辻邦生の聴いたワーグナー

2021-01-03

今日も聴いているニーベルングの指環。「神々の黄昏」まで到達しました。丹念に訳文と照らしながら聴くと言うことはせず、いろいろなことをやりながら、お風呂の中にも持ち込んだりして聴いていますが、それにしてもすごいパワーだなあ、と感じます。
ちょうど、辻邦生の文章を探していたときに、「美神との饗宴の森で」を開いたところ、本当にたまたま辻邦生がニーベルングの指環について語っている小論に行き当たりました。「ワルキューレの陶酔」という小論です。
こういう一節がありました。

こうしてワーグナーは結末の「死と救済のモティーフ」をより強く響かすために、物語を発端へ、さらにその起源と遡らせて、ついに『ラインの黄金』から作曲を始めることになったのだ。(中略)トーマス・マンはこうした創作方法を劇よりも叙事詩に近いものと見ている。事実、彼の長編「ブッデンブローク家の人々』の構想の仕方と『指輪』のそれは奇妙によく似ている。

「ワルキューレの陶酔」 「美神との饗宴の森」174ページ 

今日、なぜ「美神との饗宴の森」を手に取ったかというと、辻邦生の言葉で「真の客観は主観を突き詰めた先にある」といった趣旨があったことを思い出し、その言葉を読んだのがちょうど昨年の夏頃で、メモをとっておらず、さて、どこに書いてあったかな、本を探していたから、です。

知られているように、ワーグナーは、元々は「神々の黄昏」をジークフリートの死をクライマックスに据えて構想し、その前史を作る形で、「ジークフリート」、「ワルキューレ」、「ラインの黄金」と構想を進めていったのです。この話を読んで、私は「小説への序章」の最終場面で語られていたことを思い出したのでした、つまり、物語主体とは、未来までも過去に属せしめる主体であり、あらゆる未来に先駆けて未来である主体である、という文脈です。経時的に語られていくストーリーではなく、論理関係が形作られるプロットとしての物語であり、論理関係とは、論理においては一瞬で波及するものであるがゆえに、未来と過去が共存する物語総体となりうる。「空間的にも時間的にも窮極的な「終り」を包み込む物語主体が、相互主観性を根拠づける意味の実態」となる、と。辻邦生全集第15巻 162ページ近辺の議論です。

さらに、この引用部部をよむと、なにかニーベルングの指環のことを語っているように思えてきます。

小説こそは「嘆き」の徹底からうまれてくる時間の窮極的な「反転」によって現前する「祝祭としての時間」である。小説は読者にかかる時間のもつ積極的な効果通し「物語的形態」という全一的な同体感を与える装置によって時代の達成した、眼に見えない本質の生を生活させるところに、より本源的な役割をもつ。

辻邦生全集第15巻 164ページ

このあたりの、主観と客観、過去と未来、言葉と存在、といった二元的要素を、普通の感覚とは逆転させるというテーマが、辻邦生の思想の多くにあるように思います。昨日の引用もやはりそうです。パルテノン体験にも、こうしたテーマが隠れています。

あけましておめでとうございます

この反転の構図を整理しながら、それをどうやって物事と結びつけるかが、今年のテーマだなあ、と思います。
時間切れですね。。今日はこのあたりで。よい週末の夜をお過ごしください。
おやすみなさい。グーテナハトです。