「人生は良いもの」について


よく、肯定語で否定を示唆するというものがあります。字義通りの意味と真の意味が真逆であるというもの(とわたしは理解しています)。ジョージ・オーウェルの「1984」に出てくるダプルスピークにあたるものとも。たとえば、戦争をする国家機関は平和省という名前だったりします。

英語のallegeという単語は、いうという意味とともに、それが疑わしいという語感を持ったものであったり、あるいは、ドイツ語のganz という言葉は、字義通りだと「すごく」という強調の意味ですが、時に、「まあまあ」「そんなに良くない」というニュアンスを持っていたり。

あるいは、30年ほど前に出た、誉め殺し、という言葉も、やはりそうしたダブルスピークのような意味合いを持ちます。

結局、ダブルスピークというものが生じた時点で、全ての言葉は機能停止に陥るわけで、言葉の文脈から、真実を探らなければならず、ダプルスピークであるがゆえに、真実は絶対にわからないわけです。あらゆるテキストは信用できないものになってしまいます。

疑いだしたらキリがないわけで、そこで行き詰まるのですが、多分その先にあるのは、ただ単純な肯定なのかも、と思ったりしています。以前書いた「人生は良いものだ」という認識です。この認識は、おそらくは、人生が良いばかりではないので人生をより良いものにしなければならないということと、人生は良いものではないので、だからこそ、良いものと方法論的に思わなければならない、という二つの意味が込められているように思うのです。辻邦生のいう「戦闘的オプティミズム」もこういうことなのかもしれません。

わたしの知っている方は、自分の会社を本当に愛している、と言います。話をよく聞くと、それは会社にいる時間が最も長い以上、そこを方法論的に肯定するのが最善だ、という、認識あるいは諦念がありました。立派でした。

ダプルスピークもあれば、あるいは本当の悪いこともあるのかもしれませんが、少なくとも、ダブルスピークの疑いがあるうちであれば、字義通り良い意味である可能性もあるわけですから、それはそれでいいそのまま受け取ることが、「人生は良いものである」という方法論的認識においては、有用であると言えます。むしろ自分にとっては最善とも言えるかもしれません。

ダプルスピークを含めてさまざまな仕組みに触れていると、すべてが揺らいでしまうわけですが、不動の大地に足を付けられない以上は、不動の大地であると言い聞かせながら、道なき沼を進むことが大切であると思いました。それが「人生は良いもの」という言葉なのでしょう。

しかし、それすら良きダブルスピークなのか、とも思ったり。トートロジー。しかし、有用なダブルスピークであることは間違いないです。言語の持つ字義と価値の問題。困難。

ではおやすみなさい。グーテナハトです。