つれづれ
先日とった夕暮れの風景。
暮れなずむときです。空に誰かが文字を書いたような巻雲が。みなさまならなんとよむでしょうか。
時間はつくるものなんだよ、という言葉をよく聞きますが、まあ、時間は創るものなのでしょう。文章を書くということも、やはり時間を創る中で可能なことです。
美しさを表現するのが芸術の仕事だと思いますが、さまざまなメディアで芸術表現をしようとした時に、さて、文章の場合はどのように表現するべきなのかな、ということをこの風景を見ながら考えてしまいました。そうした議論はもはやされ尽くした感はあるのでしょうけれど、あらためて自ら考えてみたとすると、文章そのものの美しさと、文章が表すものの美しさがあるのでしょう。それを、表現の美しさと意味の美しさとしてとらえてみて、例えば詩的表現は前者であろうし、文章自体が伝える風景や行為の美しさは後者に当たるでしょう。
文章で伝えられないことはないという信念を持つ、ということを辻邦生は述べていたと記憶していますが、鈴木大拙を読んでいると、文章で表現できないこともあるわけでもあり、ただ、自分の世界を他者に伝えるというチャレンジをするという観点で、文章表現に意味があるのでしょう。
そもそも、個の世界と他の世界は全く違うわけで、それが、辻邦生が感じた、私が世界を包み込む、という感覚だったと思います。パリの芸術橋で、パリの風景そのものが自分に属するものであると感じたというあの逸話のことなのですが、私も同じインプレッションを数年前に得たことがあり、しかしそれは実に孤独に満ちた厳しい感覚で、広大で狭い宇宙に一人閉じ込められている感覚をも持ったものでした。
辻邦生は、私の世界を伝えるという欲求があるから文章を書くのだ、ということを述べています。
ぼくの世界で、ぼくが死んでしまうと、だれものそのなかに入って知ることはできない。だから、この世界をだれかほかの人に伝えるためには、その感じ方、色彩、雰囲気を正確に書かないと、ぼくが死んでしまったら、もうこの地上から消えてしまう。そういうものを書き残すのも文学の一つの大事な仕事なのではないか。
辻邦生「言葉の箱」
文章において、「私」が感じた美的感興を、表現美と意味美において書き続けるということ。それが、芸術としての文章の在り方なのでしょう。
しかし、そのためには、美的感興を捉えることがあり、あるいはそれは美である以上、普遍的なものにつながっている必要があります。それを論理と説明で行うことはできないはずで(これは直感的感覚で今後取り組まなければならないことではあるのですが)、文章の論理性説明性を矛盾するところの普遍性を表現するということに、文章表現の難しさがあるということなのだと思います。それは、何かキリスト教で言うところの受肉という言葉を思い起こすほどの困難さを感じます。
などと考えながら、過ごしている最近でございます。。
それでは。。
ディスカッション
貴方がコラムを連載されている事を知り私以上に辻邦生に心酔しておられる姿に感動です。「小説への序章」のあらゆる文献を調べハイデッカー選集は完読しました。ただ大学教師にならなかったのは湯川秀樹先生の「現代における学問の悲劇」の提言です。あらゆる分野の学問研究が分散化され、しかも莫大な資料と情報の処理に振り回されて人間総体の課題が見えない。40年続けた研究の円熟した人格的味わいが雑事に追われて生まれにくい。辻邦生の高貴な芸術世界の小説は、この世に浄土を体現しています。何か貴方と同じような生活形態です。唯一やり残した事は堀江敏幸先生から「小説を書きなさい」の提案です。私は岐阜在住です。貴方と切磋琢磨したいです
宮田さま、
ありがとうございます。昨日のコメントも大変嬉しく拝読いたしました。
高貴な芸術世界がこの世の浄土、とは、さもありなむ、と存じます。私も、角倉与一ほどではないにしても、現世と辻文学を往還しながらこの半生を過ごしていた感があります。「小説を書きなさい」とは、まさに天啓のような言葉です。小説は学問とは異なり、「終末」から書くもので、学問とは異なる営みで、悲劇からの転回を,なしうるものなのかもしれない、とコメントをいただき思いました。私は東京に在住ですが、切磋琢磨、まさにそれ、と思いました。コメントに感謝いたします。本当にありがとうございます。