辻邦生「西行花伝」を読みながら

西行花伝 (新潮文庫)
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今年に入って、「西行花伝」を読み始めているのですが、どうも進みません。

この感覚、昔、哲学書を読んでいたときの感覚に似ています。読んでいるそばから、いろいろ気になることが頭の中をよぎってしまうのです。

ああ、そういえばこのエピソードは「銀杏散りやまず」でも登場したな、とか、この語り手である藤原秋実が西行を思う気分が、どうも没後20年に迫ろうとしている辻邦生を思う気分に重ねってしまうなあ、などと。

あともう一つ。

私は通勤時間しか本を読む時間が捻出できません。ですので、まわりの音を遮るために音楽を聴いているのですが、「西行花伝」を読むときにふさわしい音楽は何か?ということを考えてしまうわけです。

さしあたりの結論はこちら。アルゲリッチのバッハでした。

J.S. Bach: Toccata, Partita, English Suite / Martha Argerich
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なにか、この硬質で冷たく感情のない短調の美しさが、「西行花伝」に通底する美しさにぴったりのような気がしています。このあたりは完全に好みですので、おすすめするものでもないのですが、純粋な感想としてのご紹介です。

少し話を戻すと、藤原秋実が西行を知る者に話を聞いて回る、という物語の構造自体が、なにか1999年という二十世紀の最終幕においてこの世を去った辻邦生のことを探そうとしている我々の営みに重なるものがあるように思います。辻邦生のことを知ろうとしているのか、あるいは辻邦生文学のことを知ろうとしているのか。常々、文学を語ることと、世界を語ることを混同してしまうことがありますが、それと似たようなものなのでしょうか。

さしあたり、きょうはここまで。みなさま、おやすみなさい。

書店で「背教者ユリアヌス」目撃。

今日、書店にて背教者ユリアヌスを目撃。

いや、私は別の書店で予約していたので、今日は買いませんでした。そもそも、書店に行ったこと自体が想定外でした。

平積みになっていて、なんだか嬉しくなりました。

思わず、「あ!、辻邦生の背教者ユリアヌスだ! これ面白いんだよなー」と大声で独り言でも言おうかと思いましたがやめておきました。

それでは、みなさま、おやすみなさい。

中公文庫「背教者ユリアヌス」復刊

すでにご存じの方も多いと思いますが、中公文庫から「背教者ユリアヌス」が復刊となりました。まずは、第一巻が12月22日に刊行されています。

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中公文庫のTwitterで紹介されているのをキャッチしました。

  1. 全部で四巻セットで、12月から3月まで毎月刊行されるようです。
  2. 解説は書き下ろし。第一巻は加賀乙彦さん。
  3. エッセイなども収録されます。
  4. 東京堂書店では、2017年12月26日ベストセラー文庫第8位。(9位はソラリス)。 (http://www.tokyodo-web.co.jp/)
  5. 表紙の紋章は、辻邦生が年賀状に使っていた版画だそうです。 (https://twitter.com/chuko_bunko/status/944458256608411649)

なんだか、「ある生涯の七つの場所」が文庫化されたときに、2ヶ月に一度の刊行が待ち遠しくてならなかったのを思い出しました。もちろん、旧い中公文庫は持っています。すこし迷います。

そんなことをかいているうちに、2017年ものこり1日となりました。明日で最後。さて、振り返りをする時間はあるだろうか?

それではみなさま、おやすみなさい。

 

詩への旅詩からの旅を読んで

なんだか、ひどくいろいろなことをやっていて、くさくさした感じになってしまい、これはもう、何かストレス解消になるようなことをしないと、と思っていたのですが、この本を読んで一気に沈静化してしまいました。
辻邦生「詩への旅 詩からの旅」。1973年出版です。

詩への旅詩からの旅 (1974年)
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古本で買ったものですが、いつどこで買ったのか全く覚えていません。ところが、裏表紙を見ると、辻邦生のサインが。

実際に40年以上前に辻先生が手に取られた本が、21世紀となった今、私が手に取っている、という感動はそこはかとないものです。

この本、かつて読んでいるはずなのですが、もう20年も立っているので、ほとんど初めて読む感覚でして、冒頭のパリの描写にシビれてしまい、しばらく先に進むことができません。先日書いた「エルEllE」の中で、フランスの個人主義について少し触れましたが、その個人主義が「死」に立脚しているという指摘に痺れてしまったり、あるいは、フランスのカフェの微細な描写に、外国に行った時の緊張感のようなものを思い出したり。

朝のカフェのこの感じ、この雰囲気は決して伝えることはできない。そのなかに生きる以外にはそれを味わう方法はない。だが、そのことは小説を書くことに似てはいないだろうか。なぜ小説では、微細な細部が描かれるのか。なぜ裁断し、批評し、説明し、要約しないのか。それはただ、微細な描写が生きた雰囲気、なまなましい感じの容器となって作用しているからではないのか。この感じ(サンサンシオン)は、そうした描写にひょって、そのまま保たれているからではないのか。

11ページ

なんだか、もう外国に行くこともなくなってしまい、本当に悔しさとか悲しさとか歯がゆさとか、そういうことを感じずにいられません。が、人生は短く長い。これからどうにかしないと、とも思いました。諸々頑張ろう。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

辻邦生「白鳥の夜明け」を読んで。

とにかく、めまぐるしい毎日が続いていて、生きるために精一杯な感じになっています。やっと1時間だけ時間が取れました。

今日は辻邦生の誕生日です。1925年と言いますので、今から92年前になります。時代は光速で進みます。1999年のお別れの会も今日でした。18年前です。

さて、2005年から刊行された辻邦生全集。ラインナップはこちらのページにまとめています。

その最終巻である第20巻に、未刊行の短編が収められていました。「白鳥の夜明け」という小説です。私はこの短編に気づいていませんでした。全集が出てからもう10年以上が経つというのに。

辻邦生全集〈20〉アルバム・雑纂・年譜・書誌ほか
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「不眠症に悩む主人公は夜の街を散歩するのだが、そこで翼をつけて飛ぶ練習をする男オワゾに出会う。オワゾは優秀なエンジニアとして内燃機関を設計していたが、その優秀さが故に社内で嫉妬を買い、会社の方針とも意見を違えている。オワゾは、公園で見つけた鴎の卵を温めている。卵から雛が孵るのだが、それは鴎ではなかったのだった」

1993年2月に文藝界で発表されていたようですが、未刊行の小説だったようです。たまたま聞いていたこちら「ある秋の朝、光の中で」や「もうひとつの夜へ」を思い出しながら読みました。たまたまフィンジを聴きながらだったのですが、落涙してしまいました。ここに描かれている世界が真実だと素晴らしいと思うのですが、どうでしょうか。最後の場面があまりに美しく、胸を打たれました。

「あいつは飛び去ったのじゃないね。この世界を包む白鳥に変身したのだ」
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同じく、今日はこんな文章も読みました。
戦後は、マッカーサーのおかげで「女が国立大学には入れた」と言われ、今ごろになって、プーチンやブッシュその他の施政者の動向を追うことで、ようやく「革命」も「民主主義」も欺瞞であったことを私は理解した。
わずかな部数の研究所や刺繍は純文学作品を、なんとかやりくりして刊行して下さる良心的な編集者や出版社が少しは生き残っている。辻邦生全集やこの書物の刊行も、そんな方々の努力の一端と感謝しながら、「少数の幸福な読者」の手許にどうかぶじに届くようにと祈るばかりである。
辻佐保子 「たえず書く人」辻邦生と暮らして 164ページ
「たえず書く人」辻邦生と暮らして (中公文庫)
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昨今諸々諦念に達する状況ですが、粘りに粘って生きないと、と思います。
秋分も過ぎ、冬至へ向けてまっしぐらです。どうかみなさまお体にお気をつけてお過ごしください。

記憶を駆ける主体

Photo 先日、お世話になった方を囲む会に伺う機会を得ました。60年代から一貫して一つのことに打ち込んで来られた方で、私は大学時代の四年間にその方にお世話になりながら過ごしたのでした。その囲む会では、私も含めて、その方にこれまでお世話になった方が何人もいらしていて、60年代からこれまでに至るその方にまつわる思い出が、幾重にも重なるように語られました。安保闘争の時代から、バブル期、そして失われた20年。それは半世紀の歴史を振り返るようにも思えるものでした。私もおそらくは大学時代からの四半世紀を振り返ることになりました。

歳を重ねるにつれ、時間の感覚が異なることは、若い頃には全く予想しないことでした。それは、何か伝聞として知らされて入られたのかもしれませんが、身体的感覚の中で、時間が早まることを感じることは、予想を超えるものだったと思います。自分の生きて来た時間を分母にして、実時間を分子にすると、時間の長さの感覚が計算できるわけで、その波形は反比例式です。ご存知のように、反比例式のグラフは、当初乗算的な傾きを描きますが、その後その傾きは緩やかになります。おそらくは、その乗算的な傾きのピークが20代後半なのだと思います。その後は、傾きは緩やかになります。確かに、30代を過ぎると、時間が早く感じる、ということ自体に慣れて、驚くこともなくなりました。

ついこの間までは、そうした時間の感覚は今後あまり変わることはないだろう、と思っていたのです。ですが、先日の囲む会で、いらした方が縦横無尽に半世紀の記憶を操るのを見て、時間の感覚というものがまた別の様相を生み出すのではないか、と思ったのです。おそらくは、昔という感覚が徐々になくなってくるはず。あるいは、過去になればなるほど意味が濃くなって行くのでは、という感覚。なぜなら、過去になればなるほど反芻するから。これ、年配の方にとっては常識な感覚なのかもしれませんが、先に触れたように、時間が早くなる感覚を実際に体験しないと理解できないように、過去の意味の濃度が高まるということも体験しないとわからないはずです。私は徐々に体験し始めているようにも思いますが、それが本当にそうなのかはまだわかりません。ですが、おそらく、記憶の中を自由に遊ぶように行ったり来たりすることができるようになるのではないか、と想像しています。

私たちの主観が記憶の中で過去へ自由自在に行けるようになるということは、記憶全体のいずれもが現在となりうるわけで、そうだとすると、自分の記憶全体を未来とも過去ともいうことができるわけです。そうした記憶の総体を世界だとすると、我々は世界を縦横無尽に駆け巡ることができるのだ、と思います。ここにいる今の私が記憶の最新=最終末だとすれば、それこそが、全てを把握し語りうる主体である、ということ。何か、歳を重ねれば重ね、記憶を積み重ねれば重ねるほど、世界の見え方がこれまでとは変わるのではないか、と思ったりします。こればかりは自分で体験して見ないと、と思います。どのような世界が待っているのか。しぶとく生きて見届けるなければと思うのです。
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辻邦生の「小説への序章」です。トーマス・マンが「魔の山」で物語の時制は過去時制である、と書いていたことを踏まえてこのようなことを書いています。

あらゆる事象を過去的なものとなし、未来まで過去に属せしめる主体とは、あらゆる未来に先駆けて未来である主体、つまり最終末に立つ主体に他ならない。このような主体を物語的主体といいうるとすれば、物語的主体の生まれる深奥には、この時間の反転が何らかの形において行われなければならないはずだ。

最終末だからこそできることがあるということ。最終末で未来も過去となるとあります。最終末=今ここがあらゆることの中心となるということが、記憶の中を縦横無尽に飛び回ることができるということにも繋がるはずです。良い意味で、記憶に生きながら、次の新しい記憶を作っていくことがアセットになるということに繋がります。繰り返しになりますが、しぶとく生きて、新しい記憶を作るということに徹する、ということなんだと思います。

何ということを書きながら、9月も半ばを過ぎてしまいました。台風が近づいています。みなさま、どうかお気をつけて。お休みなさい。グーテナハトです。

辻邦生ミニ展示で読んだ辻邦生の自筆日記に書かれていたこと。

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辻邦生のミニ展示で、「JOURNAL」と題された自筆の日記を読むのが毎年楽しみです。ブルーブラックの中太ぐらいの万年筆で縦書きで緻密に書かれた日記には、本当に興味深いことが書かれています。

今回は、私の記憶では、確か「内容」と「様態」を小説でどう取り扱うか、と言うテーマが書かれているページだったと記憶しています。

小説家は「内容」は書いてはいけない。「様態」を書かなければならない。そう言うテーマだったはずです。何かを表現しようとした時、それをそのまま文章で書いてしまうことを、おそらくは「内容」と言っているはず。対して、「様態」とは、何かの様子を描写することで、「内容」を表現する。そう言う風に理解しました。

例えば、「疲れ切ったサラリーマンが、何人も座席で寝ている」と言うのが「内容」だとすれば、「20時。通勤列車のロングシートに座る白いシャツを着た男たちは、一様に目を閉じて列車に揺られている。列車が動きに合わせて、男たちの身体が一斉に動く。まるで、眠れる兵士が隊列を組むように」みたいな、情景の描写が、「様態」なんですかね、なんてことを思います。

いずれにせよ、直接的な表現に甘えてはならず、描写によって事物を表現せよ、と言うことなのだと理解しました。

おそらくは、そう言うテーマが「小説への序章」にあったはず。展示されていた日記は、「夏の砦」を書くために山へ向かうシーンが描かれていた部分です。「夏の砦」成立と同時期に「小説の序章」がかかれていますので。このあと確認して見ます。

今日も東京地方は雨。夏はどこへ言ったのか。また来週から夏が戻りますが、すでに「残暑」と呼ばれる季節になってしまいました。日の出の時間もどんどん早くなります。東京ですと、残念ながら朝5時を回ってしまった、と言う悲しみ。毎朝5時に起きていますので、暗い中起きる季節がまた巡って来てしまいました。早く、夏至にならないかなあ、と思います。心の底から!

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

品川をめぐる辻邦生の思い出

受験のために、東京へ向かったのが1992年のこと。宿泊は格安プランの品川プリンスホテルでした。プリンスホテルとはいえ、古い部屋で、窓も小さく、だから格安プランなんだ、と納得した記憶があります

その東京へ行くにあたっては、中公文庫の辻邦生全短篇を1冊持って行きました。「洪水の終わり」を新幹線ホームで列車を持ちながら読んだ記憶があります。

それはそうと、その品川プリンスホテルの中に入っていた小さな書店で、辻邦生の本を見つけたわけです。「霧の聖マリ」でした。ある生涯の七つの場所が中公文庫から刊行されましたが、その最初の一冊でした。その頃は、まだ辻邦生という作家のことをまだよくわかっていなかったわけですが、そうであったとしても、ここで出会ったのも縁だと思い、購入したんだと思います。

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それで、あとがきを見て驚いたのでした。辻邦生によるあとがきの最後は「高輪にて」と締めくくられていたのでした。品川プリンスホテルは高輪に面しています。そうか、ここで辻邦生の本を買ったということは、本当にすごい縁なのだ、と勝手ながら思ったものです。

辻邦生のマンションは高輪にあったというのは有名な話。逝去をつたえる新聞記事にもご住所が掲載されました。部屋は二つお持ちだったのではないでしょうか。一つは生活される部屋。もう一つは仕事部屋。エッセイの中で、夕暮れをマンションから見ていたら、変人扱いをされた、というような話も載っていたかと思います。

私は、辻邦生がなくなった1999年の後、そのマンションまで五反田駅から歩いて見たことがあります。その道は、「銀杏散りやまず」の冒頭で描かれたあの通り道だったはずです。その通り道にあった古書店で、シュティフターの「ヴィティコ」という本を見つけて書った記憶があります。

この話、以前も書いたかどうか、忘れてしまいました。

それ以外にも辻邦生と個人的な縁を感じることがいくつか会ったように記憶しています。折があれば書いてみようと思います。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

初めて読んだ辻邦生の短編小説

この週末、本棚を眺めていました。なぜか美術系の本が並んでいる棚に、こちらが入っているのを見つけました。

私が初めて読んだ辻邦生の活字は、この本に印刷されていた「樂興の時 十二章」『桃』だったのです。

手に取ったのは夏の暑い日、当時住んでいた高槻の街から京都へ向かう快速電車の中だったと記憶しています。まだ湘南色を身にまとった快速電車でした。

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この小説を読んで、辻邦生ってすごいなあ、と思ったのでした。その後新潮文庫版の「見知らぬ町にて」を古本で購入し、辻邦生文学へと進む毎日が始まったのでした。

昨日、改めて読み返しました。

本編のストーリもさることながら、ゴシックで書かれた別の物語に興味を覚えました。子供たちが夏の森の中を進んで、牧神に出会い、一緒に踊り、さらに進んで海辺へいたり、主人公の老人の物語と同一し、薔薇色の海の中へと、泳いでいく、という物語です。おそらくは老人が見ている夢です。

この物語は、アルカディアのイメージです。私はこちらの絵を思い出しました。国立西洋美術館にある「踊るサテュロスとニンフのいる風景」。子供たちとサテュロスが踊る理想郷を描いた絵です。私はこの絵が本当に大好きで、数年おきに上野に行きたくなります。踊るサテュロスやニンフたちの姿はもちろん、その向こう側に広がる風景や大気の様子が素晴らしく、上野にいくたびにずっと眺めていて、いつか吸い込まれてしまうのではないか、と思ってしまいます。

おそらく、主人公の老人も、夢の中でこういう風景を見ながら、薔薇色の海に入って行き、息を引き取ったのでしょう。

ある意味、満たされた死。これが、加賀乙彦先生がおっしゃっていた「死を描きながらも明るい小説という不思議」「膨らみ、明るくなり、黄金色に輝く世界」がここにあるのだ、と思いました。

しかし、考えることの多い作品だなあ、と思います。老人の住む世界と、老人の妻あるいは老人の娘の住む世界の相違、という問題。この世界の相違というのは、本当に問題です。

それにしても、高校時代に読んで、この小説に感動するというのも、今から思うとどうかと思います。当時から、何か世の中の儚さのようなものを勝手に想像していたようです。今では、それが現実になっている気がします。

昔書いたこちらも。

辻邦生「樂興の時 十二章」から『桃』

どうも暑くなったり涼しくなったり、という東京の気候です。体調を崩してしまいそうです。みなさまもどうかお気をつけてお過ごしください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

今日は辻邦生のご命日「園生忌」です。

今年も園生忌が参りました。一年が経つの早いものです。
写真 1 - 2016-07-29 先日の講演会のあと、色々と考えました。暗い窖にどんどんずり落ちて行く感覚を感じていた今日この頃でした。そうしたなかで、全てを放擲してしまうのか、それとも、ずり落ちないように、精神の屹立を目指すのか。(私の言葉ですが)精神の屹立を成し遂げるために、辻邦生が美を追求したのでしょう。美こそ、人間らしく生きることを保証する最後の防波堤、最後の砦なのではなかったか、と。死を包み込むような美があるからこそ、加賀乙彦先生は「不思議な小説」とおっしゃったのではないか、と想像しています。
そういえば、高校時代、辻邦生を読み始めた時、「あ、これは死の小説だ」と思ったのでした。当時読んでいたのは、いわゆる「西欧の光の下で」という名前で括られる短編群でした。中公文庫で「辻邦生全短篇」という名前で2冊出ているものです。

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私は、友人に「辻邦生の小説には、死があるのだ」と語った記憶があります。確かに、「洪水の終わり」「風越峠にて」「空の王座」など、すべて死に彩られています。しかし、そこには陰惨なものはなく、ただ精神を高めながらも、その半ばにおいて、その精神の高さが故に死へとつながってしまう、というような、高みへ向かう死のようなものがあったように思うのです。これは、もちろん、短篇だけではなく、「安土往還記」「夏の砦」「背教者ユリアヌス」という長編軍においても同じだと思います。

なにか、この死をも包み込んでしまうような、何か、加賀乙彦先生が「不思議」とおっしゃったもの、それが辻邦生の一つの本質なのではないか、とも思います。

もちろん、死は単なる偶然の結果であり、死を目指すものではないということはいうまでもありません。何か、燃え尽きるような感覚、まるでイカロスが太陽に触れてその翼を失うような感覚、そういう感じを持っています。

私は、辻文学以外の文学小説をあまり読むことができません。村上春樹はいくらか読みますが、それ以外は実のところ読むのが難しく思います。どうも、この「不思議」な世界に足を踏み入れているから、なのかも、と思います。

しかし、当時の訃報の新聞記事。小説家の訃報としては非常に大きく取り上げられているなあ、と改めて思います。とにかく、18年前の夏の、なんともいえない悲しみ、悔やむような気持ちが思い出されました。

それではみなさま、どうか良い週末を。おやすみなさい。