《死の都》第二回。妄想が膨らみ続けています。
私の大学時代の先輩も見にいらしていて、FBで少しだけやりとりをしました。
そんな中で思ったのは、マリーの挙措自体が男性が作り上げた幻想なんだろうということ。いわゆる永遠の愛を信じる男の身勝手さというものです。
これまでも、オペラにおいて、男によって作られたヒロインたちの姿を見続けました。新国立劇場の今年の演目である《カルメン》も《蝶々夫人}もそうでした。
奔放なカルメンも、貞節な蝶々さんも、永遠に生きるマリーも、華やかで自由なマリエッタも、みんな男が作ったものです。
そこにいくばくかの真実はあるのでしょう。芸術に昇華されたものとも言えるのかもしれません。ですが、どこかにねじれを感じるのです。
そのねじれは、今回のマリー においてまさに現れたのでしょう。
演出意図としては最高で、パウルの描くマリーをよく表現していました。本当に素晴らしい物でした。
ですが、それは男が勝手に作ったものでした。パウルがマリエッタと懇意になると、マリーは顔を覆います。これは、もう、パウル=男の身勝手でしょう。本当にそうなんですかね。パウルの思い上がりではないですか、などと思ったりします。
原作とは異なり、マリエッタですら、パウルの夢の中で勝手に作られたものになっています。まるでサロメのダンスを彷彿とさせるマリエッタのセクシャルな踊りもパウルが作り出したものにすぎません。パウルの妄想です。
それを作り出したのが、パウル・ショットことユリウス・コルンゴルトなのです。ウィーンの法律家にして音楽評論家。体制側にくみした保守的な男が作り上げる女性は、男の欲望や幻想を投影したものに過ぎないと捉えられても仕方がない面もあるような気がするのです。
マリエッタが「これは女の闘い」といいますが、それもパウル=男=ユリウスの幻想ですので、よく考えると滑稽にも思えるのです。
ですが、これには続きがあるはず。ここから先は私の妄想ですが。
今日の仕事はいつもとは違うお仕事でした。刺激的。
ではグーテナハト。
男が創りだした女たち──新国立劇場《死の都》その2