Alban Berg

ルルとは?

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「ルル」とは、ベルクの超問題作にして未完のオペラの名前です。ルルというのは、主人公の女性の名前で、オペラ界きっての魔性の女です。幾人もの男をたぶらかしては死に追いやるのですが、それは彼女の必然に基づくものであり善悪の判定をされていない。単純な二元論では割り切れない混沌と非論理の世界が描かれています。
音楽的には十二音音楽が導入されています。シェーンベルクが十二音音楽によって数値理論化してしまった旋律作成の方法論に、今一度調性による抒情性を復活させています。
ルル組曲の中で、ソプラノによって歌われるルルのアリアもそうした十二音音楽の音列に基づいて書かれています。旋律の前半には調性感があえて残されていて、その調性感が後半儚く消え去るあたりがカッコイイのです。

未完オペラ「ルル」の完成

オペラ「ルル」は未完成でしたが、ベルクによって「ルル」の各部分から材料をとって、ルル組曲(あるいはルル交響曲とも呼ばれることがある)としてまとめられ、オペラの完成に先立って発表されたのでした。
ちなみに、ベルクの直接の死因は敗血症(マーラーと一緒)ですが、その根本原因は単なる虫刺されです。虫に刺された腫瘍から細菌が血液に入り死に至ったというわけです。(本当にそうなんでしょうか?、と思うことがあります)
オペラの「ルル」は第二幕まで完成していて、第三幕は一部完成していましたが、スケッチなどが残されているました。やろうと思えば、「トゥーランドット」のようにあとから加筆修正すればそうそう時間がかかることなく完成していたと思われるのですが、ベルクの奥さんのヘレーネは、それを絶対に許しませんでした。
ちなみに、へレーネは、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の隠し子と言われています。これも1980年代になって明らかになりました。以下は半年前に書いた記事です。
“ベルク夫人の父親は誰?":https://museum.projectmnh.com/2011/04/20232908.php
だからかどうか分かりませんが、ヘレーネは気位の高い女性だったとか。
実は、この曲を作曲していた当時、ベルクはハンナ・フックスという別の女性と不倫関係にありました。ヘレーネはおそらくはこうした事情を察していて、「ルル」の第三幕の台本を嫌っていたのだそうです。がゆえに、完全版完成を拒んだのではないかと言われています。
ところがです。実は、ヘレーネに伏せられたまま「ルル」の加筆は進んでいました。版権を持っていたウニヴェルザール社が、作曲家フリードリヒ・ツェルハに資料を渡しており、内密にその完成版の制作を依頼していたのでした。
ヘレーネが亡くなったのは1976年ですが、1974年にはツェルハによる加筆は終わっていました。そして、1979年、パリのオペラ座でピエール・ブーレーズの指揮により、完全版の世界初演となったのでした。(だから、日フィル12月サントリー定期の会のテーマは「パリ」と言うことになるわけです)

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新国立劇場のルル

ルルは、日本でも何度か上演されています。二期会によっても10年ほど前に初演されていますが、記憶に新しいのは新国立劇場の2004年2005年シーズンで計画されていた「ルル」の上演です。私もチケットを買っていたのですが、会社の同僚の結婚式に出席せねばならず、あきらめたのでした。
このとき、本来なら三幕完全版で演奏されるはずでしたが、様々な事情があったらしく、オペラとしての演奏は第二幕で打ちきりとなり、第三幕はこのルル組曲から該当する部分を演奏して、代替とする、という事件がありました。詳しくはあえて書きませんが、ネット上ではいろいろな議論があったと思います。
私にとってはこうした様々な不思議なエピソードが絡み合った「ルル」が、本当に興味深くてならないのです。

Alban Berg,Opera

!https://lh3.googleusercontent.com/_iAlI3j9lUJw/TcZKMH2Yi-I/AAAAAAAAFHU/e4Pg_sC0dwU/s400/_MG_0948.jpg!
近所のツツジ。昨日のものです。初夏の太陽が西から差し込んでいて、夏がぐんと近付いて来た感じ。空気は湿り気を帯びてどんより重く、水蒸気の乱反射で遠くのものが透き通るように白く見えます。
!https://lh6.googleusercontent.com/_iAlI3j9lUJw/TcfmY5HHRHI/AAAAAAAAFH0/MIveqvDLE-g/s400/_MG_0949.jpg!
こちらは、おそらくは高度1万フィート以上をとんでいるであろうANAのボーイング777。冬の時分はもっとくっきりと見えるのですが、思った以上に白くなっている。まるで空を飛ぶシラスのよう。
今日は、とある多摩方面の会社事業所に行きました。ここに来るのは9年ぶりぐらいですが、意外とあたりの様子は変わっておらず、懐かしい感じでした。通り道の酒屋で地ビールを売っていたので購入しました。これは友人へのお土産にする予定。
ということで、移動時間がいくらかあったので、「コジ・ファン・トゥッテ」の予習。
それから、最近買ったiPod touchで、2009年11月に新国立劇場で上演された「ヴォツェック」の映像をみたとたんに火がついてしまい、結局ケーゲルの振る「ヴォツェック」を移動時間に聞き終えてしまいました。鋭利な刃物のような演奏。グサグサなにかに刺されている気分。だが、ワクワクする。耽美的なところもあれば、マーラーのようなシニカルなところもある。ショスタコーヴィチのような光のコントラストを感じるところもある。このはちゃめちゃなところが嬉しい。これぞ大人のたのしみだなあ。
* 指揮:ヘルベルト・ケーゲル
* ヴォツェック:テオ・アダム
* マリー:ギゼラ・シュレーター
* 大尉:ホルスト・ヒースターマン
* 医者:コンラート・ルップフ
* ライプツィヒ放送交響楽団
* ライプツィヒ放送合唱団
* ドレスデン少年合唱団
* 1973年4月9日 ライプツィヒコングレスホール
参考ですが、こちらが新国立劇場での一場面。第一幕第二場で、史上もっとも美しいと思われるマリーのアリアのところ。
* あまりに美しさに息をのむ。
* かえってそれを失うことへの不安から心がかき乱される。
* ゆえに、強烈な不安感が胸に差し込み、
* なぜか、それでいて快感を感じる。
* したがって、心をあちこちに引っ張られる。
こんなアリアはあまり聴いたことがないなあ。勉強します。
!https://lh3.googleusercontent.com/_iAlI3j9lUJw/TcflyoQ9OtI/AAAAAAAAFHw/gwKG4_qKrio/s400/WS001093.JPG!
今、英語の勉強で、ヴォツェックについての英作文を作っているところですが、やっとベルクが戦争に行くところまで行きました。ここで戦争体験とからめて、ヴォツェック成立までのことを書こうと思っていますが、日本語で書くのも難しいので、ちと難儀中です。
相変わらず音楽を語れない。岡田暁生氏「音楽の聴き方」を読んで、ちょっといろいろと思うところあり。もっと修行が必要だなあ。頑張ろう。

Alban Berg


このネタは、有名な話で、きっとご存知の方が多いと思いますが、興味深いので書いてみます。
いまから25年前の、1986年8月17日、イギリスのオブザーバー紙に掲載されたエピソードです。
どうやら、アルバン・ベルク夫人であるヘレーネ・ベルクは、オーストリア皇帝フレンツ・ヨーゼフの庶子なのではないか、という説があるのだそうです。ヘレーネの母親はアンナと言いますが、どうやら、1875年5月8日に、公園を散歩中のフランツ・ヨーゼフと出会い、皇帝の心を奪ったらしいのです。それも、アンナは、どうやらフランツ・ヨーゼフと出会うために、わざわざ皇帝の散歩の時間を見計らっていたのだとか。アンナは当時15歳。したたかすぎます。今時の女子高生と同じです。
私は、「失われた時を求めて」で主人公がゲルマント夫人と出会えるようにわざと散歩をしていた、というエピソードを思い出しました。アンナはどうやら「ゲルマントの方」への鍵を手に入れたようです。
フランツ・ヨーゼフの皇后は、19世紀末の欧州の王族の中で最も美しいとまで言われたエリザベートですが、エリザベートはウィーン宮廷の雰囲気になじめず、旅に出ることが多かったようです。皇帝は皇后を愛していましたが、皇后は留守がちであったそうです。が故に、皇帝は愛人を囲った、あるいは囲えたのでしょうか。
アンナは皇帝との間に二人の子供をもうけました。一人はヘレーネ、もう一人は、皇帝と同じ名前を持つフランツ・ヨーゼフ。アンナは、皇帝の計らいで、フランツ・ナホヴスキーという男と結婚しますが、これも皇帝の計らいでフランツはガリシアへの長期出張を強いられたのだとか。
結局、愛人を作るような男は、飽きっぽいと見えて、皇帝は別の女性に惚れてしまい、アンナとの関係を清算することになります。
アンナと皇帝の娘とされるヘレーネ、はアルバン・ベルクと結ばれることになりますが、もう一人の庶子であるフランツ・ヨーゼフはどうなったか? 彼は、フランツ・ヨーゼフ皇帝の生誕100周年式典で、皇帝の棺に自分の切断した小指を置くという行為に走り、精神病院に収容されてしまいます。
この「ヘレーネ・ナホヴスキー・ベルクはフランツ・ヨーゼフ皇帝の庶子である」という事実は、フォルカー・シェルリースによる「アルバン・ベルク──生涯と作品──」(1985)の邦訳に付け加えられた宮川尚理氏による「追記」において、「皇帝の私生児であることがほぼ確認されている」(245ページ)と言及されており、また日本アルバン・ベルク教会により1986年に出版されたベルク年報(1986)においても、オブザーバー紙のハードコピーとともに掲載されています(92ページ)。
私は、アルバン・ベルクの音楽も大好きですが、それ以上に、彼の人生を巡る数々の妖しく不思議な挿話にも興味をそそられます。ベルクの陰惨で妖艶で怜悧な音楽を聴く度に、なにか不安な気分になり、それがまたなにかしらの快感を覚えずには居られないのは、こうしたベルクにまつわる挿話があるから。
これらの挿話は、至る所で取り上げられていますが、折を見てこの場で紹介したいと思います。
※ 画像は、シェーンベルクにより描かれたヘレーネ・ベルク。

Alban Berg,Opera


プティボンのルル。こればかりは逃せませんので、気をつけていたのですが、なんとか録音することが出来ました。
それで、もうなんというか、凄くて。何が凄いかって、プティボンのパワーと妖しさの前にひれ伏す感じ。
私的には、シェーファーのルルがデフォルトだったのですが、もしかしたらある意味超えているかも。確かに、第一幕は少し押さえている感はあるのですが、第一幕の後半から第二幕にいたると、叫びとも歌とも何とも言えない激情的でドラマティックなプティボンらしい歌で、なんとも酔いしれておりました。
ルル組曲に採用されている聞き慣れた旋律をバックにして歌うあたりはすごいのなんのって。アルヴァ役のピフカ氏と一緒に最高点まで上り詰めていく感じ。凄いです。
ルル、本当に奥深い。もっと聴かないとなあ。
明日は、午後、所用で出張するので、電車の中でくりかえしたんまり聴けるはず。楽しみはまだ続く。くたばってはおられない。
Mit Patricia Petibon (Lulu), Tanja Ariane Baumgartner (Gräfin Geschwitz), Pavol Breslik (Der Maler), Michael Volle (Dr. Schön), Franz Grundheber (Schigolch), Thomas Piffka (Alwa) u. a.; Wiener Philharmoniker, Dirigent: Marc Albrecht (aufgenommen am 1. August in der Felsenreitschule im Rahmen der Salzburger Festspiele 2010)

Alban Berg

http://www.salzburgerfestspiele.at/oper2010/
JTBのパンフレットを見ていたら、見つけました。ルル、歌うんですね。ラジオで録音を流してもらえると良いのですが。
Marc Albrecht, Conductor
Vera Nemirova, Stage Director
Performers: *Patricia Petibon* , Tanja Ariane Baumgartner, Cora Burggraaf, Pavol Breslik, Michael Volle, Thomas Piffka, Franz Grundheber, Thomas J. Mayer, Heinz Zednik, Andreas Conrad, Martin Tzonev, Emilie Pictet, Cornelia Wulkopf, Astrid Hofer, Simon Schnorr
Vienna Philharmonic

Alban Berg,Chamber

 アクシデントはなかなか収束しない。ウチの組織に属する某課長が「仕事というのはどれだけ他人にボールを持たせるかなのだ」と滔々と語っているのだが、 現場組織から来た男は「仕事というのは、三遊間に飛んできたボールを以下に拾うか、なのだ」と言っている。はて、どちらが正解? どちらも正解? 少なくとも今は後者に従っているけれど、自分のポジションに飛んできた球を落としそうになっている予感。そろそろスタンスを前者に変えようかなあ。

人の記憶は余りに儚い。っつうか、どうとちころんで、ショルティのばらの騎士でキリ・テ・カナワが歌っている、という記憶になったのでしょうか。クレスピンじゃないですか。申し訳ありません。間違いました。

いつもお世話になっている「さまよえるクラヲタ人」さん。いつも素晴らしい記事で、勉強しております。新国の「ヴォツェック」のレポート、素晴らしくて、私も思い起こしながら読んでいた次第。この数日、ベルクを取り上げておられまして、私も刺激されてベルクを聴いています。

抒情組曲。この曲は元々は弦楽四重奏のために作曲された曲。念のために書き添えると、もともとはツェムリンスキーに捧げられていて、曲名の「抒情」は、ツェムリンスキーの「抒情交響曲」から引用されています。これも有名な話しですが、ベルクは当時ハンナ・フックスという女性と不倫関係にありました。ハンナ・フックスは、アルマ・マーラーがマーラーの死後に再婚したフランツ・ヴェルフェルという文学者の姉に当たる人で、プラハ訪れたときに知り合った仲でした。

この、ハンナ・フックスとベルクの間に交わされた書簡が刊行されておりまして、英語版ですが私も購入しました。当たり障りのない挨拶が、急に深刻で切々とした愛の告白に変わってしまうという恐ろしさを味わいました。もっとちゃんと読まないといけないのですが。

wikiに載っていた第一楽章の音列ですが以下の感じ。冒頭のファンファーレ的なフレーズのコード進行と合致しているのがわかります。最初の音は、Fで、最後の音はHです。つまり、これはハンナ・フックスの頭文字と一致するわけです。

この音列、最初がハ長調で調性的で、後半はかなり外れてきます。こういうセンス、実は僕にとってはなじみ深くて、結構ジャズジャイアント、特にマイケル・ブレッカーなんかだと、こういう感じで調性から無調への飛躍をうまく取り入れておられると思います。

 

 →こちらで聞けますよ。Lyrische Suite_1.mid

ルルの音列も、調性と和を結んだ十二音音楽ですので、美しいのに実は十二音だったという籠絡のされ方が気持ちよいわけですね。

この曲、1年前ほどに、何十回と繰り返し聞いていたのですが、何度聞いても新鮮です。今日も昼休みはずっと抒情組曲。何度聞いても飽きがこない。それだけ僕には難しいのですが。。

 

 

Alban Berg,Opera

行って参りました。新国立劇場のベルク「ヴォツェック」公演。スマートで格好良く、刺激と毒に満ちあふれ、片時もよそ見や上の空を許さない濃密なパフォーマンスでした。全三幕十五場を約100分のあいだ、ぐるぐるとヴォツェック世界のなかで振り回され、駆け回され、最後に一人舞台に取り残された子供の姿を見て思わず涙が出てしまうといった案配でした。なんでこんなに面白くて興味深いのでしょう。

水の張られた黒々とした舞台。立方体の部屋が上下し、場面によってはゆらゆらと揺られていて、劇中人物の不安定さを表しているようにも思えます。水に倒れ込んだり、ジャガイモや金にむらがる黒服の男達の姿はドブネズミかゴキブリのよう。黒服の男達は黒子のように舞台の上を動き回り、ヴォツェックにナイフを渡したり、倒れたマリーを舞台外に運び出したり、楽団を背中に乗せて現れたり、と言う感じ。

アップライトピアノが水面を滑るように現れるのには驚くばかり。水面の反射が舞台上に波紋を映し出したり、ナイフの反射光がヴォツェックを舐め回ったりと、光の効果も秀逸すぎる。クリーゲンブルク氏のセンスは抜群で、僕のツボにがっちりはまってくる感じでした。未知なものなのに見知ったもののように思える瞬間が不思議すぎます。抽象画を観るスリリングな感じと、調性を外れながらも美しさを保っている不安定で安定した音楽、両者の融合が産み出したキメラ的美と恐怖、といったところでしょうか。

実に重々しく堂堂たるヴォツェックのトーマス・ヨハネス・マイヤーですが、第一場の"Jawohl, Herr Hauptmann"と歌った途端にすげーとうなってしまう。演技も歌も素晴らしいマリーは、ウルズラ・ヘッセ・フォン・デン・シュタイネンでして、終始安定した歌唱で、低めの倍音を吹くんだ豊かなメゾソプラノで僕の好みの声。ビブラートもそんなにきつくない感じです。鼓手長のエンドリク・ヴォトリッヒは少々遠慮がちかしら。昨シーズンの新国「ワルキューレ」でジークムントを歌ったときのほうが調子が良かったかも。大尉のフォルカー・フォーゲルは、第一場ではちょっと抑え気味でしたが、その後は安定的。医者役の妻屋秀和さんですが、もうこの方なしには新国の舞台は成り立たないのではないか、と思うぐらい新国登場回数が多い方です。歌も演技も凄く良かったです。声の質がいつもより少し硬質に聞こえました。

ヘンヒェンの指揮は、私が聴いたどのヴォツェックの演奏(アバド、バレンボイム、ケーゲル、メッツマハーだけですが)よりもテンポを落とす場面があって新鮮でした。マリーを殺害した跡のB音(H音?)のロングトーンの破壊力はすさまじかったですし、最終場へ向けた間奏曲の高揚感と不条理感にも心揺れる思い。世の中、現実、社会の冷徹さ。東フィルは、最初の方はムラがあったような気がしましたが、進むにつれて気にならなくなる感じでした。

カーテンコールでは、当然ですが水の張られた舞台に歌手達が登場するわけですが、指揮者のヘンヒェン氏は、長靴を履いて出てきました。ちょっと面白いです。

最近、仕事でトラブル多発でして、仕事が入るかも、と行けるかどうか危ぶんでいたのですが、何とか観ることが出来まして本当に感謝感激でした。

舞台がはけてホワイエに出ると、次期芸術監督の尾高忠明さんのお姿がありました。意外に小柄に見えてびっくりしました。

次は、明後日に二期会の「カプリッチョ」を聴きます。こんなにオペラ通いしてもいいのでしょうか。

Alban Berg,Opera

いよいよ今週末に迫ったヴォツェックですが、予習中であります。昨日はバレンボイム盤、今日はケーゲル盤です。
昨日、かみさんと懐かしい話をしました。そもそもヴォツェックを初めて聴いたのは大学を卒業したからでした。きっかけはかみさんが大学で、ヴォツェックの原作となったビュヒナーの「ヴォイツェック 」を読んでいたからでした。昨日、そういえば原作を読んだことがないなあ、と思って、邦訳を探したのですが、見当たらない。図書館にもアマゾンにもない感じです。かみさんに聞くと、当時から邦訳がなくて、ドイツ語で読んだのだそうです。まあ、そういう事情もあってかみさんからこの曲を教えて貰った感じでした。
当時はブラームスやシューマンの室内楽ばかり聞いていたのですが、このヴォツェックの第一幕第三場のマリーが歌う子守唄のこの世離れした妖しい美しさに卒倒したものです。

今聴いているケーゲル盤ですが、録音がいい感じです。若干SN比が高めですが、音のコントラストがくっきりしていて聞きやすいです。演奏のほうもケーゲルらしい鋭く研がれたガラス細工のようなかんじで、純粋すぎてかえって畏れを抱かないといけない気分です。レコメンドです。そういえばこのCDはドレスデンの免税レコード屋で買ったのでした。
今日は携帯からエントリーしました。また次回まで。
 

Alban Berg,Opera

一週間ご無沙汰しました。言い訳はいたしませぬ。と言うわけで、先日に続いて、ヴォツェックのオペラトークについてです。

 


ともかく、このオペラにおいては、ヴォツェックもマリーも、完全に貧困の袋小路に入り込んでいる。ここから逃れる術は全くないわけです。だからマリーは、鼓手長の中に貧困から抜け出す微かな可能性を求めているわけですが、冷静に考えると、鼓手長なんて言うのは、軍隊の中での階級はたかがしれている。結局逃れられないということです。しかも、それは自分たちの子供にも波及してしまう。きっとヴォツェックとマリーの息子も貧困の中で成長し貧困から逃れられないという現実。

(これは、まさに現在の日本がないしは世界が抱えている問題にも直結いたします。でもどうしようもないという無力感。自分がずり落ちないように支えるのが精一杯という現実)

クリーゲンブルク氏の演出の意図についての話し。(少々ネタバレですが、)

舞台装置は四角く、床には水が張ってあるそうです。それから黒い服を着た人物が何人も。登場人物はこの世ならぬ姿格好をしているわけですが、これはすべてヴォツェックから見た世界を表しているのです。ヴォツェックは、医者の実験台になり、抑圧されていて自分を見失い、精神的に崩壊しつつあるわけで、ヴォツェックの見る世界は常人あらざるものになっているわけです。まともに見えているのは、マリーと息子だけ。

舞台に水が張っているのは以下の三つの理由があるそうです。

一つは、ヴォツェックのいる世界が居心地の悪いと言うことを示している、と言う点です。じめじめしていて足下が濡れているという居心地の悪さ。特にドイツ人に取ってみれば湿気は日本人よりも嫌うでしょうし。

もう一つは、音響的な効果を狙っていると言うこと。ベルクの複雑な音楽に水音が加わることで、水音という我々にとっては身近な音が、ベルクの音楽世界をより現実に近いとことへと引き寄せよう、という意図があるのだそうです。これは実際にパフォーマンスに接してみないと分からない効果です。

さらには、視覚効果でして、水底が深淵であるように見せたり、あるいは水面の反射などの視覚効果を狙っているとのこと。こうした視覚効果から非合理的、非現実的な世界を表現しようとしているようです。

(少し面白かったのですが、舞台に水が張ってあることを、長木さんが「最近の新国ではやっていますが」といったことをおっしゃると、聴衆が笑ったこと。先日の「オテロ」の舞台でもやっぱり水が張ってあって効果的だったのですが、そのことを指しているのか、あるいは、劇場正面の水が張られた光庭を指しているのか)

この作品で重要なことは、ヴォツェックもマリーも良き人になろうとしていること。それに対して、大尉も医者もモラルから自由になっている。ヴォツェックもマリーも貧困といった現実社会の厳しさに直面して良き人であろうとしてもなかなかそうはなれない。特にマリーは鼓手長と関係を持ってしまい、罪悪感を覚えるわけです。このオペラの中でもっとも静寂なのはマリーが神に祈るシーンなのですが、その後ヴォツェックはマリーを殺してしまう。

なぜヴォツェックはマリーを殺したのでしょうか。クリーゲンブルク氏はこうおっしゃいました。非常に悲しいことに、マリーの殺害は、ヴォツェクが初めて自分でした決断だったわけです。それはヴォツェックの持つ怪物的な側面、それは貧困や境遇や人体実験によるものな訳ですが、そうした側面が表に出てしまったということなのです。

最後に一言ずつ。演出のクリーゲンブルク氏からは、この上演にてヴォツェック世界に入り、上演が終わりそこから去る時に、何かを持って帰って欲しい、という言葉が。指揮のヘンヒェン氏からは、この上演を故若杉弘芸術監督に捧げたい。本来なら若杉さんが振られる予定だったわけですが、残念ながらそれは叶わぬわけです。それからヴォツェックを「恐れずに」聴いて欲しい、とも。難解晦渋な現代音楽ではなく、実にエモーショナルな後期ロマン派音楽として不安を持たずに聴いて欲しいとのことでした。

せっかく書いたのですが、新国立劇場のウェブに全文載っておりますね。(#1, #2)ショック。せっかく頑張ってノートをとったのに……。