Miscellaneous

音楽を語ることの難しさ。そもそも語ることはできないのに、無理やり書こうとしている感があります。音楽を語るためには、それを説明するというような形ではなく、別のやり方を使わなければならないのではないか。その別のやり方というのは、多分、辻邦生もやっていますが、おそらくは音楽と同じ芸術のレベルで語るということ。音楽に対する絵画であり、音楽に対する文学であり、のような。

そんなことをおもいながらこちらを。

ブルックナー:交響曲第9番
ブルックナー:交響曲第9番

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ジュリーニ(カルロ・マリア)
ユニバーサル ミュージック (2014-02-26)
売り上げランキング: 1,010

この演奏のよさも、言葉にするとどんどんこぼれ落ちていきそうな気がします。もっとも、言葉にする能力がないということになってしまうのかもしれませんけれど。しかし、すごいダイナミズムとパワーと、静謐さと繊細さなんだろう、と思います。こればかり聴いていると、人間や世界というのは、本当に素晴らしいものだけなのだ、と勘違いしてしまいそうです。

もっと本を読み音楽を聴かなければ。ですが、本を読み音楽を聴いても解決するものとしないものがあるのでしょう。無限大の本と無限大の音楽を把捉することはできず、がゆえに、ここにあるものから世界を掴むことしかできないのではないか。それでもなお、無限と向き合って無限と戦うことが大切なのか。戦い勝つことがじゅうようなのではなく、戦い続けるということ、無限との無限に続く戦いということが大切なのか。この底もなく果てもない膨大なHugeとかtremendousという形容詞がふさわしい世界に対峙するということはこういう恐怖と苦しさと嘔吐とむきあうということなのか。

だが、その戦いはおそらくは、今ここにあるものから世界を掴むという確信を得た時に終わるものなのかもしれないとも思います。あの、辻邦生の「嵯峨野明月記」に登場した狩野光徳という画家が、世間の全てを絵に描こうとして、その不可能性に絶望しながら息をひきとるようなことがあってはならないのでしょう。量の変化が質の変化に変わる瞬間のようなものがあるわけで、そこまでは無限との戦いをするんだと思います。

さて、土曜日に、仕事の山をひとつ越えました。昨日の日曜日は、朝から夕方まで仕事系の講習。今日は振替で休日にしました。今月に入って初めてのお休み。ですが、今日も朝から事務作業を。先ほどやっとおわり、ほっと一息つきました。明日から次の戦いに本腰を入れないと。

しかし、まあ、こんなに体を動かしてもなんとか持っているのは、もしかすると、やっぱり泳いでいるからかも。あるいは、最近始めた鳥の胸肉を食べる活動のおかげかも。鳥の胸肉は疲労回復に絶大な効果があるようです。

ちなみに、ここには、「疲れました」ということは書かないようにしているのですが、今日、ふと思い立って「疲」という文字で検索をかけてみると、出現頻度がこの3ヶ月増えてまして、毎日書かないと、と思うと、知らず知らず「疲れにくくなるように」とか「疲れを癒します」とか、間接的な表現で「疲れました」って書いちゃうんですね。いかんいかん。

ではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。