明日は、新国立劇場で「夕鶴」を見る予定です。言うまでもありませんが、念のためあらすじなどを。
このオペラ團伊玖磨により1952年に作曲されました。もとは木下順二の戯曲でいわゆる「鶴の恩返し」が下敷きです。この話は小さいころに何度も何度も聞かされましたね。鶴を助けた老夫婦のもとに若い娘が訪れ、機織をして立派な布を作るのですが、老夫婦には、絶対に機織をしている部屋をのぞかないように、と告げるのですね。老夫婦はこの布を売ったおかげで長者になりますが、ある日、とうとう我慢できなくなり機織部屋をのぞいてみると、そこには鶴がいて、自分の羽を布に織り込んで布を織っていたのでした。約束が破られたがゆえ、鶴は名残惜しくも去っていく、というお話。
オペラ版は戯曲を一言一句たがわぬよう作られているようです。ストーリーは、鶴の化身であるつうがすでに与ひょうのもとに嫁いでいて、、つうの織った布がすでに金蔓になっていることところからはじめまっています。また、つうが鶴の化身であるという示唆がちりばめられていて、最初から不幸な結末を暗示しているようです。そこが、通史的な民話とは少し違っています。
木下順二の戯曲には貨幣経済や経済至上主義への批判がこめられているようです。いつも思うのですが、こうした演目が劇場で公開されることの意味とは何か? ということ。おそらくは、これも純粋なファンタジーとして受容されるのでしょう。そうでない字義通りに受け止めるという受容の方法もあります。ともあれ、芸術作品の持つ偉大な力と、かたや何をもなしえないという非実践性、この二つの乖離が残念でなりません。
つうが、与ひょうが変わっていってしまう、と詠歎するところは涙ぐみます。ただ、日本語を西洋音楽へ乗せることの難しさというものも改めて理解しました。
木下順二の戯曲には貨幣経済や経済至上主義への批判がこめられているようです。いつも思うのですが、こうした演目が劇場で公開されることの意味とは何か? ということ。おそらくは、これも純粋なファンタジーとして受容されるのでしょう。