Tsuji Kunio

わけあって早めに仕事を終えて、都内某所で待ち合わせ中です。少し時間が出来ましたので、久々に書き物ができるという幸せ。

それにしても今年の冬は体調を崩し続けました。

  • 10月の頭に風邪をひいて、声がかれるぐらいになりました。
  • 11月の後半に急性扁桃炎で入院寸前になり、引き続き薬疹が発生してしばらく寝たきりになりました。
  • 12月の終わりにまた扁桃炎になりました。
  • 1月の終わりに胃腸炎で発熱に
  • 2月のはじめからずっと風邪が治らず、咳が治まらず、とうとう血痰が現れ、本日医者に言ったところ、気管支炎でした。

いや、本当に何だかなあ、と言う感じです。急性扁桃炎にかかってからは、毎日うがいを欠かさず、寝室には加湿器を増設し、喉の痛みが出たら、早めにイソジンで対処し葛根湯を飲む、と対策を取っているのですが、2月の風邪にはまったくききませんでした。ま、いろいろ限界なんだろうな、と思う今日この頃です。まだ人生は続きますので、少し自分をいたわらないと。

さて、辻先生の言葉から。

君はぼくの性癖に気がついたことだろう、都会へ着くとすぐ、高い塔に上るという……。(中略)ぼくは何かを認識する場合、まずその全体を直覚する必要をかんじるのだ。つまり塔に上って、頂上から、都会の全体と周辺の風景を一望のうちに入れる。

(中略)

大切なのは、全体を、閉じた円環のように、まず持つことだ。

「黄金の時刻の滴り」のなかで、辻先生がゲーテに語らせている言葉です。

記憶では、「小説への序章」の中で、世界認識はまずは全体で把捉する、という考え方が提示されていました。小説を書く場合、なにか小説の世界全体をとらえて、そこから小説を書き続けていく、というようなテーゼでした。

帰納法的に、世界の個々のものすべてを捉えて、世界認識を構築するという方法は、人間には不可能です。「嵯峨野明月記」のなかで、狩野光徳という画家が登場します。彼は世界のすべてを描ききろうとして失敗します。

この「黄金の時刻の滴り」でもやはり、ゲーテに語らせるかたちで「具体的知識を加算しただけではもう追いつけるしろものではなくなっていた」という考えが出てきます。

このあたりの考え、辻先生の三つの原体験のうち「一輪の薔薇はすべての薔薇」という話に通じるのではないか、と思います。「言葉の箱」から引用すると、

一輪の薔薇のなかにはすべての薔薇が顔を出している。あるいは、薔薇の全歴史、全存在がたった一輪の薔薇のなかにもある。それはあたかも芸術作品の運命を象徴しているようだと、ぼく自身感じたのです。

という部分です。

小説世界の認識も、世界への認識も、なにか個々の認識から、全体の認識へと飛躍するという構造が語られています。以前も書いたかも知れませんが、これがどうにも哲学的な考えで、質料の差違が突如形式の差違へと変化する、という話を彷彿とさせるわけです。この考えは、私が若い頃読んだ西田幾多郎の「善の研究」で読んだものです。あるいは「善の研究」のなかで語られるベルグソンのエラン・ビタールの類いです(ただしいあるべきベルクソン解釈かどうかはわかりません)。

なにか、通常の認識行為が突然質的な変貌をとげるような瞬間。なにか悟りのような瞬間。キリスト教的に言うと神の啓示が来るような瞬間。そういう世界認識の瞬間を語っているように思います。それは、日常のなかに埋没して、単純無色の生活を送っているだけではダメで、そこになにか驚きのようなものであるとか、ゲーテの言葉でいうと「塔の上にのぼる」というパースペクティブを変える行為が必要なのだ、と言うことです。

とにかく、平板な無感動な生活は、きっと恩寵に満ちた人生にとっては、問題のあることなんだと思います。つねに感動を持ちながら生きられると良いのですが、と思いますし、そのための努力もしないと、と考えました。体調が悪ければ、抜本的な対策を考えないと、というのもその文脈でとらえると、まあ私もさまざま考えないといけないな、と思います。

今日の東京地方は雨です。久々の冷たい雨に思います。今日で2月も終わり。明日から3月。変化の季節が訪れます。

それではみなさま、おやすみなさい。