Tsuji Kunio

ぼく自信が世界を包み込んでいる、ぼくが世界を所有している、いままでぼくは世界に包まれていた存在だったわけですけれども、今度はぼくが大きな絵にでもなって、大きな球体にでもなって、地球をスッポリ包んでしまったような逆転した関係が生まれてしまった。

辻邦生「言葉の箱」新潮文庫、25ページ

先だっても書いたこの部分。

今日もやはりこの球体のことを考えていました。というより、自分の最近の世界認識を「球体」と喩えて考えていて、あらためて一ヶ月前に書いた文章を見直したら、やはり辻邦生も球体と言っていることに驚き、潜在的にこの「大きな球体」と言う言葉が自分の中にしみこんでいたと言うことに気づいたところです。

どうも、この世界、というのは空間的な世界にとどまらず、時間的な世界をも指しているのではないか、と思うわけです。辻邦生的に言うと、「僕のパリ」には、ローマ時代のパリから、ブルボン朝のパリ、革命のパリ、そして20世紀のパリ、全てが含まれていて、あるいは、未来のパリをも含んでいるわけです。そして「地球」を包み込んでいるということは、パリだけでなく、東京もニューヨークもヨハネスブルグも(航空会社の宣伝のようですが)含むものであり、あるいは、地球から離れ、太陽系であったり、銀河、あるいは宇宙全体をも含む物になり得るわけです。パリも東京も銀河も、そこに量的な差異があるだけで、質的な差異はありません。

そういう意味で言うと、辻邦生の言うイマージュというもの、これは私の認識では、小説世界において我々の素朴な現実と同じぐらい確固とした質感のあるありありとした世界名分けですが、このイマージュすらも、現実の世界と等価となり、この私の「大きな球体」の中に含まれるわけです。記憶も想像もイマージュという観点では全て等価であり、ただ、いま個々にある認識主体において瞬間瞬間においてリニアに生じる「場」としての世界だけが唯一のよりどころであり、その「場」が中心にあるあまりに巨大な球体が、私というものではないか、と感じるわけです。

なんだか、今、この文章を書いていると、これは、誤解を恐れずに言うと、学生時代に囓り読んだ西田幾多郎の純粋経験ではないか、とも感じてしまいます。もちろん学生時代の記憶があったからこその発想ではあるのですが。

巨大な私という球体に、私は茫漠という表現を当てはめたくなるのです。つかみ所がないが、しかしそれでもそれは私であり宇宙であるというもの。そこに区切り意味を作ることで初めて茫漠を乗り越えられるという感覚。西田的に言うと主客分離というものでしょうか。

この考えは、辻邦生が「詩と永遠」で語る境地<開かれた自己>にも似た感覚なのですが、私はそこにポジティブな感覚をどうしても得られず、しかし、これがいつかひっくり返り、ポジティブな感覚へと転化するのではないか、という感覚も持っています。