先日の大阪行き、いつものように弾丸出張ですので、朝の新幹線に乗ってお昼前までに大阪へ移動しました。車内ではずっと端末を叩いていましたが、静岡か愛知あたりでしょうか、ふと窓の外に目をやると、梅でしょうか、桃色の花が咲いているのを見つけたのです。
スマホを窓の外に向けてタイミングを見計らったのですが、とれたのは傾いた写真だけ。左側に花をつけた枝がかすか見えます。SNSでは見事な早咲きの桜の写真なども観られますが、私にとっては車窓を流れる花が今年初めての春の兆しでした。
昨年もそうでしたが、なにか冬が永遠に続くような感覚があって、いったいいつまで続くのか、と、その始まりを想定することすらしていないような状況のなかで、ふと春の兆しを見つけたときに、あれ?という驚き、つまり意外なものをみたという感覚がありました。ああ、今年も春が来るのか、という驚きの感覚で、継ぎに来たのがホッとしたような安堵の感覚でした。それは春が来て寒い冬が終わるのだ、という安堵ではなく、今年も無事に季節が回ってくれるのだ、という感覚でした。地球が無事に太陽の周りを公転してくれているという安堵でした。
さらには、そうした天地の摂理が変わらず維持されていることへの感謝のような気持ちさえ感じました。よくぞ、地球を保ち続けてくれている、という感じです。
昨年あるいは一昨年に、天体としての地球の行く末について書かれた本を読みました。太陽の膨張による環境の変化は必ず起きますので、今の地球が未来永劫存在すると言うことは天文学的にはあり得ません。いつかは環境が変わるはずです。そうした中で、いまここにおいて人間が生きられる環境があると言うこと自体が、恩寵的な側面を持っている、と感じたのです。人間が生きられる環境が保持されているのは奇跡的なことです。
昨年は、オオイヌノフグリを見て春の訪れを感じて、同じような安堵を覚えました。今年もまた春の訪れを感じ、この春の訪れを毎回毎回愛おしむことが、生きると言うことです。それは春の訪れでもあり、夏の訪れでもあり、秋の訪れでもあり、冬の訪れでもあります。
日本における時間概念は四季のサイクルによって意味づけられています。四季を楽しむことこそ、人生を着実に歩むということ、あるいは充実した生をかたちづくることです。他の気候帯には、また別の時間概念があるのでしょうが、これは四季がはっきりしたのある温帯地方にある日本文化圏における人生なのだなあ、と思いました。
来週で2月は終わり。もう3月ですか。なんとなく、2月の立春よりも、3月に入った方が春になったという気分になります。ことしも良い春が来るといいな、と思います。
それではおやすみなさい。グーテナハトです。