Alban Berg,Opera

昨日は、午前中に都内某所での所用を終えて、新国に向けてダッシュ。何とかオペラトークに間に合いました。

オペラトークの内容ですが、復習をかねて少しずつアップします。必ずしもお言葉通りには書かないと思います。お話しの順番や、やりとりの整合性が私がご報告するにあたって少々やりにくいところがあったり、私の所感が混ざったりします。すいません。

司会は長木誠司さんで、近頃東大の准教授から教授になられたとかで、「教授になっても仕事は増えるばかりで、給料は上がらない」とぼやいておられました。大学の先生がいかにもおっしゃりそうなお言葉で、大学の頃を思い出しました。懐かしい感じです。演出はアンドレアス・クリーゲンブルク氏、指揮はハルトムート・ヘンヒェン氏。

まずは、念のためあらすじ。近頃、「ヴォツェック」のあらすじを、他の方に説明する機会が何度かあったのですが、言えば言うほど陰鬱で暗い感じ。

兵士のヴォツェックは上官の大尉に虐げられ、軍医の実験台になって小銭を稼いでいる。内縁の妻マリーとの間には息子がいるのだが、マリーは軍楽隊の鼓手長と関係を結んでしまう。ヴォツェックはマリーの不義を見て取って池の畔でマリーを殺してしまう。酒場でヴォツェックの袖についた血を見られ、慌てて池に戻るのだが、ヴォツェックも池に溺れて死んでしまう。池から死体が上がったとの知らせに、遊んでいた子供達は池の方に向かうのだが、ヴォツェクとマリーの息子はただ木馬遊びを続けるだけだった。

「ヴォツェック」は1925年にベルリンでエーリッヒ・クライバーによって初演され、一定の成功を収めました。構成としては、三幕構成でそれぞれ5つの場があります。全部で15場からなる安定した構成となっています。 あらすじにも書いたように、社会の底辺とも言うべき貧困という現実を描いたオペラな訳ですが、これは当然ながら、19世紀半ば以降のイタリアのヴェリズモ・オペラに由来するものなわけです。「道化師」とか「カヴァレリア・ルスティカーナ」、あるいは「ボエーム」や「蝶々夫人」もその範疇でしょうか。 ベルクはこのオペラの原作であるビュヒナーの「ヴォイツェック」を29歳の時に見ています。直後に第二幕のスケッチを始めるなど、強い衝撃を受けオペラ化への強い意欲を持ったようです。もっとも、師匠格のシェーンベルクには「書くのなら、妖精が登場するオペラを書いた方が良い」と言われ、落ち込んだりもしたようですが。

ベルクはこのオペラで伝統的な技法も用いていまして、それはパッサカリアであり、フーガであったりします。また引用も非常に多く、冒頭部にはベートーヴェンの田園交響曲冒頭フレーズがモーティフとして使われていたり、シューマンからの引用、シュトラウスの「サロメ」のコントラバス部分と似た部分、マーラーの「高い知性の歌」(子供の不思議な角笛)など、様々な要素が取り入れられています。

(私が最近聴いている限りでは、マーラー的要素は随所に見られまして、交響曲第三番のフレーズがよく現れるような気がいたします。また、軍楽隊の部分もマーラー的だと思います)

つづく

 

Alban Berg,Chamber

最近本が読めなくなったということを書いたことがあったでしょうか。7月、8月と私は30冊近く読んだのですが、9月中旬頃から読めなくなってきました。とある人には、本を読めるだけの余裕がなくなってきたからじゃない? と言われましたが、確かにそうかもしれないです。仕事やらなんやらでちょっとばたばたしていますので。

というか、おそらくは11月は怒濤のような一ヶ月になる見込み。まあ、ヴォツェックとカプリッチョをみるのも大変な事件ですが、仕事的には、大きな案件を二つ抱えて、細かい案件を二つ三つ、それに突発的インシデントが三つほど。くわえて、組織の社内教育担当に任命されていて、難しい調整をいくかこなさないとならない。まあ、このご時世で忙しいというのはある意味ありがたいことでもあります。

さて、こんなどんよりした一日にぴったりなのがアルバン・ベルクでしょう。何ヶ月ぶりかに聴く「抒情組曲」は最高! もちろん演奏はアルバン・ベルク弦楽四重奏団という正統派であります。以前に何度も書いていますが、私はアルバン・ベルクの人生そのものに強い興味を覚え続けていまして、もし時間ができたら色々と調査したり研究したい、と思っています。定年後の手すさびになるかもしれませんが。ハンナ・フックスとの不倫愛とか、どうしてマノン・グロピウスのためのレクイエム的ヴァイオリン協奏曲を書いたのか、とか、虫さされで死ぬという今で考えればある意味不気味な最期とか。 時間はなくても、せめてモティーフだけでも維持できるように努力しないといけませんね。これもがんばります。

当の抒情組曲は、昨年の秋冬にひたすら聞き込んでいまして、結構記憶の中に残っていますので、聴いていて心地よささえ感じます。私は、「カプリッチョ」の透徹とした美しさも好きですが、「抒情組曲」のような、ある意味一般的で感情的な用語においては、美しいとは評価されないであろう、こうした曲も大好きです。まあ、私は美学も音楽学もさぼっていますのであまり難しいことはかけませんが、美というものの定義付けは現代においては実に複雑で困難な仕事になるようですので、このあたりでとめるしかありません。

しかし、何故、僕が「抒情組曲」を好むのか、自分なりに反省してみてもいいのかもしれません。 一般的には不協和音とされるであろう激しい弦楽器のぶつかり合いとか、一度聴いても覚えられないですし、鼻歌混じりに髭をそることもできないほど複雑な旋律群。それらが四方八方から飛びかかってくるのを一つ上のレベルから眺めている感じ。これが僕がこの曲を聴くときに感じているものらしいです。抽象画をみるときに感じるスリルと同じといえましょうか。

 

Alban Berg,Opera

今日でやっと仕事納めでしたす。今週から通勤客はぐっと減っていて通勤は楽でした。まあ仕事できるだけでもありがたいと思わないといけない時代になりつつあるようですが。

朝の通勤時間でも目が冴えていて、ヴォツェックの本を読んでいました。音楽之友社の名作オペラブックス(26)「ヴォツェック」です。いろいろと興味深くて読み続けて、疲れたら、iPodでヴォツェックを聴きながらリブレットを追っていく感じ。なかなかおもしろです。

ビュヒナーがヴォイツェック事件を救い上げ劇作化し、それをまたベルクが救い上げオペラ化したという構造。ベルクの功績でヴォイツェック事件は時間と空間を越えて東洋の島国にまで伝播している。そしてそのアクチュアリティ。日本でも不幸な事件が相次いでいますが、それが日本だけで発生しているわけはなく、現代に限らず発生しているわけです。もちろん、事件の容疑者や犯人は責めを負わなければならないのですが、はたして当人にだけ原因があったのか、という深く重い問題。コンテキストの中で理解することが求められるのだが、それは辛く厳しい仕事になるのだろう、という予感。

ヴォツェックのアクチュアリティはまさにここに現れているのではないでしょうか。

あるいは、ちょっとずれますが10年ほど前にカミュの「異邦人」を読んだときにも同じことを感じたことがありますし、カフカの「審判」でも似たようなことを考えました。いったい裁かれるものとはなんなのか、という問題。

私は、これは犯罪といった法を犯すという状態についてだけでなく、裏切りや不貞などの、「人倫」に悖る状態にまで拡張できると思っているのですが。

ともかく、問題は、どうしてオペラ化されたのか、ということでして、これは継続調査中です。

Alban Berg,WebRadio

日本時間で 本日未明に、アン・デア・ウィーン劇場でのシュトラウス「インテルメッツォ」の放送がORFであったのですが、録音失敗しましたorz。Net Transportの予約録画がうまくいきませんでした。そもそもNet Transportの操作性の癖が設定ミスを誘うような気がし手いましたので、他に良いものはないか、とググってみると、以下のフリーウェアにたどり着きました。

http://tetora.orz.ne.jp/forum/gasdown/download.cgi

GetASFStreamというソフトです。少しさわってみた感じでは、結構良さそうです。これで今晩NRKで放送されるアバド=ポリーニ=BPOのベートーヴェンのピアノ協奏曲第四番の録音を試みてみます。うまくいくと良いのですが。

今日は少々早起きして、いろいろとやりたかったことを済ませることが出来ました。最近は朝早く起きられるような状態ではなかったので本当に久しぶりでした。食事を済ませてから仕事。すすみが悪いですが……。お昼には年賀状を書きはじめ、1時間ほどで完了。宛名書きもデザインもPC任せです。まったく良い時代になったものです。

少々午睡をとってまた仕事に取りかかったのですが、どうにもこうにも頭が働きません。やはり良質な睡眠が必要です。今日は少々不完全燃焼感があります。

今日はベルクの「ヴォツェック」を聴いた一日。アバド盤でして、マリーはベーレンスさんです。そのほかにもバレンボイム盤やメッツマハー盤がiPodに入っていますが、しっくり来るのがアバド盤。洗練されて、純化された世界で繰り広げられるヴォツェックの悲劇。どうして、ベルクがこの悲劇的な題材を選んだのか、この曲を現代において聞く意味は何か、など考えています。

劇作家のビュヒナーの時代や、ベルクの時代にあっては、貧窮にある人間が力を持ち始める訳で、文化的エリートがようやく目を向け始めた時代だったのだと思います。そういう意味においてある種の啓蒙的な役割を持っていた者と考えられます。

現代においても、未だに貧窮の問題は解決していない。解決どころか悪化しているとも言えます。貧困がもたらす不条理を照明するという意味において現代においてもその価値を失ってはいないのです。

しかしながら、それではこの作品が音楽芸術である理由はありません。啓蒙ならば新聞やテレビ、映画の方が力強い。そうしたチャネルを選択するのではなく、音楽、オペラを選択して、そこに芸術的美的価値をまとわせることにどういう意味があるのか。そこが分からないところで、何とか答えを見つけようともだえている感じです。

このオペラも何年も聞き続けていますが、分からないことだらけ。アドルノがヴォツェックについて書いた論文があるのですが、晦渋なので手こずります。さすがアドルノ、です。アドルノぐらい頭の良い人間が考え抜いて書いたことですので、すぐに理解することなど出来るわけがないのですが。

そもそも最近は小説世界に浸っていますので、いまはちょっと思想系の本には入っていけない感じです。といいながらも、読まなければならない本は多いですので、いつかは立ち向かうことになるのですが。

 

Alban Berg,Opera

昨夜の夕食時、家人と一緒にベルクの「ルル」のDVDを見ました。とはいっても最初の30分ほどでしたが。映像は、クリスティーネ・シェーファーが脚光を浴びたグラインドボーンでの「ルル」公演。アンドリュー・デイヴィス指揮のロンドンフィルハーモニック管弦楽団。 この映像、おそらく初めて全曲通して観たオペラ映像です。これまでも何度か取り上げたと思います。

最初のあたり、第一場、画家とルル(シェーファー)の演技のきわどさに、二人で「怖いねー」などといいながら見ていたのですが、第二場で、シェーン博士とルルの過去が言及され、にわかに緊迫し始めて、食い入るように見てしまいました。今日は30分ほど見ておなかいっぱい。

しかし、奥深いドラマです。シェーン博士や画家、医事顧問官を死に至らしめる魔性の女としてのルル像という見方もありましょうし、逆に「踊り子」として、おそらくはつらい生活を送っていたに違いないルルが、シェーン博士にすくいあげられたという、救済物語としてみるとすると、ルルはシェーン博士のエゴの被害者なわけですね。最近ではどうも後者の読み方のほうがしっくり来るような気がしています。シェーファーの妖艶なルルをみると、どうしてもルルの「強さ」に見方が傾いてしまいますが、違う読み方もできると言うことのようです。

それにしても画家が死んだ医事顧問官にかける言葉が怖いです。

「私はあなたとかわりたいよ。彼女をあなたにかえすよ。その上に私の青春をあなたにあげよう」

ルルの魔力にすでに絡め取られていながらも、足をばたつかせて逃れようとする若き画家の恐れ。恐ろしい。恐ろしい。

また続きを見ることにいたしましょう。

Alban Berg,Classical

歳をかさねると判断力とか注意力が落ちてきますね。ただでさえ記憶力も落ちているのに。別のところで力を出したいと思うのですが。ようは仕事がうまくいっていないのですね。まあ、どうにかなるものなのですが。

落ち込んだときにベルクを聴くなんてどうかしていますね。それでもなおムターが弾くヴァイオリン協奏曲を聴いてしまい、一緒に暗鬱な穴の中に落ちていく感じ。 しかし、この演奏の退廃美はすさまじい。甘くもあるけれど、その奥には牙を向いた野獣がこちらをにらんでいるのがよくわかります。第二楽章の最後でほんの少し救済の余地が残っているけれど、それも最近の株式市場よりもずっと不確かで、はかないもの。

ムターは高音域の微細な音程のコントロールまでかなり健闘していて(少し不安はあるけれど)、勇気ある演奏家なんだなあ、ということを改めて認識。ある意味演奏家は勇者でなければならないでしょうから。

まあ、落ち込んだときに聴くベルクもいいかな、というのが結論。そういうときは、派手で陽気な曲を聴いても仕方がなくて、陰鬱な茂みの中で休むような曲を聴いてもよいものだ、と思います。

帰宅時もやっぱりベルク。オッターさまの歌う「初期の七つの歌(オケ版)」と演奏会用アリア「酒」を聴いてうっとり。帰りの電車で読んだ「アルバンベルク年報も面白かったですよ。こちらは明日にでも書いてみようと思います。

Alban Berg

今日は先日ゲットした、タワレコの15%引きクーポンを持って、揚々として新宿に向かいました。新宿のタワレコは新宿駅南口の東側に隣接するフラッグスというテナントビルに入っているのですが、どうやら今月で10周年のようです。昔のタワレコは、新宿通りの南側、三越の裏の雑多とした界隈に1件と、駅ビルの「ルミネ」の最上階にと、二軒あったのですが、10年前に今のビルに移ったのです。その頃、ちょうどブルックナーばかり買っていた時期で、とても懐かしくて、もうあれから10年たったのか、と感慨深くなってしまいます。あの頃と比べてどれぐらい成長できたのかなあ、と。

ベルクのヴァイオリン協奏曲の第二楽章では、バッハのカンタータ第60番"O Ewigkeit, du Donnerwort"「永遠よ、汝おそろしき言葉よ」が使われているのですが、そのカンタータの音源を見つけようとバッハコーナーに向かったのですが、予想通りカンタータの数が多すぎて探せない。そのとき僕は恥ずかしい思いをしてしまったのです。これはもうクラヲタ失格どころか、クラシック音楽愛好者にさえなれていないのだ、ということを思い知らされてしまうのです。あまりに恥ずかしくてココにはかけません。

そういうわけで、アーノンクールのカンタータ全集ばら売りの中から一枚ゲットしました。なるほど、カンタータの原曲はこうなっているのか……。

最近ベルクに大きな関心があるので、持っていない音源の一覧を作って持って行きました。僕は、対人恐怖症なので(?)、あまり店員さんに話しかけたり、質問したりしないのですが、最近はそれ以上に時間を大事にするようになったので、分からないことは店員さんに気合いを入れて質問することにしたのです。それで、ベルクのなかでも持っていない以下の曲を探したい旨を再び店員A氏伝えました。

  • 歌曲「私の目を閉ざしてください」(この曲は2回作曲されているので両方)。
  • 歌曲「ロイコーンに」
  • 四つの歌曲作品2

それでいろいろ探してもらったのですが、どうやらグラモフォンのアルバン・ベルク・コレクションにいずれも所収されていることが分かったのです。かなり時間がかかったのですが、店員A氏はイヤな顔をせずにつきあってくれました。感謝。

このコレクションを早速聴こうと思ったのですが、まずはヴァイオリン協奏曲を聴いてみなければ、とうことで、ムター&アバド盤を聴いてみました。これ、かなりすばらしいですよ。ムターの音ってこんなにも表情が豊かだったんだ、と驚きました。曲のテンポ取りも清冽できびきびとしています。いい録音だと思います。ズーカマン&ブーレーズ盤は冷徹な感じでしたが、ムター&アバド盤はきわめて感情豊かです。

残念なことも。このコレクションに入っている「ヴォツェック」と「ルル」はもう持っていたりするのですよね……。完全にダブってしまいました。「ルル」はブーレーズの初演版、「ヴォツェック」はアバド盤。無念。CDの方を売りに出そうかな、などと考えてみたりして。

さて、タワレコもフラッグスも10周年のお祭りと言うことで、5000円以上を買うとくじ引きを引かせてもらえます。タワレコのくじ引きを引いたところ、なんと当たってしまいまして、1000円引きクーポンをゲット。しかも、くじ引きを引かせてくれたのも店員A氏。本当にありがとうございます。

極めつけは、フラッグスの1階で引いたくじ引き。こちらも三等が当たってしまいまして、こちらは1000円の商品券をいただきました。しかもカード会社の商品券なのでどこでも使えます。ラッキーです。今朝、神社からいただいてきたお札にお参りをしてから出かけたのですが、もしかして御利益かも!?

Alban Berg,Classical

先々週からベルクのヴァイオリン協奏曲しか聴いていないです。ブーレーズ、ズーカーマン、ロンドン交響楽団のコンビで、CBSソニーから発売されたCDを図書館から借りてきたのですが、HMVとアマゾンで同じCDを探したのですが見つかりません。画像のCDは、おそらくは音源が同じだと思われるCDです。

もう何十回と聴いているので、違和感なく曲が入り込んできますが、やはり調性音楽ではないので、口ずさむことができるという具合にはなりません。ただ聴いているといろいろな発見があって、マーラー的な部分とか、ベルクの「抒情組曲」の旋律が聞こえてきたりと、実に刺激的です。

ズーカーマンのヴァイオリンはいいですね。瑞々しく張りのある音ですばらしい。系統的に聴いてみたくなる感じです。

ヴィリー・ライヒの著作「アルバン・ベルク 伝統と革新の嵐を生きた作曲家」を入手して読んでいるのですが、楽曲解説の部分は、楽理に通じていないとお手上げです。またもや壁が。この壁を乗り越えたいのですが、いつ超えられるか。

ライヒはベルクの弟子であったと言うことで、ベルクのエピソードがライヒの眼を通じて語られます。ですが、刊行が1963年ですので、まだベルクの婦人ヘレーネ存命中ということで、先日触れた、マリーとの情事やハンナ・フックス・ロベッティンについての記載はない模様。このあたりはシェルリースの著作「アルバン・ベルク」において宮川尚理氏が追記として記されています。

 

さて、現在のところ 近年まれに見る忙しさ。いつもなら、会社の昼休みにブログの構想を練るのですが、昼休みも仕事していました。さらに追い打ちを掛けるのが、切羽詰まってきた英語。今週は珍しくブログをなかなか書けず。いけませんね。

 

 

 

Alban Berg,Classical

先週の木曜日頃から執拗にベルクのヴァイオリン協奏曲を聞いています。もう何度聞いたことでしょう。30回はくだらないでしょうか。しかし、聞けば聞くほど、わかるところはわかるのですが、わからないところはわからない。ただ、この曲の叙情性や美しさといった面を感じるようになってきたのは確かです。

1935年2月(ベルク死の年)、アメリカのヴァイオリニストのルイス・クラスナーからヴァイオリン協奏曲の作曲依頼を受けることになります。そのころ「ルル」の作曲を行っていたベルクは、「ルル」だけは夏までに作曲を終わらせたかったのですが、ナチスによりドイツでの作品演奏が禁止されたこともあって、経済的に厳しい状況だったということで、依頼を引き受けてしまうのです。 なかなか作曲が進まなかったのですが、アルマ・マーラー=ヴェルフェルと建築家グロピウスの間に生まれたマノン・グロピウスが小児麻痺に罹患し闘病の末に亡くなってしまうという出来事がありました。ベルクはマノンのことをかわいがっていて、マノンへのレクイエムとして、ヴァイオリン協奏曲の作曲にあたることになったのです。

ここまではとても有名な話なのですが、この曲にはマノンに加えて二人の女性の姿が登場します。ベルクと女性とのかかわりが実に興味深いのです。

まずは、17歳の頃にベルク家で女中をしていたマリー・ショイフル(この方もやはりマリーだ!)との間にアルビーネという娘をもうけていますし、あるいは、アルマ・マーラー=ヴェルフェルの夫フランツ・ヴェルフェルの妹であるハンナ・フックス・ロベッティンと恋愛関係にもあったわけです。

このヴァイオリン協奏曲には、1)マノン・グロピウス、2)マリー・ショイフル、3)ハンナフックス・ロベッティンという三人の女性が登場するわけです。1)のマノンは言わずもがな。2)のマリーは、ケルンテン民謡において現出しています。マリーはケルンテン地方の出身でした。3)ハンナは、H音(ハンナ)とF音(フックス)において現出しています。いわば、ベルクの女性回顧録的な状態です。

Alban Berg,Classical

今日もベルク。飽きもせず本当に楽しいし刺激的です。どこまで分かっているのか分かりませんが。

ともかく、今日はアシュケナージがベルリン・ドイツ交響楽団を振ったベルク曲集。このCDの白眉は、あの「初期の七つの歌」をオーケストラ伴奏版で聴けると言うこと。「七つの初期の歌」は、オッターさんの以下のアルバムで聴いてはおりました。ピアノ伴奏版ですが。

Berg/Korngold/R. Strauss: Lieder
Alban Berg, Erich Wolfgang Korngold, Richard Strauss, Anne Sofie von Otter, Bengt Forsberg
Deutsche Grammophon ( 1994-03-21 )

 

それはそれですばらしいのですが、オケ版だとどうなるのだろう、と思って聴いているわけです。

 
ところが、これがすばらしい! 
 
シュトラウスの「四つの最後の歌」的な流麗で甘美な音のうねりです。
 
「七つの初期の歌」はベルクが二十歳の頃に書いた作品で、それだけでもすごいのですが、1928年(四十三歳)の時にオーケストレーションが施されて初演されています。ちなみに、オケ版の出版は死後20年がたった1955年です。そういう意味では、シュトラウスの「四つの最後の歌」(1948年作曲)よりも20年も前にこのオケ版が成立していたことになります。ベルクが進んでいるととらえるか、シュトラウスが保守的だととらえるか。たぶん後者なのだと思うのですが、あとから味わうものにとって、それが何年もののワインであろうとも、旨ければいいわけですので、前後関係を過度に評価しても意味がないのではないでしょうか。
 
ただ、ピアノ伴奏版においてもシュトラウスの影響を受けていることは確かなようです。私はシュトラウスの歌曲系についてはまだ抑えられていないのですが(また課題が見つかりました! うれしいものですね)、ベルクの歌曲とシュトラウスの歌曲の聴き比べなどをしてみるのも面白いかもしれません。
 
ともかく、オケ版の「初期の七つの歌」はすばらしい。しばらくは私の癒しの音楽になることは間違いないでしょう。