すっかり夏ですね。木々の葉の色も濃い緑色に変わってきました。
今日から夏休み(的なもの)に入りました。今回は、自宅で家事などをしつつ、本を読んだり、環境を整えようと思います。旅行などに行ければいいのですが、今回は見送り。近場の古い町並みを見るぐらいにしようかなあ、と。
今日もApple Musicのことを。
歴史のプロセス
それにしても、これは音楽の歴史が変わる過程の一つなのでしょう。
ナップスターや、iTunesストアなどのストリーミングへの移行は、コンサートからレコードへ、レコードからCDへ、という媒体の変化の一つとして捉えられると思いますが、従量制ストリーミングから、定額制ストリーミングの移行は、音楽とのつきあいかたが変わるという意味において、一つの転回です。
これまでは、金銭を対価に選んだ音楽が、金銭とかかわりなく選べることになるのですから。そうした時代はあったでしょうか? 18世紀の王侯貴族以降はなかったでしょう。
こうした、選択の自由は何をもたらすのかといえば、音楽の希少性が失われるのではないかということでしょう。これも、古い音楽家達がよく言っていることですが、音楽がますます消費される対象となる、ということです。
このなんでも聴けてしまう、という事態は、音楽の希少性が剥がれていくことになるのでしょう。
あの、ありがたく買いに行ったCDが、いまや検索窓から探せばなんでも聴けてしまうというわけなのです。
ここで「音楽の希少性」ということを言ってしまう自体がこの音楽がある種の宗教性を持っている、という臆見に基づくものなのでしょうか。あるいは、「芸術」というジャンル全体のもつある種の「希少性」、「ありがたみ」が変質してきているということなのでしょうか。
(この希少性を「アウラ」と言っていいものなのか、悩んでいます)
19世紀ロマン派以降、音楽はある種の宗教であった、ということを、岡田暁生さんが「西欧音楽の歴史」のなかで指摘していました。
私は、大学で新カント派哲学の一端に振れましたが、そこで語られていたのは、ロマン派的真善美だったように思います。その事自体、教授に笑われましたが。いまや、音楽の中の宗教性や精神性といったものよりも、別のものに音楽は変わりつつあるのでしょうか。
音楽の自由。あるいは音楽のコモディティ化
もしかすると、それは音楽が大衆に戻ってくるということなのかもしれないと思いました。
19世紀から20世紀にかけては、ヴィルトーゾや大スターの時代でした。音楽というものに近づくことは難しく、演奏者は神であり、コンサートは宗教儀式であり、CDを買うことはお布施にも近いものでした。(極端ですが)
ですが、テクノロジーの発達で、音楽というものへの敷居が下がっているということなのでしょう。
プロのミュージシャンの音楽をApple Musicで廉価に聴くことができる。
あるいは、自分もガレージバンドなどのDAWで手軽に音楽を作ることができる。仲間と時間と努力で、バンドを組んでライブステージを行うことができるという時代です。
音楽が選ばれた人のものではない時代なのでしょう。
この状態を「音楽の自由化」と言うと聞こえはいいですが、一方で「音楽のコモディティ化」という言葉が浮かんできてしまうのです。
だれでもどこでも聴ける音楽。ファーストフードかコンビニエンスストアのように。
そうだとすると、ますます音楽の作り手がいなくなってしまうのではないか。音楽の質はどうなってしまうのか、などなど考えてしまうのです。
それでは、みなさまおやすみなさい。グーテナハト。