辻邦生はこの「言葉の箱」の中で、自分の想像力が産んだイマージュが、言葉の箱の中に入れられていけば、必ず力強いものが産まれる、ということを言っています。
確かに、辻文学の持つ物語の力はとてつもないものですし、辻文学に限らず、例えば、私にとっては、ハインラインやアーサー・C・クラークの作品群の持つ物語の力は、大きなものに感じます。しかし、それを初めて感じたのはいつだろう、と記憶を呼び起こすと、それはおそらく何かの折に見た、「カナの婚礼」の絵だったと思います。
パオロ・ヴェロネーゼ, パブリック・ドメイン, リンクによる
これもどこかで書いたことがあったのかもしれませんが、この絵を見るまでは、絵に描かれていることは作りものに過ぎない、と考えていたわけです。ところが、この作品を見た途端に、おそらくはこの風景は現実にあったのだ、という直観をえたのでした。その現実とは、言葉としては当時別の言葉を当てはめていて、真実在とか、そういう言葉を使っていたようにおもいますし、今でも現実と言う言葉よりも真実在と言う言葉のほうがしっくりきます。
この生き生きとしたリアルな筆致は、そこにそれとして屹立しているものであり、作りものとか、創作物とか、そういった言葉が当てはまらないように思えたものでした。
これもやはり、文字ではなく絵画によってなされたイマージュの力ではないか、と今になって思うわけです。それはいわゆる素朴な現実世界と等価以上のものであって、現実世界との差異はあくまで量的差異でしかないのではないか、とも思うわけです。この絵画をじっと眺めていると、その世界の中に引き込まれていき、素朴な現実世界よりも、ありありとリアルな質感をもって迫ってくる感もあるわけです。
これは、もう、言葉をいくら重ねても伝わる者ではないわけですが、辻邦生はこれを伝えるということにおいて文学にその意義を見いだしたのではないか、ということを今更のように感じています。
「僕が死んでしまうと、だれもそのなかに入って知ることはできない」「僕が死んでしまったら、もうこの地上から消えてしまう。そういう者を書き残すのも文学の一つの大事なしごとではないか」と辻邦生が述べているわけで、それが、イマージュと同じ質感を物語という形式で遺すことの意義になる、と言うことに感じています。それが、茫漠としたたったひとりで巨大な球体の中央に存在する自分という虚無と孤独を克服することに繋がると言うことなのでしょうか、と言ったことも考えつつ…。
しかし、この発想、そういえば四半世紀ほど前に、飲み屋で知人に語ったような記憶もあり進歩してないなあ、という気もしますが、そのときは方法論としての物語のことだけであって、伝えるべき巨大な球体としての世界をイマージュとして物語形式に落とし込むという文学の意義までは分からんかったなあ、と思う次第です。