新国立劇場:ヴェルディ「ナブッコ」その3

「辻邦生ゆかりの地」の写真を撮ってみました。といっても、辻先生が直接いらしたことがあるはずはないですし、本当にゆかりがあるかどうかはわかりませんが、状況証拠から間違いないはず、と思っています。結構こじつけですので、今度報告する際に怒られてしまうかも。。
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さて、新国立劇場は「コジ」で湧いているようで、私も来週末に行くのですが、まだ終わっていない「ナブッコ」の件。だから、上司に「スピード感がない」と怒られるのですね、私。。
今回は、もう少し内容を書いてみます・
序曲では、デパートのお客たちが、カバンや上着を使いながらダンスを始めます。カバンを頭に被るので、まるで巫女がかぶる帽子に見えたりします。その後、ザッカーリアが「世界の終末は近い」というプラカードを体に下げて登場します。よく宗教団体が街頭でやっているあれです。
バビロニア勢は、資本主義のアンチテーゼとして武装ヒッピーとして登場します。マシンガンをもって天井からロープを伝って降りてきました。めちゃカッコイイ登場。ナブッコももちろんヒッピーたちの親玉として登場するわけです。バットでショーウィンドウを本当に叩き割るシーンがあって、なかなか面白かったです。マジでショーウィンドウ割ってました。あれは、新国「オテロ」でイアーゴが壁にベッタリ落書きするのと同じくらいかそれ以上に衝撃。
フェネーナは、帽子を深くかぶってトレンチコートを着込んでいますが、ザッカリアにコートを取られてしまうと、ヒッピーの服装をしていて、バビロニアに帰属する人物であることがわかります。ズボンに派手な花がらの意匠で、長い髪の毛の一部が黄色に染められていて、とても支配階級に属する者とは思えず、ヒッピーに属しているのがわかります。
ですが、ザッカーリアの服装も汚れていて、支配階級に属していると思えないのです。
私は、ユダヤ人は支配階級たる「人びと」と捉えています。
むしろ、ヒッピーに近いものを感じました。この峻別の微妙さが難しいのでしょう。ところが、フェネーナはユダヤ教に改宗しますので、白いドレスに着替えます。支配階級の軍門に下ってしまうのですね。
第二幕の最後で、ナブッコが自分は神だ、と宣言すると、雷鳴が光り、ナブッコは床に倒れてしまいます。神の怒りとして雷撃を取り入れるのは、旧約聖書と同じ。
第三幕では、デパートの内装はめちゃめちゃに壊されていて、偶像崇拝の対象として、デパートの中に飾られていたキューピー人形の巨大な頭に廃材を使って作られた十字架型の人形が登場します。高価な服やMacの箱がぶら下げられています。捕虜は両手を前で縛られているのですが、マウスのコードで縛られていて、細部までリアルに作られています。
本来は第二幕まではエルサレムでの出来事で、第三幕以降はバビロン捕囚後のバビロニアという設定なのですが、今回の演出においては、場所の変化は見られず、場所の意味合いが変わったというところにとどまっていました。ここがすこしわかりにくさを感じたところだったと思っています。
助演の方が演じる武装ヒッピーの感じがすごく良かったです。彼らはみなマスクをかぶっていて素顔を見せません。それがまたリアルです。アノニムの暴力、人間性が剥がされた状況なのでしょう。
「行け、わが想いよ、金色の翼に乗って」は、もちろん捕虜となった人々がの嘆きの歌として歌われています。ここは、コンヴィチュニーだったら、先日観た「マクベス」と同じく、客席の電気をつけるかも、と思いました。
ナブッコは、フェネーナを救うために、カウンタクーデターを成功させ、その過程で神への帰依を表明します。ここで、ナブッコは苗木を持ってきて、デパートの床板の下にある地面に植樹し祈りを捧げることになります。
こうして、ナブッコはエコロジストとなり、最終的には、支配階級もヒッピーも自然へ回帰する、ということになりましょうか。
ただ、そうした自然への回帰の見せ方が今ひとつよくわからず、ヒッピーが社会復帰するという、「ビルドゥングスロマンのような見え方、あるいは、「人びと」=支配階級の勝利のようにも見えてしまい、毒素が減じられた感じです。
いや、現実はまさに演出が描いたとおりですし、われわれはそうした支配階級に恩義があるのですから、演出の作り方としてはまったく理にかなっていますが、劇薬が薄められてしまったという感はありました。
とにかく、ここまで読み替えられちゃうのね、という感嘆でした。天才の考えることはスゴイです。
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明日からまた戦闘。しかも早朝より。

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新国立劇場:ヴェルディ「ナブッコ」その2

先日の私のブログを読むと、演出批判に読めてしまうのに気づきましたが、そんなことは全然無いのですよ。
ともかく、読み替えのスケールが大きいのです。
特に、演出舞台は、本当に素晴らしいものでした。入った瞬間に、おー! と歓声をあげてしまったぐらいです。
私は二階右サイドでしたが、舞台をちゃんとみようと一階に降りて、しばらく眺めていました。
細かい意匠が素晴らしいのは先日書いた通りです。合唱の方の開幕前の演技も素晴らしいのですよ。みなさんちゃんと会話していました。ただ歩いているだけではないのです。商品を買って、クレジットカードで決済して、ありがとうございました、というところまでやってますし、待ち合わせしていたり、知り合いと会って、あーら、お元気?、みたいな会話までちゃんとやってましたから。
あとは、自動ピアノがおいてあって、ナブッコのテーマが演奏されていましたね。
ともかく、その美しさと、緻密さに感動しっぱなしでした。
これは、ぜひ再演してほしいところ。
オペラ演出も無形文化財だ、と思います。先日のアイーダもそうですが、今回の演出も日本の宝ですね。
「自然」に感じた、少しばかりのざらついた違和感は、私の感覚が演出意図とずれているからかもしれない、などと思います。それはもしかしたら、日本と西欧の差異なのかもしれません。
引き続き戦線継続中。あ、じつは先週、辻邦生ゆかりの地へ。かなりのこじつけですが。

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新国立劇場:ヴェルディ「ナブッコ」その1

一ヶ月ぶりの新国立劇場。
グラハム・ヴィック演出によるヴェルディ「ナブッコ」を新国立劇場にて見て来ました。
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<ネタバレ注意>
通常、開場と同時にホールに入場できるのですが、今回はロビーで少し待たされました。
やっと中に入ってみると、舞台上は欧米でありがちなデパートの店内になっていて、合唱団員の演技が始まっていました。
アップルストアのパロディで、リンゴではなくナシがモティーフになったお店があったり、服飾品のブティックや、カフェがあります。金持ちそうなお客がお店の中にいっぱいです。
本物のMacが飾ってあったり、Macのパッケージを持つ人がいたり、リアルに作られていました。さすがにMacのパッケージのロゴはリンゴでしたが。
そうなると、気になるのが読み替えのコンセプトです。
本来は神殿であるはずの舞台設定がデパートになっているのは、現代資本主義の殿堂が、売買の殿堂であるデパートという設定なのです。
ヘブライ人は、「人びと」と訳されていて、特定の民族ではなく、人間一般というふうに読み替えられています。
バビロニアは、アナーキストとされていますが、私にはヒッピーのように見えました。
私には、ヘブライ人の読み替えの「人びと」が、現代社会における支配階級、つまり高所得者であったり政治家であったり資本家であったり、という階級であり、それへの敵対勢力としてバビロニアの読み替えであるアナーキスト、あるいは私はヒッピーだと思うのですが、そうした勢力の対立の構図として読みました。ウォール街占拠事件やロンドン暴動が裏に読めるのではないか、と。
エホバ神は「自然」に置き換えられています。日本人にとって、絶対神という概念は二重の意味でなかなか実感しがたいものです。ひとつは、日本人にとって特定の宗教への肩入れが少ないという意味において。あるいは、宗教心を持っていたとしても、一神教ではなく多神教であるという意味において。
その中でも「自然」の猛威については、日本人にとって身近であろう、というのがその考えのようです。
それが表現されていたのは、舞台中央の床板が外された中に土床が作ってあって、そこに植物が植えられているという点と、最後に雨が降る場面でした。
ただ、「自然」の威力を舞台上で表現するのは難しいと思いました。本来エホバ神は怒る神です。私は、最後に津波ですべてが流されるぐらいの強烈な演出ではないか、とも予想してしまっていて、そこまでやるのは問題だなあ、と心配していたので、少し肩透かしを食らった気分でした。
明日に続きます。というか、思った以上に難仕事です。。

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ヴェルディがイタリア統一で果たした役割の謎──新国立劇場「ナブッコ」によせて その3

新国立劇場のナブッコ、本日がプルミエですね。私はは6月1日に出動予定です。

で、昨日の続き。期せずしてシリーズになってます。そして、期せずして新国立劇場「ナブッコ」に関連してきましたので表題も変えてみました。多分、このあたりの話は、パンフレットに記載されているでしょうけれど、独自の調査ということで。

ナブッコ「行け、我が想いよ」はどのように迎えられたのか?

私は、ナブッコの「行け、我が想いよ」が愛国的に使われたという話を、中公新書の「物語イタリアの歴史」で読みました。この中ではこの合唱が如何に熱狂的に迎えられたのか、が記されています。

「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」と合唱を始めると、客席の興奮は最高潮に達した。……
聴衆は熱狂してヴェルディを讃えた。「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」のメロディは、街中いたるところで歌われるようになった。……ミラノの床屋はアコーデオンでこのメロディを鳴らして客を集め、しばしば警官が出動して群衆を追い散らす騒ぎとなった。

藤沢道郎「物語 イタリアの歴史」第11版 中公新書、1998年、308ページ
確かに、アンコールとは一言も書いていないですが、この曲が熱狂をもって迎えられたと理解していました。
ところが、加藤浩子氏「ヴェルディ」においてはそのような熱狂はなかったのではないか、とされています。

だが、1987年に出版された《ナブッコ》の批判校訂版を編纂したロジャー・パーカーは、資料研究の結果、初演でアンコールされたのは<行け、わが想いよ>ではなく、最後の讃歌<偉大なるエホバ>だったことをつきとめた。また、ミラノに続いて行われたイタリア各都市での上演で、<行け、わが想いよ>が熱狂的に迎えられた記録はないという。

加藤浩子「ヴェルディ」平凡社新書、2013年、62ページ

<行け、わが想いよ>が愛されるようになったのも、統一後のことのようだ。というのも、1948年に起こった「ミラノの5日間」の放棄の後、スカラ座はしばらく閉鎖され、オペラは上演されなくなるが、その間にリコルディが数多く出版した『愛国賛歌』の類の中に、<行け、わが想いよ>は見当たらないのである。<行け、わが想いよ>が、「合唱の父」と称されることもあるヴェルディによる「第二の国家」なら、この時に何度も出版されて当然だろう。だが、その時人気を集めていたのは、ピエトロ・コルナーリなる作曲家に因る《イタリア人の歌》という作品だった。

加藤浩子「ヴェルディ」平凡社新書、2013年、64ページ
「行け、わが想いよ」が、アンコールされた事実も熱狂的に迎えられた記録もないかもしれない、ということになるわけですが、真実はどうなのか。
ビルギット・パウルスの説は、おそらくこちらの本になるはずです。あたってみたいところですが、ドイツ語ですか。少しハードル高いですね。。東京芸大の図書館にあるようですが、そこに入る術を知りません。町の図書館で取り寄せられないか、聴いて見ることにしましょう。

今後の予定

明日は、ヴェルディに政治的意図は本当になかったのか、を書いてみようと思います。これも記述がわかれていますので。
私の手元にある文献3冊が喧嘩をしていて、何が本当なのかわからないですね。「世界が非論理であり、真実というものは途端に消滅するもので、あるのは作為的な事実や歴史のみである」という、最近の私の考えと一致する状況でしょう。
面白いっすね。こういう謎解き。

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ヴェルディがイタリア統一で果たした役割の謎──新国立劇場「ナブッコ」によせて その2

引き続きヴェルディが楽しい毎日。
今日はレクイエム。バレンボイムがシカゴ饗を振ったバージョン。

昨日のお話の続きを。
ヴェルディがイタリア統一運動において果たした役割は、「ナブッコ」の「ゆけ、我が想いよ」が、当時オーストリアに支配されていたミラノにおいて、イタリア民族意識に火をつけたということ。もう一つは、「ヴェルディ万歳!」という言葉が、「イタリア王、ヴィットリオ・エマヌエーレ二世」というイタリア統一を象徴するといったことになります。
これは、イタリアの教科書に書かれていることでもあるとのことですし、随分といろいろな所で取り上げられている「常識」的なものでした。
ところが、どうやらそれは「幻」のようなのです。
件の「ヴェルディ」においては、ビルギット・パウルスというドイツの研究者による情報として以下の様な説が紹介されています。
(「ひ孫引用」で恐縮ですが)「ヴェルディ万歳!=イタリア王、ヴィットリオ・エマヌエーレ二世」の挿話の初出は、オーストリアの音楽批評家であるエドゥアルト・ハンスリックによって書かれた「現代のオペラ」という作品のなかなのだそうです。
ハンスリックは、高名な音楽評論家ですね。ワーグナーと対立し、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」で敵方ベックメッサーのモデルになったと言われている方です。
その部分を、ハンスリックの原書から発見しました。加藤浩子氏「ヴェルディ」においては1875年とされていますが、googleにスキャナされた版は1880年とあります。
“http://archive.org/details/diemoderneoperk02hansgoog”:http://archive.org/details/diemoderneoperk02hansgoog
255ページの以下の部分です。

超意訳ですが、

つまり、ボンバルディア、ヴェネト、ローマ、トスカーナ、ナポリにおいては、「イタリア万歳!」と叫ぶことはタブーだったので、人々は「ヴェルディ万歳!」と叫んだのだ。このヴェルディの名前を示す個々の文字は以下の意味を指し示す。すなわち、イタリア王、ヴィットリオ・エマヌエーレ、である

と書かれているはずです。
この部分が、世界ではじめてヴェルディの言い換えを行った場所、ということになるのでしょうか。
つづく。
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先程まで、教育テレビで放送されていた吉田秀和さんのドキュメンタリーに釘付けになってしまい、遅くなりました。続きは明日。

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ヴェルディがイタリア統一で果たした役割の謎 その1

ヴェルディが楽しい毎日。今日はオテロ。ナブッコの予習もしないといけないのですが、音源の入手が遅れていることに気づき焦り気味です。

先日「ビバ・リベルタ」という本を取り上げました。その中でイタリア統一にまつわるエピソードを取り上げました。

この本では、ヴェルディが政治的闘志を燃やしているかのような記述があるのですが、どこかでそれを覆す論述を読んだ記憶がありました。

どこで読んだのか覚えておらず、取り急ぎエントリーしたのですが、その辺りの不確定さを少し匂わしておくだけにとどめていました。つまり、あまり政治に熱心ではなかった、と言った表記をしたのはこういうわけだったのです。

昨日、大学の友人と会う機会があり(その訳を書くのは少し難しいのですが)、その際に一冊の本を紹介してもらいました。加藤浩子氏による「ヴェルディ」という本です。

その中に私の漠然な疑問に答える記載がありました。

ヴェルディがイタリア統一に果たした「偉業」は、幻だった、というのです。

続く

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今夜も夜勤のメンバーがいる中ですが、離脱中。明日は何もなければOFF。

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ヴェルディ「マクベス」における歴史と政治

はじめに

我々日本人は知識として知っているだけで、体感することが難しい概念に「国民意識」や「自由の渇望」というものがあるのではないか。
この考えは、特に目新しい考えではありません。19世紀まで鎖国をしていましたので、国家間戦争の体験が少ないということや、西欧帝国主義への対抗措置としての富国強兵や、第二次大戦後の占領といった外圧によって、フランスが勝ち得た自由主義というものを与えられた、など、西欧諸国と異なった歴史をたどったのが日本という国です。
ですので、オペラを観るに際しても、あるいは西洋音楽を聞く場合に際しても、日本という場所を超えて、当時の西欧諸国の状況を思案しなければならない場合もあると考えています。

マクベスにおける反体制運動


マクベスにおいて、原作にはない合唱が挿入されている箇所があります。第四幕の第一場のスコットランド難民の合唱「虐げられた祖国」です。
コンヴィチュニーの演出においては、合唱団が歌い始めると客席の照明が付けられます。ありがちな演出なのだそうですが、これは合唱の内容は、観客にとってもアクチュアルな問題なのである、という事を気づかせるための仕掛けです。
日本も敗戦であったり震災であったりと、国土が荒廃することがあるのです。のうのうと劇場の座席に座っているわけには行かないのではないか、そう思わせる瞬間です。
この部分、原作にはないにもかかわらずなぜヴェルディは挿入したのかは、よく知られているように、当時のイタリア統一運動に端を発していると考えられます。
合唱は民衆の代弁です。こうやって、世論を汲み取り、芸術へ昇華し、政治への働きかけを試みているといえます。

イタリア統一とヴェルディ

**※ 本件については異論あります。(2013年5月18日追記)別稿「ヴェルディがイタリア統一で果たした役割の謎 」シリーズに記載しておりますのでそちらもあわせてどうぞ。**
ヴェルディがイタリア統一運動において特別な立ち位置にあったことは周知のとおりです。
Vittorio Emanuele Re D’Italia イタリア王、ヴィットリオ・エマヌエーレ の頭文字を取るとヴェルディになったため、民衆は、しょっぴかれることなくヴェルディ万歳!と連呼したというのは有名なエピソードです。当時のミラノはオーストリア領でイタリア統一運動は反体制運動でしたので。ヴェルディは時代にも愛されたのでしょう。
若いころは、イタリア統一を意識したオペラを作曲していましたが、実際の政治に関わりたくなかったという側面もあるようで、統一後のイタリアで国会議員になりましたが、あまり身を入れることはなかったようです。

終わりに

この本もヴェルディの項目を読み終え、ワーグナーの項目に入りましたが、言説はオーソドックながらも、考えをまとめるのに恰好な一冊です。

というわけで、連休も終わりに近づいています。3日も5日も会社に行きましたので、休んだ気がしません。まあ、人生「仕事」なんで仕方ないですね。

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東京二期会公演「マクベス」の演出をめぐる随想いろいろ

はじめに


先日参った東京二期会公演の「マクベス」。私はコンヴィチュニーの演出に参ってしまいました。「鬼才」と冠せられることはあります。
あえて文献や情報に当たらず、意見をまとめてみました。

演出について

狂言回しとしての魔女あるいは女性たち

一貫しているのは、魔女達が狂言回しとして、全体をプロデュースしているという設定です。登場する女性たちは、(一箇所を除き)みんな鼻が長い魔女になっています。
舞台の時代設定は現代です。魔女たちがいるのは、薄汚れたキッチンです。なにやら怪しいホームパーティーで、魔女たちは派手な身なりをした若い女達で、肩にフクロウや黒猫を載せていました。
そもそもの原作においても、魔女の予言が契機となって物語が進行しますし、第三幕でマクベスは魔女の予言を聞きに来ますので、魔女が物語のトリガーとなっているのですが、演出においてはさらにそれが押し進められており、例えばマクベス夫人に手紙を渡すのも、マクベスにダンカンを殺すためのナイフを渡すのも魔女ですし、4幕で反マクベス軍に物資(ここでは木ですが)を渡すのも魔女たちです。
そして、その最たるものは、すべての演奏は、魔女たちが囲み耳を傾けるラジオの中の出来事でしかなかった、という解釈です。
最終部分の音はオケの音が徐々に小さくなり、ラジオからしか聞こえないという具合になっています。最後のオケの盛り上がりは全くありません。肩透かしを食らった気分です。
ここは、どのように音を出しているのか、今のところよくわかりません。音の感じはオケがフォルテで鳴らしているようにしか聞こえないのですが音はラジオから聞こえるように小さくなり音圧も圧縮されているように聞こえました。
これは演出が音楽を完全に包含してしまったという事態なのです。
音楽的な解釈として最後ピアニシモで終わるということはありえないのです。当然ですが、スコアも最後はフォルティシモで終わっています。
全ては演出家の掌の中で行われたことだったというメタ・フィクションです。
これまでの2時間半にわたって、胸踊らせ心をときめかせて聞いていた生音のオーケストラが、実は誰でも聞くことのできるラジオ番組に矮小化されてしまったことへの当惑なのでしょう。私も呆気にとられてしまいすぐには拍手ができませんでした。
カーテンコールでコンヴィチュニー本人が登場した途端にブーイングが多数でました。そうした腹立たしさの現れなのでしょう。
ただ、このブーイングはおそらくは想定どおりなはずで、コンヴィチュニーとしては、してやったり、と思っているんじゃないかな、と想像しています。おそらくは観客の反応を引き出すのが目論見ですから。単なる拍手で終わるよりも嬉しいはずです。
魔女たちが舞台をプロデュースしているという事態は、女性が世界を動かしていることのメタファーになるのでしょう。マクベス夫人がマクベス物語の中でマクベスを動かすように、マクベス物語を魔女達が動かしているという構造になるわけで、二重の意味で世界を女性が動かしているということになるでしょう。

作曲家から演出家へ

今回のこの演出ですが、大げさに言うと、演出の音楽への再度の宣戦布告なのではないかと思ってしまったのです。
確かに戦後のオペラは、バイロイトのヴィーラント・ワーグナーの新バイロイト様式演出以降、演出が積極的にオペラを時代にそって解釈し、意味を創造するようになりました。
それでもなお、オペラの上演に際しては、まず始めに作曲家の名前が冠されるのが一般的でした。
しかしここでは、最後に主役であったと思っていたヴェルディがいなくなり、コンヴィチュニーが主人公になったように感じたのです。
少なくとも、オペラはまだ音楽の一ジャンルであると勝手に信じていましたが、実のところ、既に演劇や映画へと連れ去られていたのではないか、などと感じてしまったのです。これも少し大げさな言い方ではありますが。
私がオペラを聴き始めた頃のことを思い出しました。当初はオペラ自体が珍しく思えましたので、まずはオーソドクスな演出で当初想定された自然主義的な演出を期待していました。
ところが、そのうちに、オーソドックスな演出を打ち破って、そこに新たな意味を付加することの面白さに気づいていったのでした。
新国立劇場の一連の「ニーベルングの指環」を観て、演出からそこに付加された意味をいろいろ考えたり、あるいは、自分なりに意味を付け加えていくことの面白さでした。新国立劇場での「オペラ・トーク」で演出家から直に聴くオペラ演出の意図も刺激的でした。演出の重要性は十分理解しているつもりでした。
しかし、ここまで音楽を脇役に追いやってしまうとは。これは、オペラ・システムという音楽と舞台のコラボレーションの意味合いを変えてしまう、画期的あるいは破壊的なアイディアだと思ったのです。
パンフレットには「鬼才ペーター・コンビチュニー」とありましたが、これが「鬼才」たる所以なのでしょう。

演奏について

演奏についても触れておかなければなりません。
マクベス夫人を歌った石上朋美さん。当初不安定な部分もありましたが、徐々に調子が乗り始め、第四幕最後のマクベス夫人絶命の場所は素晴らしかったです。あそこは、素晴らしく安定していて、声も厚みのある豊かなものでした。
指揮者のヴェルディニコフの指揮も良かったです。かなり重みをつけた指揮で、ガッチリとした緊密な響きを現出させていました。奇をてらったり観客におもねったりするようなことは全くありませんでした。
がゆえに、コンヴィチュニーが最後のクライマックスをラジオからの音源としてしまったのが残念だったのです。最後の最後のカタルシスを奪われてしまった歯がゆさでした。

東京文化会館

そうそう。東京文化会館ですが、2月から今月にかけて3回参りました。ホールの音響として随分いいなあ、というのが印象的でした。
いまのところ私がもっともいいなあ、とおもうのはみなとみらいホールです。あそこの残響は素晴らしいのですが、東京文化会館は底までではありまえせんけれど、硬質ながらリッチな音響だと思います。
新国立劇場オペラパレスは、ちょっとデッドですので、いつもなにか欲求不満なところがあるのです。オペラパレスは材質が木ですが、東京文化会館はコンクリートですので、そもそも音響へのポリシーが違うのでしょう。

最後に

それにしても、本当に凄い舞台でした。しばらくはもう色々ぐるぐると思いが駆け巡っていましたから。。
演奏が始まったのが18時半で終わったのが21時15分。私はその後22時半から翌日の13時まで会社で働き続けました。毎年恒例のゴールデンウィーク特別対応のため。家に帰ってからはヘロヘロです。

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これがオペラなんだ……:新国立劇場「アイーダ」

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あー、これがオペラなんですね。私、なんで知らんかったんだ。。

とおもってしまうぐらい圧倒的なパフォーマンスだった新国立劇場の「アイーダ」でした。

このプロダクションは1998年の開場時のものです。それから14年ですが、まだ色あせていません。帰り際に思い立ちました。これは無形文化財なんじゃないか、と。

作ったのはゼッフィレッリ。

ここまで絢爛、というのは誰しもが思うもとです。加えて、舞台に奥行きがあるのです。何時もにもまして。

ギリシア風よりも野太く無骨な柱がそそり立つ柱廊がはるか先まで続いているように感じましたし、神殿の奥の薄暗い奥から立ち昇るアウラを感じたり。

衣装の意匠も素晴らしく、無からの創造よりも、古代エジプトの絢爛を汲み上げて再構成するほうが余程苦しいプロセスだと感じるほどでした。

生きた馬が登場するのは、知っていましたが、実際に見ると迫力抜群です。

「アイーダ」ともなると、超人気演目ですので、いつもとは違うお客さんが多いようで、なかなか面白く、例えば、指揮をしたミヒャエル・ギュットラーがカーテンコールで舞台上に姿を表すと、「キャー、イケメン指揮者っ」、とか「マジカッコいい、マジカッコいい」という声があちらこちらから聞こえてきたように思います。まあ、確かにイケメン指揮者なので異存はありません。

ミヒャエル・ギュットラーは、前回「フィガロの結婚」で登場しましたが、あの時は音楽の制御にずいぶん苦労していたように思いましたが、今回は、冒頭は少しハラハラしましたが、以降はオケ合唱含めて最後まで統御し切っていました。テンポのコントロールは前回の「フィガロの結婚」の時のように無理矢理感がなく、流れの中で波立たせるところは波立たせ、流すところはきちんと流す説得力の高いものでした。

キャストですが、外国勢三名は、大オケと張り合う強力な声量の持ち主でした。特にアムネリスのマリアンネ・コルネッティの最終幕は素晴らしかったです。パワーと情感が混然一体となっていました。

アイーダのムーア、ラダメスのヴェントレも声量はバッチリ。もちろん細かい点に気になる点などはありましたが、やはり声量がないといけません。

冒頭、みんな、なんだか疲れているようで、縦線が合わなかったり、歌の細部の処理がうまくいっていなかったりと随分心配したのです。ところが、ムーアが登場して、アイーダをガッツリ歌った途端に空気が変わりました。少なくとも私の頭のネジががっちり締まったのがよくわかりました。すごかったですよ。

いろいろと思うようにならないこともありますが、十指に入る名演といっていいと思います。4時間きっちり堪能することができたと思います。

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暮れなずむ新国立劇場はほんとうに美しいです。特にこの手摺のランプに灯りが灯るのが最高です。

本日は一旦ここまで。書きたいことたくさんだなー。

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アバドのヴェルディ「レクイエム」すげー!

最近ヴェルディが分かってきたわたくし。
先日の新国立劇場の「オテロ」で完全にヴェルディに苦手意識がなくなりました。
どうも、「アイーダ」以降のヴェルディにはすんなりと入っていけるようです。
「アイーダ」→レクイエム→「オテロ」→「ファルスタッフ」と続きますので、レクイエムは、私のゾーンに入っておりますね。
ヴェルのレクイエム、昔から好きでしたが、この音源を聴いてのけぞりました。

アバドの指揮は、キレがあってカッコイイです。
ゲオルギューも巧いですよねえ。もっと歌ってくれればいいのに。
この演奏を実演で聴けれたら幸せだろうなあ、と思います。
ヴェルディが苦手で、レクイエムの音源をあまり持っていないことに気づきました。というか、全然ない。。 カラヤン盤も名演とのことで、入手に勤めようと思います。
今日は短め。
短くても、回数を多く書いた方が良いのかもしれないですね。ライフログ的になるべく多く書くようにしたいところです。

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