Dmitrii Dmitrievich Shostakovich

https://embed.music.apple.com/us/album/shostakovich-symphony-no-8/1452221185?itscg=30200&itsct=music_box_player&ls=1&app=music&mttnsubad=1452221185&theme=dark

2025年も春分に差し掛かりました。

本当に、今年の冬は長かったなという感じです。まだ終わったわけではありませんが。春分というのに、昨日は東京でも雪が降りましたし、今日も夜になると冷え込みが厳しいです。

そういえば、昔、夜中にショスタコーヴィチを聴くといい、というような話を聞いたことがあり、そういえば、最近聴いていないな、ショスタコ、ということで、ハイティンクのショスタコ全集をつまみ食いしている感じです。

いやー、ハイティンクのショスタコ、めちゃいいです。ハイティンクらしいクールな演奏。何か、極度にドロドロした感じもなく、疲れた身体にはこれぐらいがちょうどいいな、と思います。

今日も短く。

Miscellaneous

それにしても、この数年は目の回るような忙しさで、それこれも、ある種自分が招いたことでもあるわけで、やむを得ない部分もありますが、先週、今週と、久々に週末に自分の時間を作って、身の回りの整理整頓をしてみて、何かやっと、色々と落ち着きを取り戻せる予感のようなものを感じつつあります。

差し当たり、自宅の部屋を少し整えて、本に囲まれたところで、作業をするように変えましたが、今のところ、一定Comforableだったりもします。限度はありますが、身の回りを整備して、心を落ち着けるのも、パフォーマンスを上げるためにも、何かを成し遂げるためにも、大切なことかもしれません。

ちょっと色々なものを置いてきてしまった感もあり、全てを取り戻すことはできないような気もしつつ、新しいことも起きるのだろう、と思いながら、年度末に向けて粛々と責務をこなすかな、という感じです。

それでは。

Jazz,JazzVocal

最近の女性ジャズシンガーの歌い方が、昔のそれと変わってきているという話を聞いて、思い出したのが、マレーネ・モーテンセン。デンマークのジャズシンガーで、8年ほど前だったか、ラジオで聞いたのをきっかけに、聞いてきました。

そういえば、最近聞いてないな、と思い、Apple musicで聞いてみましたが、相変わらず、かっこいいすね。声もいいし、スピード感も抜群。マレーネさんもいいのですが、サックスもめちゃいい。こんなアルトを吹いてみたいな、と思いながら、どなたなんだろう、と調べているのですが、検索しても出てきません。GPTも調べきれないようなので、Xで聞いてみてます。さて、どなたかな。。

それでは。

Travel

マイルがじわじわと溜まっていたのと、いつもよりやすくマイルで特典航空券が交換できるタイミングがあったので、週末に沖縄へ行ってきました。

往々にして、飛行機は遅れるものですが、この日もやはり少し遅れて羽田を離陸。ボーイング777(JA752A)でした。1998年に就航した機材のようで、もう26年もANAで飛んでいる機材。老兵。

遠目に富士山が雲上に聳えているのが見えます。さすがに画質は悪い。。

那覇空港の到着ロビーの水槽には、なんと巨大なナポレオンフィッシュが。。驚きました。さすが沖縄。

全く時間がなかったので、那覇市内のビーチはどこにあるかとGPTに聞いたら、この波の上ビーチを教えてもらいました。気温は二十度前後。泳いでいる人もいました。私も水着を持っていたのですが、さすがに泳ぐという発想はなく、失敗しました。泳げばよかった。。

地元の人の立ち話を聞いたところでは、水質は沖縄の中では悪い方なんだとか。沖合に防波堤ができたことで、水質が悪くなったり、珊瑚礁が失われたりしたようです。ただ、関東から来た私たちのようなものには、美しい海水で心癒されました。

ここもやはり多分にもれず、ゴミがかなり打ち上げられていましたので、せめてもの、ということで、ゴミをせっせと拾い、ゴミ箱に入れたりもしてみました。

帰りの飛行機は、ボーイング787。JA825Aでした。こちらは2014年就航ですので、10年選手となります。

旅はできるものならした方が良い、ということのようです。あえて、アウェイな地に身を置くことで学べることもあるでしょうし、日常に囚われずに、長期的なことを考える時間ができるというのも良いです。さて、私もどうしたもんかな。

ということで、今日もクイックにポストしてみました。今時は、InstagramかX、noteに投稿するのがいいんでしょうけれど。

それでは。おやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

いやいや、本当に、書くことから離れてしまう日々が続いていました。本業の仕事に埋没し続ける時間が続いていますので。

この数年、様々なことが動いて、スリリングな毎日でした。

こういう時は、「もう少し落ち着くといいなあ」と思うのが普通の考えなのかもしれませんが、どうも個人的には、こうしたいろんなことが揺れ動く毎日でないと気持ちが落ち着かないようです。

現代はVUCAの時代らしいですが、そういう時代の方が個人的には性に合っているのかもと思います。

ところで、このブログ、前身を含めると、20年ぐらいやっていることになると思います。今時、ブログなんて時代遅れで、XとかNoteなどが主流になったり、あるいは、今時は動画配信が主流になっています。そもそも、文章自体、生成AIが書き始める時代だったりします。時代も大きく変わりました。

個人的には、AIがどんなに進化しようとも、人間が人間として表現することの意味はまだあるような気がしています。人間同士が共感し合える時代である限りはそれが続くと思いますが、今後、AIと人間が共感したり、その境界線がなくなる時代が来ればまた別ですけれど。

時代はどんどん流れるなかで、半世紀ほど生きてしまったわけですが、今後、人生100年と言われる時代になるとして、人生は折り返しということになります。

あと50年も生きるのか、と思うと、気が遠くなりますが、それがそうだとしたら、それは変えられない宿命ということになりますので、その中で、意味のあることができるように、新しいものを積み重ねていくか、と思います。

それでは。

Miscellaneous

https://classical.music.apple.com/jp/album/349368295?l=en-GB

https://amzn.to/4fHX9Wr

ブログというものに出会って20年にもなると、ブログというものも、古色蒼然とした感じもあります。X(Twitter)も少し色褪せた感もあります。何年経っても自己表現というものは、生きていくためには必要不可欠ですが、どうしたもんかな、と思うことしばしばです。

最近は、文章よりも、映像の方が伝わるようですし、生成AIで文章を書くのが効率の良い在り方らしく、生成AIを使わず文章を書いたら怒られることもあるようです。

何となく、長く生きすぎたかな、なんてことを思ってしまいますが、生きるためには、状態を整えなければいけませんので、AIでも、脳外記憶でも、ロボットでも、何でも来ていただかないと、と思います。あと数年で、ヒューマノイドロボットがくるようですので、心の準備も必要ですね。

そんな中で、人間として生きるためにはどうすればいいのか、と。人間にしかできないことはなんだろうか。それは、あらゆる意味で、共感、物語、徳、といった、何か感興のようなものが、普遍的に変わらないものなんだろうな、と思います。おそらくは芸術以外のものは、AIに代替されうるのだと思いますが、人間を対象とする芸術だけは、やはり人間にしか担えないのではと思います。人間は、芸術に、芸術家の生き様を映しながら見ているからだと思います。

近頃、クラシックといえば、アバドをよく聞きますが、言葉では表すことのできない、なにものをも包摂するような柔らかい風情はいつ聴いても変わることはありません。そこには心地よさを感じる、ということもありますが、移ろいゆくものの中に繋留されたブイのような感じも思います。こういう私も、実世界では、AIやデータを調べていますが、そこにポジティブな思いも感じつつも、繋留ブイの必要なことも感じています。生成AIが全てを語り、ヒューマノイドロボットが、街ゆく自動車と同じように、風景の中に溶け込む時代が5年後に来た時に、そこにある動くものと動かないものを見極める眼を養っておく必要があるんだろうな、と思います。

そうか、文学、芸術、宗教といった、これまでは実世界では脇役であった分野が、人間の主戦場になる日はそう遠くないのだろうと思い、そうした日々に向けて備えて行かないとな、と思います。

ということで、皆様、本年は、あまり書けず、すみませんでした。どうか、良いお年をお迎えください。

Tsuji Kunio

このところ、実業に勤しみ過ぎていましたが、この日だけは忘れることはありませんでした。辻邦生生誕99年。来年は、生誕100年を数えることになります。

私が、辻邦生と出会ったのは、1989年のになりますので、爾来35年。

辻邦生には多くのことを学びましたが、その多くは、実生活で役に立つものなのかもしれません。世界に満ち溢れる不合理も、その多くは辻作品の中に書き込まれていて、これは申し述べるべきことではないのかもしれませんが、何か処世術のように、私の心身に沈み込んでいるようにも思います。逆にいうと、辻作品の読書として恥じない生活を送るのも一つの目標になっているようにも思います。

今日は、やはり辻邦生が愛したであろう、マーラーを聞いています。第5番をハイディンクの指揮で。

実業に満たされた毎日の中では、マーラーを聞くことでさえ、贅沢品に思えます。そうです、贅沢でも良いではないか、と思います。Audibleや、Udemyを聞くだけが人生ではないわけです。

人生も、おそらくは折り返した今となっては、生きることと、死ぬことすらも平坦に感じます。その辺りは、「西行花伝」にもあったように思います。生きる意味とは、こうした、音楽を聞き、文学に浸る美的な感興もその一つではないか、と思います。そこには、人の評価もなく、ただただ、ミューズ(美神)との対峙があるだけであり、それが、いわゆる、人との繋がりを前提とする、他の生きがいと異なる、純粋性を保つポイントではないか、と思います。

純正だから良い、というわけではありません。およそ、この世にあるもので、味気のあるものは、雑味もあり、複雑で、純正とは言えないのです。

そんななかで、時に、純正なのは、善なるものといえましょう。正しさではなく、善性でしか語れないもの。それも主観的善性であり、この局面では、普遍的妥当性も客観的必然性も不要で、共感と信頼だけで良いのではないでしょうか。

そんなことを、考えるようになったのも、辻文学に親しむ機会を得たからなのかも、と思います。

個人的には、今日もまた仕事でしたが、昨今、またそれとは違う直感を得る機会もありました今朝も、夜の開ける前に、枕元の窓をあけ、暗暗とした、夜空を眺め、夜空を敷き詰める雲が地上の光を写しとり淡く光るのをみながら、何か、生きるための道程のようなものが見えた気がします。それは、幻かもしれず、思い違いかもしれませんが、おそらくは、この40年思っていたこととも重なるので、ある種真実なのでしょう。

といことで、今日はこの辺りで。感慨深いことは、辻邦生の誕生日やご命日で起きる気もします。次は、何が起きるのやら。これが、啓示だとしたら、ありがたいですし、思いつきでも、それは趣のあることだと思います。

ということで、また。
おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

辻邦生先生のご命日が今年もまいりました。1999年は、25年も前のことになります。四半世紀という言葉は軽くはない言葉になりますね。


何度も反芻する当日の記憶や、雨降りしきるお別れの会記憶は、おそらくは変容していることでしょう。


個人的には、このところ、仕事やら何やらで、時間をとるのが難しいのですが、それでも、折に触れて、辻邦生先生のことを思い出す機会もあり、楽しみでもあります。

先だって、ありがたいことに、米国ボストンに行くことがありました。そこで感じたのは、辻邦生の描く英雄とその挫折、そして再起という物語でした。世界をローマ精神で復興しようとしたユリアヌスにも、米国でITで世界を変えようと奮起奮闘する研究者やエンジニアにも、何か通底する精神があるなあ、と感じました。

しかし、その闘いは、常に敗北に終わります。あらゆる革命は、一度は頓挫することになります。それは、目に見える形で頓挫もしますし、緩慢な頓挫となることもあります。革命のはずが、恐怖政治へといたり、ナポレオンへ至るのは、何か必然なのかもしれません。

IT革命も、幾多もの波をこえて、今に至り、AIという新たな波に乗ろうとしていますが、次は何が起こるのでしょうか。人間らしさの喪失、と言った使い古された批評はもうできないのでしょう。人類という地球にあって革命的な知性のサスティナビリティが問われているのでしょう。遺伝ではなく、知性で進化した人類は、知性という優位性を喪失したとき、そのアイデンティティをどこに求めるのか。私は、それは、文学の中にも、宗教にも、芸術にも通底する、神的なもの、あの、サンドロが追い求めた永遠の桜草のなかにあるのかも、と思います。それは、科学であり、また、宗教でもあるわけですが。

などと思いながら、辻先生のご命日の夜、電車にて、スマホを使い、書いているところです。特にGPTを使うこともなく。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

久方ぶりではありますが、なんだか、幸福な気分になったので、こちらにアップしてみようと思います。

未明にあったパリ五輪の開会式録画を、今朝方見ていたのですが、なんだか素晴らしいなあ、と思いました。雨模様ではありながらも、パリの人たちが協力しながら、五輪を盛り上げている様子は胸を打つものがありました。

そして、何より、スタジアムを使わずセーヌで開会式をやるという、ラディカルな発想。こんな奇抜なことを考えて、実行に写せるのは、個々人がその独自性と思考で存在証明をし、国民自ら自由を勝ち取ったという気概をもつフランスだからこそなんだろうなあ、と思います。

開会式で流れる音楽は、ポップスでありながらも、アメリカのそれとは違い、独特な気品のようなものを感じたりもしました。

雨に打たれながらも、一糸乱さず楽器を吹く親衛隊や、ピアニスト、ダンサー。どの国でやっても、やはりそうだと思いますが、雨に打ちひしがれることなどなく、整然と挙行するのは、人間の強さだなあ、と思いました。

辻邦生がご存命ならもうすぐ99歳となるのですが、この開会式をご覧になった時に、どんなことを思われるのかな、などと思いながら、あの辻邦生が直感を得たポン・デザールが開会式の舞台になっているのを画面の向こうに眺めたりしました。

辻邦生のご命日まであと二日となりましたが、いつものように暑い盛りではありながら、何か辻邦生的にいうと、人間が人間たらしめたものを見たような気がして、爽やかさを感じました。きっと、「春の戴冠」で描かれた、ロレンツォが主催する祝祭も、こんな感じだったのだろうな、などと思いました。

ということで、文章だけのポストではありますが、この辺りで。

Classical

大変ご無沙汰してしまっていますが、無事に過ごしています。時間取れないなか、フォーカスが向かなかった感もありますが、今日は、ふと思ったことをクイックに。

表題の通り、Apple Music Classical はいいかも、です。

アプリの狙いは、クラシック音楽のフィルタリングが多次元であるため、というのは、リリース前から分かっていました。

一つの曲を、作曲家、演奏家、オーケストラ、ホール、録音など、いくつもの要素で聞き分けなければならないからです。

実際に使い始めると、作曲家がFamily nameではなく、First nameでソートされていることに気づき、やる気をなくしてしまったのですが、最近は、全ての作曲家を並べる意味がないことに気づき「多すぎるので)、レコメンドされる作曲家だけで十二分かな、と思うようになりました。

以来、これまで聞いたことのないベートーヴェンの録音など聴くにつれて、これはいいかも、と。

いやー、来れなければ聞かないようなベートーヴェンのピアノソナタとか、めちゃ秀逸だ、という驚きがあったり。

これから、これまで手薄だったピアノ曲をせめて見るかな、なんてことを思ったりしています。

クラシックも聴き尽くした感もありましたが、あと数十年は持つかも。

今日は久々なので、クイックに。

おやすみなさい。グーテナハトです。