Apple Music

はじめに

ニュースを見ていたらワクワクするニュースが出ていました、

Apple Music、ドルビーアトモスによる空間オーディオを発表、さらにカタログ全体がロスレスオーディオに

https://www.apple.com/jp/newsroom/2021/05/apple-music-announces-spatial-audio-and-lossless-audio/

新しいものが好きな私にとってはワクワクするニュースです。Apple Music のヘビーユーザ?としていろいろ思うことがあり、久々に少し書いてみようと思いました。

Apple Musicを振り返る

Apple Musicができてから何年たったでしょうか。このブログでも何度か取り上げました。

私にとっては本当に革命的なプロダクトで、音楽生活が充実するとともに、これまでの音楽生活との決定的な断絶を感じ、さまざま考えてきた感があります。

https://museum.projectmnh.com/category/apple-music

Apple MusicはTowerを倒すのか、という4連続の記事を書いていました。

今読むと面白いです。昔の自分は半分他人です。よく書いたもんだ。。これを読むと2015年7月からApple Musicを使い始めたことになるようです。6年しか経っていないのか、という感もあります。もっと昔から使っている感覚がありますので。

Apple Musicなどのサブスクリプション型音楽サービスで決定的になったことは、音楽のコモディティ化といった問題もさることながら、音楽を聴いていないことへの言い訳ができなくなった、ということです。結局聴く気があれば音楽はいつでもどこでも聴けるわけです。そうした状態において、とある演奏を聴いていないということは、単純に人生の中で優先度を下げた、ということにしかなりません。かつては、CDを持っていないとか、お金がない、といた言い訳がありましたが、そうした言い訳はなくなっていますのです。そうすると、音楽鑑賞という行為は、写真と同じような選択芸術になってしまうわけです。いま、ここに居合わせて、何を聴くか、という選択が全てを決定するということです。自由というのは責任を伴いますが、音楽を聴くという行為も、やはり選択の責任が問われるものとなり、その責任は、自分の音楽人生を左右するものとなり得るわけです。

あるいは、Apple Musicを聴く人間は、おそらくはCDを買うことはないでしょう。そうなると、Apple Musicにない音楽は存在しない音楽となってしまいます。Amazonで買えない本は存在しない。Apple Musicに存在しない音楽は存在しない。そういう時代が来ている気もします。SpotifyでもAmazon Musicでもおなじことです。プラットフォーマのヘゲモニーに支配される音楽というものは、もちろん利点もあるのでしょうけれど、なにか「1984」的な危うさも感じるのです。

Apple Musicが変わる

で、前置きが長いですが、そのApple Musicの音質が変わるというニュースが入ってきました。

ドルビーアトモスは、空間オーディオ。どうやら、Air PodsやBeatsといった、Apple 純正のヘッドホン・イヤホンで空間オーディオが有効になるようです。

そして、ロスレスオーディオ。これはおそらくはあまねく利用ユーザー全体に音質向上という恩恵をもたらすものになるはずです。

前者について言うと、BOSE信者の私もついついAirPodsのページでさまざま調べてしまいました。そういえば、最近は会社の人達のほとんどがAirPodsでWeb会議に臨んでいるような印象もあり、私も買おうかな、という物欲のささやきに一瞬とらわれそうになりました。ダークサイドにはまるところで、オビワンに助けられた感があります。おそらくは、純正ヘッドホン・イヤホンの売上向上につながるのでしょう。

一方で、ロスレスオーディオ。いままでよりぼもビットレートが上がりますので、外で愉しむためには、パケット通信量が増えることになります。私は古いタイプの契約で、一月7GBですので、そろそろ20GBのプランに変更することを検討しなければならなくなります。古いガラケーのメールアドレスは捨てることになりそうです。

ともかく、音質がかわれば、心がかわります。確かに、どんなに良いヘッドフォンを使っても、AppleMuiscの音には限界を感じることがあるのも事実です。音の厚みや実体感というものは、少なからずフラストを感じることがありますので。そうした事案が改善するとすれば、ありがたいことには違いありません。しかも追加コストがないのですから。

あらためて音楽を考える

それにしても、音楽も文学もそうですが、こうやって徐々にコモディティ化して行ってしまうことへの不安は感じるわけです。恩恵を感じながらも、そこにある種の危険や不安を感じてしまうということです。それは、もしかすると記憶のせいなのでしょう。加齢による記憶です。18世紀の人間は、まだ分業されていなかった17世紀を懐かしむという話を辻邦生のエッセイで読んだことがあります。昔の方がよかったという考えは、善し悪しあるのでしょうけれど、経験を積んだ人間にとっては、それが悪しである前提にたつぐらいがちょうど良いのかもしれないです。昔の方が良かったというバイアスのほうが強いでしょうから。そうだとして、こうしていつでもどこでもなんでも聴ける音楽が、高度化し、コモディティ化していく、という事実を捉えたときに、消費者として、あるいは芸術の享受者として、あるいは自身が音楽を作る担い手となるとして、そのそれぞれの観点において受け止め方が違うと言うこともいえます。

消費者としては、コンテンツの値段が明らかにさがり、質が上がるわけで良いことづくめでしょうが、それが芸術的に受け止められるのかというと、ベンヤミン的な観点で、アウラを喪った音楽の価値が下がってしまうと言うこともいえますし、担い手となるとすれば、これまでよりも広いマーケットで勝負できる機会を得ることでもあり、逆にコモディティ化することにより収益が下がってしまうと言うことになるわけです。

神のための音楽が、王侯貴族のための音楽となり、市民革命の原動力になるまでの力を持ち、その後は資本主義の中で商品として高度化していった音楽があふれかえり、通貨価値が下がるようにインフレーションを起こしている状態で、おそらくはそうした音楽を語る場も膨大なものとなり、音楽についての言説の一つ一つの価値も失われている状態ということなのでしょう。神のための音楽が、コインで買える時代にあって、音楽、もう少し踏み込むと同じくインフレーションを起こして居るであろう文学も同じですが、そうした芸術的所産がどうやって人間あるいは人類を支える力をもてるのか、と言う課題なのだと思います。

(この芸術的所産が人間を支えると言うテーゼはもちろん辻邦生に依るものでここでは一種の公理系としてみているわけですが)

芸術は人間や人類をより善く支えるものである、という立場において、音楽がコモディティ化している現状をどう捉えるべきか。一人でどうこうできるわけではないとしても、どう考えてなにをすべきか。

結論がでるぐらいなら、すでに何かしらおきているわけで、一つの課題として捉えて、生きていくしかない、と言うことになります。

おわりに

といいながら聴いていたのは昨日とおなじく、ブラームス交響曲第4番。第二楽章はしびれます。久々に3000字書いてしまいました。まだまだですが、物量を書けば徐々に感覚も戻ってくるでしょうか。

東京地方もそろそろ梅雨のようです。どうかお身体にお気をつけてお過ごしください。おやすみなさい。グーテナハトです。