Ludwig van Beethoven

今日の午後、小さい子が「エリーゼのために」を弾いているのを聞きました。グランドピアノで弾くそれは、ふくよかな音と、静謐な和声に彩られていて、いいしれぬ幸福を感じたのでした。またさらうには至らないので、たどたど引く弾くその演奏は、楽曲に至りませんが、そこには確かに、ベートーヴェンの和声が現れていて、それだけで、18世紀末の市民革命を待つ時代の空気を感じさるものでした。

というわけで、ベートーヴェンのピアノ曲を聞きたいということで、ポリーニのベートーヴェンソナタ全集を。ポリーニの弾くドイツ音楽は、ドイツの中にあるロマン主義を抽出するように思います。ルター的、あるいは、ホフブロイハウス的な民衆性とは違う静かなドイツ。ヘッセ的なもの。そんな感じです。

さて、夏真っ盛りで、夏が好きな私は幸せですが、夏の終わりを予感し、寂しさを覚えました。暑さのもたらす難しさも多々ありますが、これも地上にいるが故の幸せの一つと思い、夏の日差しや蝉の鳴き声を楽しもうと思います。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

先週末の夕暮れ。三日月から太陽を追いかけながら、地平線に身を投じようとしています。

それにしても、昨日の出来事は、個人的には大変な思いを感じるものでした。このところ、こうした文章を書くことをサボっていたのは否めないので、何か怒られたような気がしたのも事実です。辻邦生は、「ピアニストがピアノを弾くように文章を書く」と書いています。私も、かつては、書評誌に書評を書いたこともあったなあ、と遠い記憶を感じたりもします。何度も書きましたが、高校時代に、ワープロを入手し、時を忘れて文章を書いた時のことが思い出されます。最近は、生成AIが清書してくれますので、仕事のレポートも、粗々のメモを役員用のメモにして、と生成AIにお願いして作ってもらっています。とはいえ、生身の人間が、自分自身で書くということもしばらくは廃れないでしょう。これは、手書きかワープロか、と、人間が書いたか生成AIが書いたかは、本質的に違うと思いますので。素人が仕事を語ると、それがたとえ正しそうであっても、うまくいくことはないように思います。人間は、事物の向こう側の文脈や物語を見ています。生成AIには、それがありません。それは、いくらロボットが超絶技巧の演奏をしたとしても、生身の人間の演奏と同じ感動をもたらさないことと似ているでしょう。

ともかく、いくら生成AIを活用しても、仕事は増えるわけで、それは、コンピュータが発達したことで、かえって仕事が増えたのと同じなので、驚かないわけですが(あるいは、数年後には本当に人間の仕事がなくなる、という危機感は増すばかりですが)、そんなわけで文学作品を読む余力はなく、仕事に関連する文章を読んでいる気がします。

そんななかでも、素晴らしい本は、五百旗頭真先生の「日米戦争と戦後日本」という本。いかに、終戦に至ったのか、が、米国側の視点で描かれていて、大変感動したのです。終戦がなったのは、米国側の知日派の並々ならぬ戦いがあったわけで、その知日派の方々と親交を深めた日本の政治家や軍人の長きにわたる努力があったということ。そして、早期講和に繋がった米国の厭戦を導いたのが、賛否もありますが、戦った方々の想いであったのでは、ということでした。

仕事に、直接関係あろうがなかろうが、視野を広げて、多くの人と繋がっておくこと、そして、最後まで無駄だと思わずにやり切ることは大切なことですが、そんな当たり前ですがなかなかできないことをあらためて教えてくれてのがこの本だったと思います。もちろん、それは、仕事に限ったことではなく、あらゆる場面で同じだと思いました。

それにしても、国際政治史は興味深いです。辻邦生の「春の戴冠」も「ユリアヌス」も「嵯峨野明月記」も、いわば国際政治小説とも言えます。こうした知見は、仕事においてもよく役立つものです。

暑い夏の最中に、80年前の今日、まさに、ワシントンと東京でギリギリの判断をしていたのを思うと、いまの日本の発展にありがたさを感じるばかりです。

それでは。長々とすみません。ここまで、27分でした。

おやすみなさい。

Miscellaneous

今日、7月29日、この一年、私たちを楽しませてくれた金魚が亡くなりました。

生命が失われるのを見るのは、いつでも辛いことですが、あのとき、こうしてあげればよかったのでは、などの後悔もあるのは否めず、何か寂寥とした思いに囚われています。

奇しくも、今日は辻邦生の26回目の命日でした。1999年のあの日を私は忘れないでしょう。そして、こんな日に、小さな命が消えたのも何かの縁でしょうか。

最近は、何をもなしえぬまま、俗世の仕事にまみれる日々で、何かしら咀嚼しえぬ思いも抱えながら日々過ごしている感覚があります。

あの金魚を喪ったことは、なにかを私に伝えるものではなかったか、とも思うのです。数ヶ月に渡って、本調子ではなかったあの金魚が、数ヶ月耐えに耐え、よりによって、辻邦生の御命日に逝ってしまうとは、偶然の所産とは思えないのです。

あの子が回復したら、新しい水槽に五色の砂利を敷き詰め、清らかな水を注ぎ、また、ゆっくりとした生活を送らせてやりたい、と思っていたのに、今日この日に逝ってしまうとは。

あらゆる生き物はいつかはこの世を去りますが、そこには何かしら意味があります。彼、あるいは彼女は、こうして何かを伝えて旅立ったということは、そこに意味があるわけで、そこに意味を見出すのが、生きている我々の努めなのでしょう。

私は、今日のこのことで、なにか、通底するさだめがあるのだと思いました。それは、人智を越えた何かで、語ることの許されないものなのだと思います。

実際、こうして、意味を見出した、といって、私自身が心の整理をつけようとしていること自体が、何か利己的で弁解がましいものなのかもしれません。それは否めない。ですので、この瞬間は、感謝と謝罪を繰り返すことしかできず、時が経つにつれ、世界全体がそれを理解し赦し、一つの平穏な世界へと回帰していくことになるのでしょう。

世界は波であり円環ですので。

ともかく、暑い日が続きます。みなさまもどうかお身体にお気をつけてお過ごしください。

おやすみなさい。

Miscellaneous

徒然なる日々が続いています。

最近、糖質制限を、初めて見ました。忙しすぎて、なんとか体調を上向きに、という意図で、ついでに、アルコールも控え気味に。

始めたのが、先月、4/24から。なるべく白米含めて、炭水化物は取らず、肉、野菜、果物を、取る感じ。

変わったことといえば、朝、ちゃんと起きられるようになったことかも。ゴールデンウィーク中も、割と早めに起きられまして、これはもしかして、いい方向なのか?とも。体重ももちろん減るわけで…。

一日一度は白米を食べても良いようなのですが、食べると眠気がひどいので、それもやめてしまいました。最近は、コンビニでチキンが売ってますので、白米抜きでも全く問題ないです。

パスタや海鮮丼などは食べられないのが残念ですが、しばらくは、続けてみるかな、と思います。

今日は差し当たり。。

Book,Classical

昨日、久々に、池袋のジュンク堂に行って、いつものように、9階にエレベータで上がり、一階ずつ降りて行きながら、さまざまなジャンルの本を渉猟するということをやりましたが、冒頭の9階で見つけたのが、クラウディオ・アバドの伝記とも言えるこの本で、何を聞くにもアバドに戻ってきてしまう私は、早速と買ってしまったのでした。最初に、ベルリンフィル退任界隈の章をざっと読みましたが、なるほど、そういう形でベルリンフィルをやめ、ルツェルンの仕事を進め、スカラ座で振ったりしていたのか、と、舞台裏を見るような感じでした。芸術性と人間性は必ずしも一致しないこともあるのかも知れませんが、描かれるアバドの姿は、西欧の規範である真・善・美からなる美しい均衡が感じられるものだと思います。音楽は人生のとって大切なものの一つ。このウェブログは長く辻邦生の文学について考えてきましたが、辻邦生のいう「美が世界を支える」というのは、これは本当に真実なのではないか、と思っているのですが、ほんの帯に書かれたアバドの言葉もまた、真実である、と確信するものだと思います。久しくこうした思いに身を寄せる機会を喪っていましたが、時代がどんどんと変わる中にあっては、こうした世界の根源を目指すことに力を入れないといけない時期なのかも知れないと思います。

それではまた。おやすみなさい。グーテナハトです。

Dmitrii Dmitrievich Shostakovich

https://embed.music.apple.com/us/album/shostakovich-symphony-no-8/1452221185?itscg=30200&itsct=music_box_player&ls=1&app=music&mttnsubad=1452221185&theme=dark

2025年も春分に差し掛かりました。

本当に、今年の冬は長かったなという感じです。まだ終わったわけではありませんが。春分というのに、昨日は東京でも雪が降りましたし、今日も夜になると冷え込みが厳しいです。

そういえば、昔、夜中にショスタコーヴィチを聴くといい、というような話を聞いたことがあり、そういえば、最近聴いていないな、ショスタコ、ということで、ハイティンクのショスタコ全集をつまみ食いしている感じです。

いやー、ハイティンクのショスタコ、めちゃいいです。ハイティンクらしいクールな演奏。何か、極度にドロドロした感じもなく、疲れた身体にはこれぐらいがちょうどいいな、と思います。

今日も短く。

Miscellaneous

それにしても、この数年は目の回るような忙しさで、それこれも、ある種自分が招いたことでもあるわけで、やむを得ない部分もありますが、先週、今週と、久々に週末に自分の時間を作って、身の回りの整理整頓をしてみて、何かやっと、色々と落ち着きを取り戻せる予感のようなものを感じつつあります。

差し当たり、自宅の部屋を少し整えて、本に囲まれたところで、作業をするように変えましたが、今のところ、一定Comforableだったりもします。限度はありますが、身の回りを整備して、心を落ち着けるのも、パフォーマンスを上げるためにも、何かを成し遂げるためにも、大切なことかもしれません。

ちょっと色々なものを置いてきてしまった感もあり、全てを取り戻すことはできないような気もしつつ、新しいことも起きるのだろう、と思いながら、年度末に向けて粛々と責務をこなすかな、という感じです。

それでは。

Jazz,JazzVocal

最近の女性ジャズシンガーの歌い方が、昔のそれと変わってきているという話を聞いて、思い出したのが、マレーネ・モーテンセン。デンマークのジャズシンガーで、8年ほど前だったか、ラジオで聞いたのをきっかけに、聞いてきました。

そういえば、最近聞いてないな、と思い、Apple musicで聞いてみましたが、相変わらず、かっこいいすね。声もいいし、スピード感も抜群。マレーネさんもいいのですが、サックスもめちゃいい。こんなアルトを吹いてみたいな、と思いながら、どなたなんだろう、と調べているのですが、検索しても出てきません。GPTも調べきれないようなので、Xで聞いてみてます。さて、どなたかな。。

それでは。

Travel

マイルがじわじわと溜まっていたのと、いつもよりやすくマイルで特典航空券が交換できるタイミングがあったので、週末に沖縄へ行ってきました。

往々にして、飛行機は遅れるものですが、この日もやはり少し遅れて羽田を離陸。ボーイング777(JA752A)でした。1998年に就航した機材のようで、もう26年もANAで飛んでいる機材。老兵。

遠目に富士山が雲上に聳えているのが見えます。さすがに画質は悪い。。

那覇空港の到着ロビーの水槽には、なんと巨大なナポレオンフィッシュが。。驚きました。さすが沖縄。

全く時間がなかったので、那覇市内のビーチはどこにあるかとGPTに聞いたら、この波の上ビーチを教えてもらいました。気温は二十度前後。泳いでいる人もいました。私も水着を持っていたのですが、さすがに泳ぐという発想はなく、失敗しました。泳げばよかった。。

地元の人の立ち話を聞いたところでは、水質は沖縄の中では悪い方なんだとか。沖合に防波堤ができたことで、水質が悪くなったり、珊瑚礁が失われたりしたようです。ただ、関東から来た私たちのようなものには、美しい海水で心癒されました。

ここもやはり多分にもれず、ゴミがかなり打ち上げられていましたので、せめてもの、ということで、ゴミをせっせと拾い、ゴミ箱に入れたりもしてみました。

帰りの飛行機は、ボーイング787。JA825Aでした。こちらは2014年就航ですので、10年選手となります。

旅はできるものならした方が良い、ということのようです。あえて、アウェイな地に身を置くことで学べることもあるでしょうし、日常に囚われずに、長期的なことを考える時間ができるというのも良いです。さて、私もどうしたもんかな。

ということで、今日もクイックにポストしてみました。今時は、InstagramかX、noteに投稿するのがいいんでしょうけれど。

それでは。おやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

いやいや、本当に、書くことから離れてしまう日々が続いていました。本業の仕事に埋没し続ける時間が続いていますので。

この数年、様々なことが動いて、スリリングな毎日でした。

こういう時は、「もう少し落ち着くといいなあ」と思うのが普通の考えなのかもしれませんが、どうも個人的には、こうしたいろんなことが揺れ動く毎日でないと気持ちが落ち着かないようです。

現代はVUCAの時代らしいですが、そういう時代の方が個人的には性に合っているのかもと思います。

ところで、このブログ、前身を含めると、20年ぐらいやっていることになると思います。今時、ブログなんて時代遅れで、XとかNoteなどが主流になったり、あるいは、今時は動画配信が主流になっています。そもそも、文章自体、生成AIが書き始める時代だったりします。時代も大きく変わりました。

個人的には、AIがどんなに進化しようとも、人間が人間として表現することの意味はまだあるような気がしています。人間同士が共感し合える時代である限りはそれが続くと思いますが、今後、AIと人間が共感したり、その境界線がなくなる時代が来ればまた別ですけれど。

時代はどんどん流れるなかで、半世紀ほど生きてしまったわけですが、今後、人生100年と言われる時代になるとして、人生は折り返しということになります。

あと50年も生きるのか、と思うと、気が遠くなりますが、それがそうだとしたら、それは変えられない宿命ということになりますので、その中で、意味のあることができるように、新しいものを積み重ねていくか、と思います。

それでは。