生命の流れとは──辻邦生『桜の国へ そして桜の国から』
生命の流れとは、この胸を突き上げてくる大きな歓びであった。ただ地上に生きてあること──そのことがすでに酔うような歓びであった。桜は自らもその歓びに酔いしれながら咲き誇っていた。
生きるための仕事(それはそれで困ったことに面白いのですが)に精一杯な状況に追い込まれ、それはあと数年は続くのだろうなあ、という予想を抱きながら、週末はただひたすら営業日の疲れを癒やすためにハイバーネーションに勤しんでいるのですが、日曜日の夜になるとようやく時間ができる感じです。
サイトウキネンオーケストラのブラームスを聴きながら、1993年3月に読んだ辻邦生の『神々の愛でし海』の納められた短篇『桜の国へ そして桜の国から』を読みました。
100の短篇の最後(実際にはエピローグの一つ前)を飾るにふさわしい美しさを湛えた短篇で、おそらくは10年ぶりぐらいに読んだのですが、目頭が熱くなる思いを抱きました。
日本も西欧もおなじものである、という感覚。それは、日本のおける戦時中の思想弾圧も、フランス中世の宗教弾圧や近世革命の殺戮も、やはり同じ人間のなすべきものであるし、あるいは料亭の庭や建物の美しさも、フランスのレストランのギャルソンの芸術的挙措もやはり、同じ人間のなすべきもの。日本だけが、とか、西欧だから、とか、実際はそういう区別はないのではないか、という感覚。
そして、年老いた母と、自らの子を宿したフランス人の妻が二人で歩く姿をみて、こう語り、100の短篇は幕を閉じるわけです。
母たちがつねに永遠なるものに向かって行き、そして永遠なるものから来る人であるのを私はその時ほど強く信じたことはなかったのだから。
永遠なるもの。それは人間一人一人の一生であり、人類という我々の種の永遠性でもあります。人類はこれからどうなるのか、そういうことを考えながら、なにか答えのない現代への抗いのようなものを感じながら短篇の余韻に浸っています。
また、明日から生きるための仕事にもどります。
おやすみなさい。グーテナハトです。
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