令和の時代に

新しい時代になりました。令和、と言うその時代の名前に、期待と希望を感じるのは、あるいは感じたいというのは、みな同じだと思います。

令和の「令」

今朝は、4時ごろ目が覚めました。風邪をひいたらしく、喉の痛みがひどく、寝付けなくなりました。やむなく起き上がり、あいにくの曇り空ではありましたが、白々と明ける令和の朝日を感じながら、オンラインで新聞を読んでいたところ、朝日新聞に令和の考案者とされる中西進さんのインタビュー記事が載っていました。

「議論しても、たぶん令和が一番いい」中西氏が語る元号

辞書を引くと、令とは善のことだと書いてあります。つまり、令の原義は善です。そこから派生して、文脈ごとに様々な別の使い方が前に出てくる。人を敬う文脈では『令嬢、令息』にもなるし、よいことを他人にさせようとすれば『命令』にもなります

(朝日新聞 4月20日「「議論しても、たぶん令和が一番いい」中西氏が語る元号」より)

令和の令と言う文字。この文字の解釈が世間では議論になっていたように思います。命令を想起させるからです。しかし、この記事の中で、中西進さんは、この令と言う事は善と言う意味があると言うふうにいます。命令と言うのは善であることを命ずると言う意味だと言います。この解釈は新鮮でした。

実際に、漢和辞典を調べてみると、

1)神のお告げや、上位者の言いつけ。清らかなお告げの意味を含む

2)起きて、お達し

3)よい(よし)。清らかで美しい

4)おさ(長)

5)遊び事の決まり

6)命令する

と続いていきます。

(「漢字源」より抜粋)

どれが主な意味になるのか。それはおそらくこの「令」と言う漢字が使われた歴史的な背景にまで踏み込まなければ真のところわからないでしょう。漢和辞典をさっと読んだだけでは理解することはできず、碩学の方にだけわかることなのでしょう。

学問の奥深さ

昨日、キルケゴールの本を読みましたが、おそらく1冊読んだだけでは全貌がわからないと言うことが私にはわかっていて、徒労感のようなものを感じました。すでに、哲学書を読むことの空しさのようなものです。数冊読んだだけでは、理解すること、語ることはあたわないのです。おそらくこの「令」と言う漢字について研究し述べることも、同じような労力を要するはずです。

学問の世界は深く広く、常人には想像すらできないものです。その一筋縄ではいかない厳しさを知っているだけに、簡単に結論を下したり、一つの学説や一冊の本にとらわれることの危険性はわかっていいます。といって、何も述べられないと言うことの虚しさもわかっています。このバランスをとりながら、どうやって自らの意見を発信していくか、ということが問われます。

さしあたり、「令和」の「令」は、万葉集での使われ方は中西進さんによれば、「うるわしい」と言う意味のようです。素直に、この典拠従って、この「令」と言う漢字をを麗しいという意味に捉えるのがよさそうです。

終わりに

それにしても、人間と言うものは不思議なものです。時代が変わった、と言うだけで何かに突き動かされるように、ことにチャレンジしていこうとするですから。枠組みであるとか、文化であるとか、言葉であるとか、そうしたものが人間世界におよぼす作用の力強さを改めて感じました。

今日は東京地方も予報が曇りだったにもかかわらず、午前中には日差しが差し込み、新しい時代の初日にふさわしい天気になりました。令和が良い時代になることを願い、私もやれることをやらなければ、と思いました。

冒頭の写真は、先週撮った八重桜。ことほぐには絶好の美しさです。

それでは、みなさまおやすみなさい。