Jazz

徒然な日々。朝は、バッハを聴いてましたが、帰宅はJUJUを聴きながら。

先日、都内某所で仕事関連の会食があり、ジャズセッションに参加したのですが、流石にJUJUは吹けませんでした。Foot prints が精一杯。およそ9ヶ月ぶりですし、色々失敗したけれど。。

しかし、この、ショーターの気だるい感じは、割とすぎで、一時期はショーターのアルバムを買い集め、よく聞いていたものです。

今週は、外出と会食が続き、新しいことをいろいろ学びました。明日からは11月で、この週末は、身体を休めて英気を養いたいところです。

それではグーテナハトです。

Miscellaneous

天気は割とよかった一日のようでした。秋晴れ? 太陽の高度は、2月と同じかな、と思います。今日は、普段お会いすることのない大変お世話になった方々にお会いした一日でした。文化的な活動は、、、外国の方とチャンバラ英語で少し会話した、というぐらいでしょうか。

それでは。おやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

今日も横浜。ITやデジタルについた考えた一日でした。お世話になった方や、新たに知り合った方とお話できて、ありがたい一日。積極的にいろいろな方と話すのはとても大切です。技術的に面白い話しもいろいろ聞けました。世界はAIまっさかりで、どうなることやら。

明日も横浜。自宅からは、意外と交通の便はよくありがたい。

それでは。

Miscellaneous

今日は所用で横浜へ。みなとみらいへ来るのは、10年以上ぶりかもです。オフィスとマンションが同居して、海のそばというのはなかなかのものです。

私は、英語について、永遠の勉強を続けてますが、今日は英語も少しは聞いたり話したり。勉強中なので、実用的ではありませんけれど。

今日は、音楽も本も読んでない日。しかし、仕事関連で多くの情報をえましたので、整理して仕事場の方にシェアしておきました。昔と違い、GenAIでまとめられるので、昔よりも早く多くシェアできます。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

今年は辻邦生の生誕100年ということで、日本各地で様々なイベントが比較されています。その中でも今回は松本で開かれている辻邦生展に行ってきました。

仕事を18時に終え、東京駅へ向かい、あずさ49号に乗車。松本には22時少し前に到着しました。あずさ49号は中央線内の安全確認の影響で5分程度の遅れ、東京駅から八王子近辺までは通勤列車の間を飲むように走っており、速度を上げることなく走り続けます。しかし、この区間を特急で乗車したことがなかったため、例えば四谷駅や中野駅を通過列車に乗ると言うのはなかなかない体験でした。

松本には、おそらくは1998年頃に行ったことがあるはずです。当時の記憶はうっすらとあるぐらい。

駅前のホテル1泊。朝7時過ぎに朝食を取り、そのまま、歩いて松本城に向かいました。途中、女鳥羽川をながめ、四柱神社に参拝し松本城へ。

開館前の松本城は光り輝いていました。

辻邦生は、旧制高校時代を松本で過ごしました。短編集「ある生涯の7つの場所」に含まれる「夏の海の色」という短編に出てくる城下町のモデルの一つになったのでは、という話を聞いたことがあります。確かに、作品に登場する「鍛冶町」が松本市にはあったりします。この「夏の海の色」に描かれる城下町は、夏の日差しの中に静かに光り輝く城下町で、主人公が泊まる咲耶の家は葵馬場にあったとされています。帰宅後調べてみると、この葵馬場は、松本に実在しているようで、松本城近く、松本神社の東の方であったとされます。

開智学校へ向かうバスから、この松本神社をたまたま見まして、あ、ここは行かないと、と思い、急遽寄ったのですが、これは何かに呼ばれたかな、と思いました。以下が松本神社。私の印象は淡い朝日の中に静かに佇んでいた感じでした。

城下町の風情は、城の西側によくその雰囲気があったと思います。松本城に行くまでは、「夏の海の色」のことを忘れていたのですが、バスを待っているときにこの風景を見て、あ、ここだったのか、と思ったのでした。そうか、この雰囲気を辻邦生は短編のなかに封じ込めたのかもしれない、と思いました。

辻邦生も見たかもしれない柳の老木があり、ついつい、触ってみたりしました。

今回は秋でしたが、ぜひ夏の盛りの松本を訪れてみたいな、と思います。おそらくは、さらに輝く松本の街並みを見ることができるのではないか、と思います。

続きます。今日はここまで。おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

中公文庫で今年の春に発売されていた「小説を書くということ」

これまで、単行本に未収録だった文章も所収されているということでKindle版を買い、ついでに、軽井沢高原文庫で文庫本にも手を出してしまいました。

そのなかでも、「小説家としての生き方」が割と興味深く、何度か電車のなかで読んでいた感じです。こちらは、「詩と永遠」に収められていた文章なので、かつて読んだはずですが、あらためて勉強になりました。

こう考えてきますと、力強い小説(それは面白い小説とも、昂揚感を与える小説とも攫搏力のある小説とも時代の鏡である小説ともいえるわけですが)を書くためには、小説家の側に全体を鳥瞰(直覚)する視点と、確信できる価値の根拠が必要ですし、また小説形式については「情緒=観念」の伝達という、事実的情報伝達を超えたレヴェルの確認が絶対的な条件になるでしょう。

力強い小説には、

  • 鳥瞰し直覚する視点
  • 価値の根拠
  • 事実を超える情緒と観念の伝達

が必要であると。

しかし、これはなにか、小説に限らず、仕事で力のある企画を作るのにも共通する要素でもあります。全体感のなかで、価値を見出すこと。しかし、そこには、定量的な効果を超えるビジョンがなければ、通る企画も通りません。ナラティブ、ストーリーが企画には大切だ、と言われることもあります。

しかし、ここまで書いておきながらなんですが、小説のそれと、企画のそれは、違うこともあるのです。私は、それは、量感であると思います。チャラチャラした企画資料に、全体を俯瞰したビジョンと物語を組み込むことはできても、それは単なる企画であり、完成品ではありません。そこに、中身がなければ、単なる小手先なわけです。小説は、おそらくは、そこにかけられた時間と文字というものがあります。そこにはロジックだけではなく、あるいはあらすじだけではない量感があります。それが、真の情感を生み出すわけです。

過度な効率化、あるいは本屋に溢れる仕事術、ロジカルシンキングの類は、確かに、そこにある種の解決感を生みます。数多の経営者がそうした企画な飛びついたわけですが、そこに残されたのは、空漠とした社会であった、となります。

小説家は、そこにかけられた時間、まるで、降り積もる時間のなかで、文字を穿ち、たとえ100匹の羊を数えることがあっても、100匹それぞれの羊を書き分けることになるのでしょう。AI時代のこれからは、あるいはこうした文字を穿ち量感を持つ小説が再発見されるかもしれません。

ちょっと長く書いてしまいました。すみません。それではおやすみなさい。

小説を書くということ

Richard Wagner


今週に入り、初心に戻るか、と思い、ヴァーグナー。「トリスタンとイゾルデ」を2枚聴いた。ペーター・シュナイダー、ウェルザー=メスト、そして今は3枚目のバーンスタイン。いずれも好みの演奏で嬉しい限り。

バーンスタインは、もっと遅い演奏と思ったけれど、確かに、冒頭のテンポは緩いが、曲が進むと割とメリハリが効いている。巧いんだなあ、と。

前後するが、ペーター・シュナイダーは、バイロイトのライブで、当時ネットラジオで聴いたものだ。数年後、この演奏を聴いて、なんだか150年間経っても戦争が終わらないことが嘆かわしくなったのを思い出した。確か大阪出張の新幹線の中のことだ。

賛否はともかく芸術はそれ自体真善美と信じることにしているが、まあ、音楽聴いてそんなことを思うのも趣のあることなんだろうし、いくばくかは世界がよくなることに寄与しているのだろう。

もちろん、第二次大戦中の政治利用はカッコに入れて継続考察なのだが。

さらに、夕方からは、Richard Wagner のTristan und Isoldeを、カルロス・クライバーの録音で聴く。

ドレスデン国立歌劇場の名盤。東ドイツ時代なので、国立でよい。州立ではないのだ。録音はルカ教会だったはず。素晴らしいリバーブ。録音は最高。そういえば、荻窪にあったベリオ(だったかな?)というスタジオのリバーブ感は素晴らしかった。


トリスタンはルネ・コロなはず。数多のヘルデンテノールの代表格の方。


指揮の方は、やばいぐらいグルーブしている。芸術は死と隣り合わせ、という感じ。彼岸と繋がらないとこういうのは出てこない気がする。


さて、最近、また、書かないとな、と思うようになりまして、ブログ、Facebookなど、いろいろと。先日は、辻邦生展を見に軽井沢に行きましたので、その辺りも、レポートしてみようかな、と思います。

それでは、おやすみなさい。グーテナハトです。