Photo

4 個の画像 4 個の画像 今日は梅雨中だというのに、綺麗な夕焼けが見えました。少し早めに帰ってきたので見ることが出来たのです。あわててカメラをもって写真を撮ったのですが、ちょっと失敗。ISO800で撮っていたので、ノイズが乗っています。これからは写真を撮る前にISO感度を確認して、撮ってからもISO100にもどすように習慣づけようと思います。


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Tsuji Kunio

Haru

辻邦生全集〈9〉小説9
辻邦生全集〈9〉小説9

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辻邦生全集〈10〉春の戴冠(下)
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春の戴冠、上巻も半ばを過ぎてきました。小さかったサンドロ(ボッティチェルリ)も、語り手のフェデリゴももう十二分に大人になりました。サンドロはフィリッポ・リッピの工房から別の親方の工房へ入ったのですが、人気が出てきたこともあって独立した工房を構え、肖像画などを描く仕事をしています。語り手のフェデリゴは、フィチィーノに弟子入りし、師匠の原稿の清書をしたり、後輩のギリシア語の先生になったりしています。フェデリゴは結婚していますので、もう20代も半ばにさしかかったところでしょう。

フィレンツェ(文中では、フィオレンツァ)の情勢はといえば、コシモが死に、息子のピエロが死に、孫のロレンツォがメディチ家の当主となりメディチ銀行をやりくりするだけではなく、フィオレンツァの政治的安定と覇権を確保すべく活躍しています。 フィレンツェの主要産業は毛織物なのですが、毛織物を染色するためには、媒介剤となる明礬が不可欠です。ところが、明礬はオランダでとれたり、教皇領でとれたりという感じで、なかなか安定供給が見込まれない状態。毛織物業者の中にも廃業するものが出てきたのですが、そんな折、フィレンツェ領内で明礬鉱が発見され、大騒ぎになります。ところが、明礬鉱が発見されたヴォルテルラの住民が叛乱を起こし、ロレンツォは完膚なまでにヴォルテルラの住民を虐殺するのでした。

一方、サンドロとは言えば、今そこにある桜草を描くのではなく、この桜草を通じてそこに現れている神的なものもを描き出そうとしています。他の親方は「ものから目をそらすな」といった具合に、現実認識を拡張していくことで、そこに美を求めようとするのですが、それはそれでいつしか破綻を来すのは必定なのです。人間の認識能力は有限ですので、認識すればするほど地平は広がり、認識すべきものの多さと大きさに圧倒されることになるのです。いわば経験論的な世界観とでも言いましょうか。サンドロはそうではない。いまここにあるものの背後にある神的なもの、あるいはイデアールなものをとらえて、それを描き出そうとしている。そう言うやり方なのです。この構造には見覚えがありますね。「嵯峨野名月記」の俵屋宗達のスタンスと同じです。あるいは、「小説への序章」で語られる、神の死後に改めて認識される世の不可知性の問題です。バルザックの頃までは、経験によって全世界を把握しようという試みは可能であったかも知れないけれど、いまやその可能性はないのです。そうなると、芸術家はパースペクティブを変えなければならない。帰納的認識から演繹的な認識へといこうしなければ、無限大に連なる世界を表現することなど能わないのです。辻邦生師のなかに一貫して現れるテーマがここにも当然のように登場していて、それを読むたびになぜか甘美な思いをするのです。

たしか、前回読んだときには、サンドロの芸術的信条がもう一二度転回していく、というのを覚えています。これからどのようにサンドロが成長していくのか、そしてフィオレンツァの行く末はいかなるものへとなっていくのか。二度目だというのにわくわくしますね。もちろん、歴史的事実として、このあとサルヴォナーラが登場して、フィオレンツァのルネサンスは小休止を強いられる訳なのですが。

最近、思い立って、フィレンツェの地図をガイドブックからコピーして、読みながら、場所を把握するようになってきました。フィレンツェには行ったことがありませんので、土地勘が全くありません。せめて地図と本でフィレンツェを満喫できればいいな、と思いながら読んでいます。もちろん辻邦生師の文学への理解がいっそう深まることを願っているのは言うまでもありません。

Miscellaneous

今日も日記になってしまいそうです。

本当は、シノポリ氏のマーラーの9番を聴いて感想を書くはずでしたが、少々帰宅後時間がなくなってしまったと言うこともあって、今日も当世風日記です。申し訳ありません。
昨夜は早くに寝たつもりだったのですが、疲れがとれていなくて、朝起きても鈍く光る疲労感に苛まれている感覚。会社で珈琲を伸びながら仕事。そうかくとバルザックのようですが、そんなたいしたものではありません。帰宅途中で登山用品屋に寄って雨具を購入。富士山対策です。そのお店は、お客にあまりものを勧めたりせず、一番安くてリーズナブルなものを勧めてくれるようです。良いですね、こういうスタンスのお店。帰宅してからも少々庶務作業を行っていまして(やむを得ないのです)、時間切れです。
シノポリ氏のマーラー、重厚ですが、無用に重々しいと言うこともなく、流れもきちんとある感じです。一回聴いた感じではあまりテンポは動かしていないなあ、と思いました。

明日こそはシノポリ氏のマーラー9番かな。

Miscellaneous

Mahler;Symphonies 9 + 10 Mahler;Symphonies 9 + 10
Philharmonia Orchestra (1998/11/20)
Deutsche Grammophon

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今日はお休みでした。8時に起きて、9時にいつもの近所のカフェへ。PCを持ち込んだのですが、思ったより電池が持たなかったので、最後の30分ほどは「春の戴冠」を読みました。昼食はそうめんです。美味いですね。昼寝をしてから、少々部屋の片づけ。それから、CDをITUNEに取り込んだり、不用なものを処分したりとちょっとした大掃除を。
今日は、集中的に音楽を聴けませんでしたが、マーラーの9番の聞き比べをしていました。これについてはまた書きたいと思います。今日、死蔵していたシノポリの全集を取り出して聴いてみたのですが、かなり良い感じです。シノポリと言えば、シュトラウスとかプッチーニのイメージがあったのですが、よく考えたら、いまから20年ほど前に来日して復活を演奏していたのを思い出しました。僕の復活体験の一つがこのシノポリさんの指揮でしたね。惜しいことに若くしてなくなってしまいましたが。長生きするのもやはり大事だな、と思わされます。
今日はゆっくり休めましたので、明日へ向けて英気を養うことが出来ました。明日も頑張ります。

Miscellaneous

fighting
さて、水曜日の森麻季さんのリサイタルで起こったこと、ですが、こんな感じです。
アンコールに入って、一曲歌い終わられた森麻季さんに皆さんが拍手しているとき、一階平土間の席で、少し太り気味の中年の男が、係員を呼んで少し前の席を指さしている。なんだか起こっている風情。指さす先では、なんと小柄な中年の男がデジカメで写真を撮っている。あれほど写真や録音はお断りします、とアナウンスがあったのに(というか、日本のホールでは常識でしょうか……?)。それで、女性の係員が、デジカメ男を制止して、いったんはそこで騒ぎは終ったかに見えました。

ところが、最後のアンコールの曲を歌い終わったときのことでした。森さんが舞台で挨拶をしていて、前の方には熱狂的な観客が詰めかけて手を振っている。そんなとき、怒声が聞こえたような気がしました。それで平土間を見ると、やっぱりまたあのデジカメ男が写真を撮っている。それを今度は別の中年の男が制止しようとしている。女性係員も駆けつけている。しかし、何を言われようとも、デジカメ男は写真を撮り続けている。とうとう、制止している男が、デジカメ男の後ろから殴るか叩くかしたのが見える。デジカメ男、ようやくカメラをしまう。と思ったら、デジカメ男が、通路に出て、制止する男につかみかかる。逆ギレしたんですね。女性係員が二人を制止するんだが、二人は喧嘩を始めてしまう。まだ、拍手していて、森さんが舞台で挨拶をしているというのに……。二人とも感情的になっているようで、お互いに、追いかけたり、道をふさいだりして、つかみ合っている様子。係員は、なすすべもなく姿を消している。そのうちに二人はドアから外に出て行きました。あの後どうなったのでしょう。つかみ合いの喧嘩でもしているのでしょうか。

それにしても、いい年をした男が喧嘩する場面なんて見たくないですよ、まったく。もう50歳ぐらいになっているというのに。こちらは気持ちよく森さんの歌に感動しているというのに、興ざめだなあ、とおもいつつ。

そもそも、禁止された写真撮影をしているデジカメ男が悪い。でも、制止した男が高潔な精神の持ち主というわけでもなさそう。思ったのですが、制止した男もやっぱり写真を撮りたかったんじゃないでしょうか。でも、禁止されているからそれはできない。そんななかで禁止事項を平気でやぶるデジカメ男が写真を撮り始めた。自分達は我慢しているのに、デジカメ男が抜け駆けをしたんですね。それで、写真を撮るのを我慢している男の怒りが頂点に達した。なんでお前だけ撮るんだよ、みたいな。それでああいう行為に出たんでしょうね。

でも、よく考えると、デジカメ男は、制止男に何の迷惑もかけてない。デジカメ撮っているからって、制止男に影響あるんでしょうか? ないでしょうね。だから放っておいて、係員を呼ぶだけで良いんですよ。後ろからつかみかかって、殴るだか、叩くだなんていう「暴力」行為にでることは全くない。でも、そう言う行為に出ちゃったもんだから、会場内の一部の雰囲気が悪くなったのは確か。そう言う意味では、会場のコンディションを崩した制止男が悪い。TPOをわきまえたマナーがない。まあ、後からだと何でも言えるんですが。

それから、思ったのは、きっとみんな苛々しているんだろうなあ、ということ。このご時世だから、誰もが叩かれる心配を抱えている。社会保険庁もそうだし、銀行も、生保も、損保も、学校の教師も、警察官も、だれもがお互いにたたき合っている。マスコミぐらいじゃないですか、叩かれないのは(まあ、関西テレビのように叩かれる場合もあるけれど)。叩くのはマスコミですからね、自分を叩くことはそうそうはない。叩きすぎて、犠牲者もでているぐらいですから。松岡農林水産大臣など、そういう文脈で捉えると気の毒だなあ、と言う感じもします。そういう世知辛い世の中だから、みんながみんな鬱憤も溜めているんでしょうね。

もっとも、カーテンコールぐらい写真にとっても良いんじゃないかな、と思うのですがだめですかね? 肖像権とかあるんでしょうけれど。僕なんて、もっとひどいことをしている男をドレスデンで見ましたよ。僕らの席の前に座っている英語を話す白人が、カルメン役のソプラノをビデオでずっと写してましたからね。それで幕が下りると、ブラヴァー、ブラヴィーと大声でがなり立てる。でも、品が悪い男ではありませんでした。薄くひげを蓄えたアイルランド人っぽい男で、頭も良さそう。たぶん、カルメン役の歌手の身内なんじゃないかなあ、と思いました。オペラでビデオをとっている男を見て唖然としましたが、誰も止めたりしていませんでした。ドイツ人は、他人に厳しい面があるじゃないですか。だからこういう場面では注意する人とが出てきそうなものだったのですが。まあ、ザクセンの人々はとても優しい気風の持ち主ですので、大目に見たということなのかも知れませんし、あるいはそもそもビデオを撮っても良かったかも知れませんし、観客がたまたま僕らのような観光客で占められていたのかも知れませんし。

というわけで、気持ちよく音楽を聴いていたのに、最後の事件ですこし気分を悪くしたのは確か。困ったものです。もっと品位をもって行動して欲しいですね、デジカメ男も制止男も。それから、怒ったら負けですな。何をされても笑って受け流すぐらいの鈍感力がないと。ちなみに、最近の鈍感力の名人は小泉前首相なのだそうですが。小泉さんは安部首相に「鈍感力をもて」と助言したとかしないとか。


最近CDの感想を書いていない気がしていますが、実は聴いているのですよ。何を聴いているのかと言えば、ブーレズ指揮のマーラー9番。今これにはまりきっています。何度聞いても、この都会的冷徹なマーラーにひかれていくのが分かるのです。早速図書館から、ブーレーズの5番を借りてきました。これについてもまた感想を書けるかな、と思っています。

Tsuji Kunio

Haru

辻邦生全集〈9〉小説9
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春の戴冠を読んでいます。ようやく上巻の半分ぐらいまで来ました。前回読んだときよりも読む速度が早まった感じ。おそらくは読書時間が昔より増えたからだと思います。というのも、昔は会社の近くに住んでいましたので、通勤時間に本を読むと言うことができなかったからです。家が近いと、遅くまで仕事をしてしまいがちですし、疲れていると部屋で本を読もうにも、臥せってしまうことが多かったのでした。当時は明け方まで働くこともありましたからね。それに比べれば最近は早く帰らせて貰っています。ともかく、そう言う具合で読み進めているのですが、二回目ということもあって、内容を朧気にも覚えていますし、あるいは、覚えのないエピソードに遭遇して、嬉しくなったりしています。 ちょっとしたことですが、印象的なところ。マルコ・ヴェスプッチとシモネッタの婚礼の場面で、知り合いの親方がフェデリゴに目をつぶって遠くから挨拶をするシーンがあるのですよ。こんなシーンです。

叔父カルロの競争相手の毛織物製造業者ベンボも片眼をつぶって、遠くから私へ挨拶した。

春の戴冠 144頁 ここを読んでため息が出ましたよ。そうそう、そうなんですよ。日本人は目をつぶって挨拶する風習などあまりありませんね。もしそんなことをしたら気障な奴、と言われるに違いないのです。ですが、外国ではありますよね。映画でも観ますし、旅行中も見たことがあるような気がします。日本にはない風習であるからこそ、この一文を書かれたとことで、大きな現実性が付加されるわけですね。

語り手であるフェデリゴは、商人マッテオの息子です。マッテオは、事業に砕身しながらも、夜にはギリシア語で古典を読むという習慣を持っています。マッテオは、商売を営む現実人でありながら、ギリシア古典に親しむ理想的な人文主義者でもあるのです。マッテオのようなスタンスを撮る人間がフィオレンツァには多いのだ、という設定になっています。

現実と理想とのバランスに於いて生きるというスタイルは、「嵯峨野明月記」の角倉素庵の生き方と似ていますね。彼もやはり人文の世界で典籍に親しみながらも、ある時決意して家業に力を注ぐようになる。その二つのバランスを苦しみながらもやり遂げようとする。マッテオ達と同じなのです。その二つの世界は相容れないものではないのだ、とフェデリゴに語るのが、ルネサンス期のプラトン哲学者のフィチーノです。彼は、二つの世界を一つにまとめることが大事なのであって、現実に生きる人間こそ、理想の世界を忘れてはならないし、理想の世界に生きる人間も現実の世界を忘れてはならないのです。現実にぶつかって、株取引でもうけたり、営業成績ナンバーワンいなろうとも、一度、人は死ぬのだという宿命にぶち当たったときに、それを乗り越えるためには、一度理想世界、人文界を見遣らずには居られなくなるのだ、というわけです。

私たちもそうですよね。生きるために会社で働かなければならない。利益を上げるためには、ある種のカラクリを使わねばならない。それが善意にもとるものだったとしてもです。それでも、眼差しは本に向いていたり、音楽に向いていたり、哲学に向いていたりする。そのバランスをとることに苦慮する毎日を送っている。そうしたアクチュアルな問題をマッテオの生き様に投影させている。そう言うことなのだと思います。

一介の会社員に過ぎない私などがこういうテーマを読むと、どうしても自分に投影して見ざるを得なくなります。辻邦生師自体、大学院に通いながらも、日産ディーゼルで嘱託として働いていたと言うこともあったり、戦争が終って、文学の力に疑問を持ち、実務的な世界にあこがれていた時代があった、ということもあって、現実と理想のバランスのテーマは頻出していると思います。このテーマを考えてくれているということが、僕が辻邦生師を愛する理由の一つであると思います。

すこし、現実と理想を安易に使用した感もありますが、そんなことを思いながら読んでいます。
今回は、本の読み方も工夫しています。気になるところには付箋を入れていますし、気になるエピソードはなんとか書き出そうとしています。こうした長編を読むのは、勢いで読んでしまいがちなところもあるのですが、あとで全体を把握するためには、備忘録的なものがあった方が良いなあ、と思っています。

ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法 (PHP文庫)
福田 和也
PHP研究所 (2004/07)
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福田和也さんの「ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法」では、本に折り目を付けて、あとから書き抜くという方法が紹介されていますが、これも試してみたのですが、私の場合読んでいるときに、すでに関連する物事が沸々と沸き上がってきて、すぐにメモをしないと忘れてしまうのですね。本来なら、本の中に書き込めばいいのですが(現に書き込んでいる本もありますが)、さすがに重厚な単行本に書き込みをする勇気をまだ持てずにいます。本来なら、すぐにでも書き込むべきなのでしょうけれど。あるいは、折り目を付けてしまうのが良いのかもしれませんが。それが無理なので、やむなく付箋を貼りつつ、メモをとりながら本を読むようにしています。もっと言い読み方があればよいのですが、昔から試行錯誤しながらまだ迷いがぬぐえません。

Classical

昨日書きましたように、7月4日(水)のコンサートに行って参りました。オペラシティコンサートホールに行くのは久しぶりです。2年ぶりぐらいでしょうか。コンコースの両脇にはLEDで数字が表示される独特な装飾は相変わらずす。今年で10年目になるようです。昔、ここでアンサンブル・モデルンの圧倒的な公演を聴いたのが思い出されます。もう9年も前のことですね。 Opera City Opera City

曲目のご紹介

前半

  • フォーレ:<レクイエム>より「ピエ・イエズ」
  • バッハ:<マタイ受難曲>より「皆によいことをしてくださったのです〜愛の御心から」
  •  バッハ:<ヨハネ受難曲>より「融けて流れよ、私の心」
  •  ワーグナー(リスト編曲):イゾルデの愛と死(ピアノソロ)
  •  リヒャルト・シュトラウス:解き放たれた心
  •  リヒャルト・シュトラウス:「四つの最後の歌」より「眠りのとき」
  •  リヒャルト・シュトラウス:「四つの最後の歌」より「夕映えのとき」

後半

  • ヨハン・シュトラウス:<こうもり>より「私の公爵様」
  •  ヨハン・シュトラウス:<こうもり>より「田舎娘を演じるときは」
  •  ラフマニノフ:ヴォカリーズ(ピアノソロ) プ
  • ッチーニ:<ジャンニ・スキッキ>より「私のいとしいお父さん」
  •  山田耕筰:曼珠沙華
  •  山田耕筰:からたちの花
  •  ヴェルディ:<椿姫>より「不思議だわ…花から花へ」

アンコール

  • グノー:アヴェ・マリア
  •  成田為三:浜辺の歌
  •  プッチーニ:<ボエーム>より ムゼッタのワルツ
  •  ドニゼッティ:<シャモニーのリンダ>より「私の心の光」

前半は、少々堅めの曲が並びましたが、冒頭のフォーレで、その高音の美しさに圧倒されました。森麻季さんの声も美しいのですが、ホールの残響音も素晴らしくて、石造りの教会のなかで聴いているような感じを受けました。高音の倍音も豊かに聞こえました。陶磁器のような美しさですね。低い音程もふくよかで素晴らしい。

それにしても、本当に絶妙で巧みなピッチコントロールだと思います。僕は、管楽器をやっているので、少々ピッチの狂いは分かる方だと勝手に思っていますが、ピッチが不安定になったな、と思ったのは一回だけだったように思います。

一番感動したのは、「私の公爵様」ですね。この曲、恥ずかしながら20年ぶりぐらいに聴いたのですが、いやあ、幼い頃を思い出して、少々涙ぐむ感じです。ウィーンの洒脱な感じを身体全体で表現しながら歌っておられました。

昨日も書きましたが、山田耕筰「曼珠沙華」の哀切な歌唱は絶品でした。こんなにも暗い情念に溢れた歌をも自家薬籠中にされておられる森麻季さんに感服したのでありました。


昨日、「信じられないこと」云々を書きましたが、それは明日にしましょう。今日書くのは少々気が引けますので。


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Classical

愛しい友よ~イタリア・オペラ・アリア集 愛しい友よ~イタリア・オペラ・アリア集
森麻季 (2006/10/25)
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こんばんは。
今日は少し遅い時間に更新していますので、今日こそは短めに終らせようと思います。

というのも、本日は、オペラシティコンサートホールで開催された森麻季さんのリサイタルに行って参りました。詳しい話は明日書きたいと思いますが、二時間満喫してきました。プログラムですが、前半は、フォーレやバッハの宗教曲と、シュトラウスの歌曲で厳粛な趣、後半はヨハン・シュトラウスの「こうもり」や、「ジャンニ・スキッキ」、山田耕筰、ヴェルディといった、親しみやすい曲、華やかな曲で構成されていました。

後半の「こうもり」は本当に巧かったですね。それから、山田耕筰の「曼珠沙華」の哀切でいながら刃物を突きつけられたような異様な迫力も凄かったです。新境地かもしれません。

アンコールは4曲。同じみのグノーの「アヴェマリア」、ムゼッタのワルツ、浜辺の歌、ドニゼッティでした。

今日聴いて思ったこと。

  1. 予習は、計画的にきちんとしましょう。まあ、今回はプログラムが急に変わったりしたので、限界はあったのかもしれませんし、歌曲を網羅して予習するのも少々難しいかもしれませんが。
  2. 無理をしてでも良い席を取った方が良いかもしれませんね。今日の席は身を乗り出さないと見られない席でしたので、聴く姿勢が少し難しかったです。
  3. オペラグラス、双眼鏡は、オペラではないときも持って行った方が良いですね。歌っている表情などを見るのも、生演奏ならではですし、特に歌曲のリサイタルなどでは、歌手の方がある種の憑依状態になっていますので、感動も深まると思います。
  4. それから常識ですが、開演時間の少し前には、会場に到着しておくこと。これだけはきちんと守っています。大急ぎで会場にはいって席に着くと、周りにも迷惑ですし、すぐに音楽世界に入っていけないと思います。ある程度余裕を持って(遅くとも30分前)、会場の席について、音楽が始まる前の余韻を楽しみ、聴く準備をしていくべきでしょう。音楽の善し悪しは、演奏家だけに依存するわけではありません。聴く手がどうコンディションを作り上げていくか、にもかかっているのです。

なんてことに、これからは(これからも)気をつけていこうと思います。

それから、今日はほとんど信じられないことが終盤に起こりました。演奏家の方々のことではありません。観客のことです。明日は、もう少しつっこんだ感想を書くのと、その「信じられないこと」について書いてみたいと思います。

今日は短めですが、これで失礼します。お休みなさい。

Tsuji Kunio

Haru
今日は、往路、復路ともに辻邦生師の「春の戴冠」を読むことができました。昨日は30頁弱しか読めませんでしたが、今日は40頁強ぐらい読めたと思います。サンドロ(ボッティチェルリ)と語り手のフェデリゴが徐々に大人になっていく部分です。コシモ・デ・メディチが登場し、策謀を巡らせてフィレンツェの実権を握っていくあたりまで行きました。その中で、芸術と実務の対立や、フィリッポ・リッピの華やかな生き様を賞賛するあたり、それからサンドロ現実の美しさの有限性に気付き悩み始めるところ、などを経てきました。それから謎の薬剤師トマソの登場や、コシモとの出会いなどなど、今日もいろいろあった一日でした。


今日も吉田秀和さんのビデオを見ました。桐朋学園の前身の子供のための音楽教室をつくられたり、二十世紀音楽研究会をつくられたりしたのですね。武満さんが「Ring」という作品を発表されたときにどれだけ感動したかと言うことを話しておられました。

グールドやアルゲリッチの評価の先鞭を付けられた吉田さんは、そのことを、何万もの魚の中から、これぞと言う魚を見つけるのが楽しいのだ、ちょうど釣人が、だれもつらない様な場所で魚を釣り上げたような喜びなのだ、という具合に喩えていらっしゃいました。

それから、音楽の本質は、良い機会(オーディオ)でなくても分かると思う、ともおっしゃっていました。逆に、音楽の本質をつかめないのにオーディオに投資をしても無駄だ、ともおっしゃっていました。僕自身、iPodとヘッドフォンにしかお金をかけていなくて、オーディオにはあまり頓着しない方(というか、経済的理由からできないのですが)なので、その言葉は多いに励みになりました。

チェリビダッケのチャイコフスキー5番を聴きながら、チェリビダッケは遅いというのは分かっているけれど、そこから、何が生まれてくるのか、どういう面白み、音楽の愉しみ、予想外なことが出てくるのかを見つけるのが、僕の楽しみなのだ、とおっしゃっていました。

音楽を聴かれるときは、畳の部屋で聴かれているのですが、スコアを見ながら、メモをとりながら(おそらく欧文で)聴かれていました。やはりスコアが読めないいけないなあ、と思いました。まあ何を望むかと言うことにもよると思うのですが。


また会社で少々失敗を。本当は味方にしなければならない方を敵に回したかもしれない。考えすぎはよくありませんが、まだ少々おとなしくしておいた方がよいようです。仕方がない。あすからは気持を切り替えて行きましょう。


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Gustav Mahler

今日は少し短めです。

マーラー:交響曲第9番
マーラー:交響曲第9番

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ブーレーズ(ピエール) シカゴ交響楽団 マーラー
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ブーレーズのマーラー9番を聴きました。これは、もうほとんどベルクの「ルル組曲」にきこえてしまいます。冒頭2分45秒過ぎあたりからの、弦楽合奏にトランペットがかぶってくるあたりからの音作り、これは、もう「ルル組曲」の世界です。マーラーの音楽の中には、過去と未来の作曲家がかいま見えると言いますが、ブーレーズはまさにマーラーの音楽の中にベルクを見せてくれたと行っても良いと思います。

ブーレーズは、テンポは動かしているのですが、アバドのようにドラスティックに歌わせるためにテンポをいじることはしていないようです。よく言われるようにとても冷静な音楽作りです。やはり大陸合理論の故郷、フランス生まれですね。きちんとリズムを刻んでいて、テンポを粘っこく動かしません。素っ気ないと言えば素っ気ないのですが、思った以上にこういう音作りが好きなことに気づきました。

イメージで聴いてはならないな、と言い聞かせながら聴きました。後でも書きますが、ブーレーズといって連想されるイメージをできるだけ排除して、先入観なく聴こうとしました。ところが、やはりどうしても冷徹な現代の都会のようなイメージが浮かんでくるのです。スタイリッシュで、洒脱で、メカニカルで、冷静で、人気のない感じ、です。僕の中のブーレーズの先入観を肯うしかない、と言う感じでした。

ちなみに、ブーレーズのルル組曲はこちらを愛聴しております。ルルの悲鳴がめちゃくちゃ怖いです。一人で夜聴くと、下手なホラー映画よりもこっちの方が怖いです。まあ、「ルル」自体、ホラー映画のようなものなのですが。

Alban Berg: Lulu Suite/The Wine/Lyric Suite Alban Berg: Lulu Suite/The Wine/Lyric Suite
Alban Berg、 他 (1991/01/14)
Sony

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吉田秀和さんの特集番組を見ました。日曜日の22時からNHK教育テレビで放映されていたのを録画したのです。今日は最初の30分弱ぐらいを見たところでストップ。続きは明日以降になりそうです。

音楽を言葉に置き換えるということのすばらしさを語っておられました。並大抵の難しさではないのだ、とおっしゃっています。ですが、ぴったり当てはまる言葉や文章が見つかるときの快感と言ったら並大抵のものではないともおっしゃっていました。

僕もこうしてブログで音楽感想を書いておりますが、ぴったりとした言葉をきちんとかけているのかどうか、とても不安になることがあります。それから、たとえばブーレーズの指揮は都会的、メカニカル、といったような先入観に囚われたまま聴いているのではないか、カラヤンと言えば流麗な美しさ、という風に語られることが多いですが、そうした事前の知識の色眼鏡をかけて音楽を聴いていないか、あるいは、色眼鏡をかけたまま文章を書いていないか、ということがとても気になります。

「主題と変奏」、僕も読んだことがあるはずですが、ほとんど忘れてしまった感がありますね。また読まなければならなそうです。ああ、読む本がたくさんあります。ありがたいことです。でもいつ読むんやろか……。寸暇を惜しんで読まねばなりません。


今日の往路は、辻邦生師の「春の戴冠」の再読を始めました。これも再読せねばせねば、とずっと思い続けていたのですが、ようやく手に取ることができたという感じです。30頁ほど読んだだけでもうお腹一杯です。あまりにも素晴らしすぎて、何から離したらいいのか分からないぐらいなのです。とにかく、なかなか進みません。一つ一つの描写が美しくて、ゆっくり味わいたいと思うと言うことと、思想的な背景や、辻邦生師がどうやら悩んでいた「現実と芸術の結節」という問題が最初から取り上げられていて、自分自身の問題と重なり合うような気がして、思いを巡らせたりしていると、あっという間に電車が駅に着いてしまうと言う感じでした。

春の戴冠、本当に長い作品で、僕の感覚だと「背教者ユリアヌス」よりも長いのではないか、と言う感じを持っています。さらに、この作品を難しくしているのは、フィチーノなどのルネサンス期の哲学思想が多く盛り込まれていると言うことです。この点については、先日哲学科の先輩から話を聞いて参考書を教えて貰いました。佐藤三夫さんという方の著作と、クリステラーという方の著作の二冊です。おそらくは、辻先生もこの参考書を読んでいたのではないか、と先輩はおっしゃっていました。

でも、ほんとうにこの作品を日本人が書いたというのは、俄には信じがたいものがありますね。イタリアルネサンスをここまで流麗に美しく描かれるとは世界レベルの偉業だと思うのです。辻邦生師を初めて読んだときのことを思い出しました。日本人でもこういうふうに西欧での出来事を書いてもいいんだ、書くことができるんだ、という驚きでした。辻邦生師の文学が好きになった理由の一つがここにあります。

春の戴冠については、残念ながら文庫本は出ていません。僕は、最初に出版された版で読んでいます。これから読まれる方は全集を買うことになるのかな、と思います。


今日は短い、と言いながらこんなに書いてしまいました。ちょっと時計が気になる時間になってきました。今日はこのあたりで失礼しようと思います。また書いていきますので、よろしければおたちよりください。


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週末にかけてまた10位以内に戻ることができました。どうもありがとうございます。