で、英雄に変貌するシーンと思っていましたが、そうではありませんでした。パルジファルは、アムフォルタス、と叫びながら、最後のほうは、泣き崩れるようだったのです。まさに、共苦。苦しみに同化し、泣き崩れた感じ。華々しい認識の勝利とか、エラン・ビタールのような価値の転倒、コペルニクス的展開のような爆発力はありません。
これ、遠藤周作「死海のほとり」に出てくる人間的イエスなんだなあ、と。カラヤン、ショルティ、ティーレマンとその他の盤でも聴いてみましたが、こういう歌い方はないです。それらはやはり英雄的パルジファルなのでしょう。

ですが、今回のパルジファルは違いますから。これが本当の英雄。本当の聖者。私はそう思いました。

クリスティアン・フランツ、少し調子悪い?と思えるなにか元気のなさなようなものを感じましたが、そういう設定だから妥当なのでしょう。声の美しさは抜群。透き通る高音は、パルジファルの心の純粋さがよく現れていました。演技も本当に巧いです。アムフォルタスの嘆きのモノローグの最中にも、なにかたじろいだり、驚いたりするシーンがありました。愚者パルジファルを十全に演じきっていたと思います。

最後、仏教へと消えしていくシーンの、あの断固とした表情は忘れられないです。悟りの境地にある達磨大師のような達観した表情。私もいつかはあのような表情を浮かべて全てを見やってみたい、そう思います。

終わりに

このあとクンドリ関連も書いたのですが、それはまた明日。これは少し続きそうなネタです。

それにしても、音楽的なことはあまりかけず、いつもの様についつい演出や演技などについて印象に残ったことを書いてしまいます。私はオペラにおいてなにを観ているのか。。

次の公演は10月8日です。でもお昼の2時からですのでお勤めの方は難しそうですが、ぜひぜひ。

ではグーテナハトです。

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