東京二期会公演「マクベス」の演出をめぐる随想いろいろ
はじめに
先日参った東京二期会公演の「マクベス」。私はコンヴィチュニーの演出に参ってしまいました。「鬼才」と冠せられることはあります。
あえて文献や情報に当たらず、意見をまとめてみました。
演出について
狂言回しとしての魔女あるいは女性たち
一貫しているのは、魔女達が狂言回しとして、全体をプロデュースしているという設定です。登場する女性たちは、(一箇所を除き)みんな鼻が長い魔女になっています。
舞台の時代設定は現代です。魔女たちがいるのは、薄汚れたキッチンです。なにやら怪しいホームパーティーで、魔女たちは派手な身なりをした若い女達で、肩にフクロウや黒猫を載せていました。
そもそもの原作においても、魔女の予言が契機となって物語が進行しますし、第三幕でマクベスは魔女の予言を聞きに来ますので、魔女が物語のトリガーとなっているのですが、演出においてはさらにそれが押し進められており、例えばマクベス夫人に手紙を渡すのも、マクベスにダンカンを殺すためのナイフを渡すのも魔女ですし、4幕で反マクベス軍に物資(ここでは木ですが)を渡すのも魔女たちです。
そして、その最たるものは、すべての演奏は、魔女たちが囲み耳を傾けるラジオの中の出来事でしかなかった、という解釈です。
最終部分の音はオケの音が徐々に小さくなり、ラジオからしか聞こえないという具合になっています。最後のオケの盛り上がりは全くありません。肩透かしを食らった気分です。
ここは、どのように音を出しているのか、今のところよくわかりません。音の感じはオケがフォルテで鳴らしているようにしか聞こえないのですが音はラジオから聞こえるように小さくなり音圧も圧縮されているように聞こえました。
これは演出が音楽を完全に包含してしまったという事態なのです。
音楽的な解釈として最後ピアニシモで終わるということはありえないのです。当然ですが、スコアも最後はフォルティシモで終わっています。
全ては演出家の掌の中で行われたことだったというメタ・フィクションです。
これまでの2時間半にわたって、胸踊らせ心をときめかせて聞いていた生音のオーケストラが、実は誰でも聞くことのできるラジオ番組に矮小化されてしまったことへの当惑なのでしょう。私も呆気にとられてしまいすぐには拍手ができませんでした。
カーテンコールでコンヴィチュニー本人が登場した途端にブーイングが多数でました。そうした腹立たしさの現れなのでしょう。
ただ、このブーイングはおそらくは想定どおりなはずで、コンヴィチュニーとしては、してやったり、と思っているんじゃないかな、と想像しています。おそらくは観客の反応を引き出すのが目論見ですから。単なる拍手で終わるよりも嬉しいはずです。
魔女たちが舞台をプロデュースしているという事態は、女性が世界を動かしていることのメタファーになるのでしょう。マクベス夫人がマクベス物語の中でマクベスを動かすように、マクベス物語を魔女達が動かしているという構造になるわけで、二重の意味で世界を女性が動かしているということになるでしょう。
作曲家から演出家へ
今回のこの演出ですが、大げさに言うと、演出の音楽への再度の宣戦布告なのではないかと思ってしまったのです。
確かに戦後のオペラは、バイロイトのヴィーラント・ワーグナーの新バイロイト様式演出以降、演出が積極的にオペラを時代にそって解釈し、意味を創造するようになりました。
それでもなお、オペラの上演に際しては、まず始めに作曲家の名前が冠されるのが一般的でした。
しかしここでは、最後に主役であったと思っていたヴェルディがいなくなり、コンヴィチュニーが主人公になったように感じたのです。
少なくとも、オペラはまだ音楽の一ジャンルであると勝手に信じていましたが、実のところ、既に演劇や映画へと連れ去られていたのではないか、などと感じてしまったのです。これも少し大げさな言い方ではありますが。
私がオペラを聴き始めた頃のことを思い出しました。当初はオペラ自体が珍しく思えましたので、まずはオーソドクスな演出で当初想定された自然主義的な演出を期待していました。
ところが、そのうちに、オーソドックスな演出を打ち破って、そこに新たな意味を付加することの面白さに気づいていったのでした。
新国立劇場の一連の「ニーベルングの指環」を観て、演出からそこに付加された意味をいろいろ考えたり、あるいは、自分なりに意味を付け加えていくことの面白さでした。新国立劇場での「オペラ・トーク」で演出家から直に聴くオペラ演出の意図も刺激的でした。演出の重要性は十分理解しているつもりでした。
しかし、ここまで音楽を脇役に追いやってしまうとは。これは、オペラ・システムという音楽と舞台のコラボレーションの意味合いを変えてしまう、画期的あるいは破壊的なアイディアだと思ったのです。
パンフレットには「鬼才ペーター・コンビチュニー」とありましたが、これが「鬼才」たる所以なのでしょう。
演奏について
演奏についても触れておかなければなりません。
マクベス夫人を歌った石上朋美さん。当初不安定な部分もありましたが、徐々に調子が乗り始め、第四幕最後のマクベス夫人絶命の場所は素晴らしかったです。あそこは、素晴らしく安定していて、声も厚みのある豊かなものでした。
指揮者のヴェルディニコフの指揮も良かったです。かなり重みをつけた指揮で、ガッチリとした緊密な響きを現出させていました。奇をてらったり観客におもねったりするようなことは全くありませんでした。
がゆえに、コンヴィチュニーが最後のクライマックスをラジオからの音源としてしまったのが残念だったのです。最後の最後のカタルシスを奪われてしまった歯がゆさでした。
東京文化会館
そうそう。東京文化会館ですが、2月から今月にかけて3回参りました。ホールの音響として随分いいなあ、というのが印象的でした。
いまのところ私がもっともいいなあ、とおもうのはみなとみらいホールです。あそこの残響は素晴らしいのですが、東京文化会館は底までではありまえせんけれど、硬質ながらリッチな音響だと思います。
新国立劇場オペラパレスは、ちょっとデッドですので、いつもなにか欲求不満なところがあるのです。オペラパレスは材質が木ですが、東京文化会館はコンクリートですので、そもそも音響へのポリシーが違うのでしょう。
最後に
それにしても、本当に凄い舞台でした。しばらくはもう色々ぐるぐると思いが駆け巡っていましたから。。
演奏が始まったのが18時半で終わったのが21時15分。私はその後22時半から翌日の13時まで会社で働き続けました。毎年恒例のゴールデンウィーク特別対応のため。家に帰ってからはヘロヘロです。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません