舞台と客席の断絶は広く深いのか。

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桜の季節も終わりまして、若葉がみなぎるけやきが美しかったです。こういう立派な樹がを観ていると幸福な気分になりますね。どこまでも無限に広がる枝葉はあらゆる可能性を想起させます。剪定されているのを見ると悲しくなります。

小澤征爾さんと、音楽について話をする
小澤 征爾 村上 春樹
新潮社
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かつて読んだこの本で忘れられない場面があります。
図書館で借りたので、至急再度取り寄せしますが、たしかこういった場面でした。
小澤征爾の言葉でした。世の中には高価なオーディオを持っている人が多いけれど、彼らは全然音楽をわかっていない。その点、村上春樹はよく聴いていますよね、と小澤征爾が村上春樹を褒めるわけです。
この場面、ずっと心にひっかかっていました。
村上春樹が音楽を聴く能力が高いのは言うまでもありませんし、作家業という仕事の一環として音楽を聴いているわけですから、そういう意味ではプロの音楽評論家と肩を並べているはず。
ですが、いわゆる高価なオーディオを持っている人というのはそうではありません。お金はあっても、コンサートに足を運ぶ時間や機会を持てない人なのでしょう。地方在住であったり、あるいは東京にいたとしても仕事が忙しくて音楽を聞く暇もないのでしょう。ですが、しばしの休息に出来るだけ良い音に触れたいという思いでオーディオを揃えようと考えた人々です。私は高価なオーディオを持っていませんが、正直音楽に触れる時間を平日はほとんど持てませんので、同じ状況なんでしょう。
が、小澤征爾は、そうした人たちをバッサリと切り捨てたように私は思ってしまったわけです。真意は別のところにあるのかもしれず、私の記憶なかでそうなっているだけなのかもしれないので、原典にはもう一度あたります。
これも私の記憶の中ですが、岩城宏之も似たようなことを行っていたような気がします。いわゆる音楽愛好家と話したくない、といったたぐいの言説だったはず。原典は探します。
さらには、絶対音感がなければ、音楽を語りえない、という私の友人の知り合いの音楽学者の言葉も影響しているのかもしれません。
これが、私の中の最近の迷いのようなものなのかもしれないわけです。結局、音楽家はこういう思いを皆持っているのだろうか、ということ。音楽家と聴衆(私かもしれません)に横たわる断絶がこれなんでしょうね。
真の音楽とは何か、ということを例の偽ベートーヴェン事件から考えざるをえない状況なんですが、どうやらこういう芸術認識における断絶の問題なのでしょう。聴くだけで語るべからず、なんでしょうかね。
今聞いているのはこちら。予習です。

Cavalleria Rusticana / Pagliacci
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ではグーテナハトです。

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