虚無を超えて──マーラー交響曲第10番を聞いて

2021-08-18

7月に入り途端に環境が変わり忙しさに拍車がかかりましたが、なにかその忙しさに慣れつつある今日この頃という感じです。

文章を「まるでピアニストが書くように」書く、ということを、尊敬する辻邦生先生はおっしゃっていますが、まあ、辻先生ほど出ないにせよ、書くことはライフワークですので、諦めずに書かないといかんな、と思います。

このところ、なにか生きると言うことに虚しさを感じ、それは多分、あまりに忙しさにあって、音楽を聴いても何か砂を噛むような、なんともいえない手応えのなさがあったのですが、今、この瞬間において、なにか虚しさがすっと遠ざかった、と感じました。もちろん虚しさは何度も何度も波のように押し寄せるものですが、そのときに掴むものや立つところがあれば、波に押し流されずに済むものです。生きると言うことは、そうした掴むものと立つところを探し、手に入れるという営為である、と思います。かつては、なにか幸福という空気を息継ぎをするようにすっている感覚というものがありましたが、それと同じなんでしょう。なぜ、このような虚しさを一瞬でも遠ざかったと感じたのか。それはやはり音楽であって、ラトルの振るマーラー交響曲第10番を聞いたからでした。昨年の冬はアバドが振るブラームス交響曲第1番に支えられるように生きてきた感があり、なにかあのオプティミズムに彩られた感覚が素晴らしく感じたのでした。しかし、それもなにか昨今の感覚とは折り合わず、いくらアバドのブラームスを聴いても、虚しさを洗い流すには至らなかったのでした。

そんななかで、Apple Musicが自動で生成するプレイリストを何気なくクリックして流れてきたのが、ラトルが振るマーラー交響曲第10番クック版の第二楽章でした。あまりにフィットする感覚はなんでしょうか。不協和音と転調に彩られた複雑で美しく雑然とした軽快な曲調は、なにか現在の混濁した虚しさに寄り添うもののように感じたのでした。クックにより補遺された第二楽章以降は、未完成でありながらも生きたマーラーの心理的苦悩が詰め込まれた感覚がするのです。その心理的苦悩はやはり虚無だったのではないか、と想像したりしています。

災害が起こり、戦争が起こる中にあって、虚無について考えるのは贅沢なのかもしれませんが、人間というのは常に苦悩に浸るものなのでしょう。それは、おそらくは所有が一つの原因であり、所有とは、財産や家族友人だけではなく、過去の記憶や未来の想像をも含むものではないか、と想像しています。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。