Opera,Richard Wagner

いや、申し訳ないですが、さすがに体力が。。

というのも、3月からの仕事の方の春祭りが絶好調で、私もほとんど祭り気分で働いているんですが、まあ、たまに週末に休むとどうしても気が抜けて、そうするとドッと疲れが出てしまう感じ。

昨日、英会話で、ジャックというイギリスの若者に「月曜日には25時間連続で働いたよ」といったら、ジャックは言葉を失いました。

「で、2時間仮眠してまた夕方の5時から11時まで働いたよ」といったら、さらに言葉を失いました。

それから、「日曜日にはオペラを見るんだけど、5時間半あるんだ」といったら、何も話さなくなってしまいました。

その後、ポツリと「日本人じゃなくてよかった。。。」とのこと。

これだけ働いて、2%給料が上がらなかったらアベノミクスを批判します。冗談です。

というわけで、本日は上野の東京文化会館にて「ニュルンベルクのマイスタージンガー」をたっぷり聞いて来ました。

過程を省いていっちゃうと、三幕第一場最後の五重唱以降は涙が止まらないですよ。カタルシス。

フォークトのヴァルターは強力過ぎます。最後のあの歌、嗚咽をこらえるのに必死。

一年ほど前にこちらのCDを紹介しましたが、もう一度紹介しておきます。ここで、聞けますよ。

フォークトについてはこんな記事を昨年書いています。

新国立劇場「ローエングリン」タイトルロール、フォークトの記事が朝日新聞夕刊に。

フォークト、確かに絶好調ではありませんでしたが、十分観客を鷲掴み。それどころか、女声合唱団の心も鷲掴みです。カーテンコールで入ってきた時、女声合唱団に投げキッスをしたんですが、とたんに女声合唱団が沸きに沸いたそうです(カミさんの目撃情報)。

ワーグナーのオペラは、5時間かかるからこそ感動するんだろうなあ、と思いました。

で、ストラヴィンスキーがバイロイトを酷評しているのを思い出しました。

この逸話、岡田暁生さんの著書「音楽の聴き方」(中公新書)で読みました。狭くて硬い座席で座って「宗教儀式」のようなオペラを聴くことのへの疑問です。

ただ、これ、宗教儀式だとしたら合理的すぎます。5時間の労苦の先にあったのは、ヴァルターの甘美な歌に酔いしれ、ハンス・ザックスのドイツ讃歌にぐっと胸を掴まれますので。

5時間の時間は、いわば悟りを開くための苦行であり、その労苦への報いが最後の感動なんだなあ、と。

それから、他にも色々発見しました。

このオペラ、リヒャルト・シュトラウスの「カプリッチョ」と「ばらの騎士」だわ、みたいな妄想。

意外と、ハンス・ザックスとエファが互いに持つ変な恋心みたいなものが、興味深いですよ。これ、今回はじめて気づきました。これが、「ばらの騎士」。あとは、オペラの中で芸術論ぶってしまうところが「カプリッチョ」だなあ、というのは普通の考えです。

明日も続きます。もう少し細かく書かないと。

明日は5時半に起きなければならないのでこのへんで。

NNTT:新国立劇場

昨日、かみさんから、「帰ったらいいニュースあるよ」とメールが来たので、なにかな? と思って帰ってみると、新国立劇場から電話があったそうな。

なんでも、6月のコジ・ファン・トゥッテ、NHKの収録があるそうなんですが、私の席だとカメラに遮られて舞台が見られなくなるのだそうです。ということで、座席がA席からS席に変更になりました。無償です。やった!

で、私、いつもの不屈の精神で、席は希望できるんですか? と図々しくも聴いてみたんですが、まあやはりダメみたいで、指定された席ということです。舞台下手方面ですが、割と近い席のようで満足です。

まあ、ほうっておくとクレームものですが、こうしてわざわざ電話してくれるのはありがたいばかりです。

艦長就任一週間は嵐の中の航行でした。晴れる気配なし。いつまで荒波を乗り越えればいいのか。乗員の安全が第一。

Miscellaneous

また夜勤の日々が始まりました。まあ季節ものなので。最近は24時間連続勤務も平気です。

この前の日曜日のNHKスペシャルで取り上げられていた佐村河内守さんの凄絶な仕事ぶりに比べればまだまだです。

耳鳴りを抑えるために精神薬を大量に飲み、二日間眠らずに頭の中で作曲を続けるなんて、並の精神力ではできません。

足元には及ばずとも、まだまだ頑張らないと、と思います。本当に。

Concert,Richard Strauss

今日は、上岡敏之と日フィルで、シュトラウスとブルッフを聞きに初台のオペラシティに行って来ました。

IMG_2504.JPG

今回の日フィルも圧倒的で、ほんとうに来てよかったですよ。。

ブルッフ

前半のブルッフ、郷古廉さんのヴァイオリンがあまりにすごすぎるわけです。

第二楽章の甘美で官能的なところは圧倒的でした。

音は豪放な部分もあれば繊細に歌うこともできるところで、指揮の上岡さんがたくみに導いていたとはいえ、圧巻でした。

今日も滂沱でした。

郷古さんは、1993年生まれの二十歳なんですが、なんだかあまりに出来上がった大人な演奏をしてしまっていて、早熟な天才だと思います。これから壁に何度もぶち当たるんでしょうけれど全部飛び越えてしまいそうですね。

演奏が終わったあともオケのメンバーからも賛嘆の眼差しを受けていましたし、客席も大喝采でした。

アンコールで弾いた曲がシュトラウスのオペラ「ダフネ」のフレーズを使ったエチュードですよ。考えていたんでしょうけれど、後半のアルプス交響曲と絡めた選曲で、全く粋なことをしてくれるものです。

アルプス交響曲

後半のアルプス交響曲も、圧倒的でした。

上岡さんの指揮は、雄大で、マゼールのアルプス交響曲に似た印象を受けました。テンポは中庸から少し遅いぐらい。日本人的な「粘り」がなく、スマートで洗練された正統派ドイツ的演奏と思いました。

これは、もうセリフ無しのオペラといってもいいのではないでしょうか。それぐらい映像が思い浮かぶいい演奏でした。

日フィルも上岡さんの要求によく応えて、疵も乱れも殆どない演奏だったと思います。日フィル、やっぱり巧いですよ。今回もそう思いました。

ただ、ホールの音響的に言うと、私の席(10列の右側)から音が回っているような印象を受けました。

アルプス交響曲の隠れテーマ

今回の演奏会のパンフレットの広瀬大介さんの解説が面白いですね。

アルプス交響曲は単なる写実交響曲ではなく、「アンチクリスト」という隠れテーマがあるという論点でした。

この論点、知ってはいましたが、まとめてくださっていて有り難いばかりです。

「アンチ・クリスト」というのはニーチェの思想ですが、もう一つシュトラウスが作曲したニーチェがらみの曲が「ツァラトゥストラはかく語りき」です。

で、ですね、アルプス交響曲には「ツァラトゥストラはかく語りき」の冒頭の上行していくファンファーレのフレーズが随所に登場するのですよ。広瀬氏もパンフレットで指摘しています。

そればかりではなく、上行ファンファーレの下降バージョンも最終部に登場します。

ここまでは、広瀬さんの解説にもこの下降ファンファーレは「自然の前に打ちひしがれる姿」として指摘されています。

実はですね、この下降バージョンのファンファーレは、オペラ「アラベラ」が、最後に水を持って階段を降りてくるところでも登場します。

これは新国立劇場のオペラ・トークで評論家の田辺秀樹さんが指摘されていたことです。ここでは、「ツァラトゥストラ」のような男性的な上昇志向に対して、女性的な志向なのである、とおっしゃっていたと記憶しています。

終わりに

やっぱりドイツ後期ロマン派は素晴らしい、とあらためて思いました。官能と甘美があるのですね。

来週からまた戦う勇気がわきました。

明日は勉強やら日常業務やらをこなす予定。やることがたくさん。

Opera

短信ですが、ラモー、いいっすね。

この映像を見るだけで、私は昇天しました。

洒脱で軽快。現世を忘れるのにはピッタリです。

明日で今年度もおしまい。来年度からは艦長に就任します。

Opera,Tsuji Kunio

アレヴィの「ユダヤの女」を知る機会がありました。本当に興味深いのでご紹介です。

こちらの本を参考にしました。素晴らしい本です。別の折に詳しく紹介する予定です。

アレヴィの「ユダヤの女」についても、別の機会に紹介しますが、今回は登場人物のラシェルについて。というか、ラシェルをめぐる面白い事実について、です。

プルーストのラシェルという女

「ユダヤの女」の登場人物の一人が、タイトルロールと言ってもいいのかもしれませんが、ユダヤ人女性のラシェルです。このラシェルという名前ですが、「フランス・オペラの魅惑」においては、プルースト「失われた時を求めて」に登場するラシェルという娼婦の元ネタではないか、と指摘されています。ラシェルはサン=ルーに愛されるのですが、その後女優になるという設定です。

辻邦生のラシェルという女

実は、辻邦生「夜」という作品にもラシェルが登場します。この「夜」という小説は、4人の主人公の独白が組み合わされたもので、そのうちの一人である高級官僚が関係をもつ娼婦の名前がラシェルでユダヤ人の女という設定になっています。

こちらについては、「失われた時を求めて」を読んでいた頃には気づいていたんですが、その時は私はアレヴィの「ユダヤの女」まで辿ることはできていません。

辻邦生がラシェルを登場させたのは、おそらくは「失われた時を求めて」からとおもいますが、作中設定としては、フランス人としてはユダヤ人女性がラシェルという名前であるといういことは、アレヴィからもプルーストからも想起できる共通認識なのでしょうか。

実在したラシェル

さらにおもしろい事実。ラシェルというユダヤ人の女優は実在しているんですね。19世紀半ばに活躍した悲劇女優だそうで、本名はエリザベート・フェリクス。1837年にパリでデビューしています。テアトル・デュ・ジムナーズ マリー・ベルという劇場にて「La Vendéenne」でデビューしたとあります。


アレヴィの「ユダヤの女」の初演は1835年です。

では、1837年にデビューした時に、ラシェルと名付けたのは誰か?

ウィキペディアによれば、舞台監督の監督のポワソンという男のようです。ですが、ラシェルというのは、このエリザベートが普段使っていた「名前」を選んだのだそうです。ですので、ラシェルの原点がアレヴィによるものなのかどうかはわかりません。アレヴィから来ているのか、偶然なのか。

プルーストのラシェルは、もしかしたらこちらのラシェルも関係するかもしれません。女優になるというのはパロディにも思えますし。謎です。

そもそものラシェルとは?

ラシェルとは、聖書においてはラケルと表記されるようです。創世記に登場する人物で、ヤコブの妻に当たる人です。

知れば知るほど面白いです。

というわけで、また明日。書くことがたくさんですが、もっと書く速度を上げないといけないですね。がんばります。

2012/2013シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

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あー、これがオペラなんですね。私、なんで知らんかったんだ。。

とおもってしまうぐらい圧倒的なパフォーマンスだった新国立劇場の「アイーダ」でした。

このプロダクションは1998年の開場時のものです。それから14年ですが、まだ色あせていません。帰り際に思い立ちました。これは無形文化財なんじゃないか、と。

作ったのはゼッフィレッリ。

ここまで絢爛、というのは誰しもが思うもとです。加えて、舞台に奥行きがあるのです。何時もにもまして。

ギリシア風よりも野太く無骨な柱がそそり立つ柱廊がはるか先まで続いているように感じましたし、神殿の奥の薄暗い奥から立ち昇るアウラを感じたり。

衣装の意匠も素晴らしく、無からの創造よりも、古代エジプトの絢爛を汲み上げて再構成するほうが余程苦しいプロセスだと感じるほどでした。

生きた馬が登場するのは、知っていましたが、実際に見ると迫力抜群です。

「アイーダ」ともなると、超人気演目ですので、いつもとは違うお客さんが多いようで、なかなか面白く、例えば、指揮をしたミヒャエル・ギュットラーがカーテンコールで舞台上に姿を表すと、「キャー、イケメン指揮者っ」、とか「マジカッコいい、マジカッコいい」という声があちらこちらから聞こえてきたように思います。まあ、確かにイケメン指揮者なので異存はありません。

ミヒャエル・ギュットラーは、前回「フィガロの結婚」で登場しましたが、あの時は音楽の制御にずいぶん苦労していたように思いましたが、今回は、冒頭は少しハラハラしましたが、以降はオケ合唱含めて最後まで統御し切っていました。テンポのコントロールは前回の「フィガロの結婚」の時のように無理矢理感がなく、流れの中で波立たせるところは波立たせ、流すところはきちんと流す説得力の高いものでした。

キャストですが、外国勢三名は、大オケと張り合う強力な声量の持ち主でした。特にアムネリスのマリアンネ・コルネッティの最終幕は素晴らしかったです。パワーと情感が混然一体となっていました。

アイーダのムーア、ラダメスのヴェントレも声量はバッチリ。もちろん細かい点に気になる点などはありましたが、やはり声量がないといけません。

冒頭、みんな、なんだか疲れているようで、縦線が合わなかったり、歌の細部の処理がうまくいっていなかったりと随分心配したのです。ところが、ムーアが登場して、アイーダをガッツリ歌った途端に空気が変わりました。少なくとも私の頭のネジががっちり締まったのがよくわかりました。すごかったですよ。

いろいろと思うようにならないこともありますが、十指に入る名演といっていいと思います。4時間きっちり堪能することができたと思います。

IMG 2367

暮れなずむ新国立劇場はほんとうに美しいです。特にこの手摺のランプに灯りが灯るのが最高です。

本日は一旦ここまで。書きたいことたくさんだなー。

Art

国立西洋美術館で開催されている「ラファエロ展」に行って来ました。

ルネサンスの産んだ美の寵児ですからね。見に行かないわけには行きません。

しかし、本当に天才ですね。私の師(老ギタリスト)であれば、きっと前世で相当な努力を積んだ天才だ、と言うでしょう。

God the Father and the Virgin Mary (fragments of the Baronci Altarpiece)

  • 1500-01
  • Oil on wood, 112 x 75 cm (God), 51 x 41 cm (Virgin)
  • Museo Nazionale di Capodimonte, Naples

まず驚いたのはこの絵です。

のっけからのけぞりました。10代後半の作品にしてこの完成度ですから。確かに、左下の女性の手は荒削りですし、王冠の書き込みもまだまだ早熟な感はあるのですが、肌のグラデーションの美しさは感嘆するばかりです。

02baron0

以前であれば、神の不公平さを嘆くところですが、今の私は、師(老ギタリスト)によりインド風の輪廻転生を方法論的に使うことを覚えましたので、然るべくしてそうなった、と理解出来ます。

このシリーズ、少し続くかも。未だ書きたいことはあるのです。細密さ、グラデーション、布地の描き方、不自然な描写による自然な構図、などなど。

今日はしばしの休息。仕事終わらないけれど、最後につじつまを合わせるのがプロらしい。難しいけれど。

Music,Philosophy

はじめに

バークレー出身の老ギタリストとの対話。彼との会話は4回目です。まるで、彼の話にいつも出てくるスパイラル、サイクリック、という言葉のように、同じような話題を繰り返しながらも、そこに変奏が加わり新たな意味が立ち現れる、という感じになっています。

今日はありがちな対話調で書いてみます。よくある対話形式のパロディです。真似きれてないですが。。

ジェリー・ベルゴンズィ(バーガンジィ)

G:

一ヶ月ぶりの授業だね。ジェリー・ベルゴンズィを聞いた?

私:

もちろんです。彼のフレージングには驚きや意外性があります。

G:

そうそう、unpredictableだね。ベルゴンズィは、偉大なミュージシャンには珍しく偉大な教師だ。エリック・アレキザンダーと同じくね。これは稀有なことなんだよ。

※:ジェリー・バーガンジィーとも発音するみたいですが、彼がベルゴンズィと発音しているように聞こえますので、これでいきます。

音楽は瞑想

私:

あなたは、ショパンやバッハを、ジャズ・ミュージシャンでもあり、ヨギでもある、とおっしゃいます。ヨギとは、ヨガをする者のことです。ショパンやバッハが瞑想というのはどういうことでしょう? 彼らが瞑想しているなんて話は聞いたことないですし…。

G:

そうじゃない(笑)。彼らにとっての瞑想Meditationとは、音楽なんだよ。アインシュタインについては考えることが瞑想Meditationだし、画家にとっては描くことが瞑想Meditationなんだ。もちろん、ヨガだって瞑想Meditationだがね。

そもそも、Museという言葉があるだろう。ギリシア神話に出てくる9人の女神のことだ。諸学芸の神々で、ミューズとかムーサなどという。作曲家はミューズの助けを得て作曲をする。画家も科学者も同じだ。そうしたミューズとの交感が瞑想Meditationなんだ。

私:

なるほど! あなたのおっしゃる瞑想Meditationとは、そういうことなのですね。超越する何かにコネクトする、とあなたはおっしゃっていましたが、それらを総じて瞑想Meditationと表現しているのですね。それは私には哲学的な認識の前の「直感」に思えます。

全てはつながっている

G:

そう。全てはつながっているんだ。たとえば、君は本当はずっと音楽を聴いたり楽器を吹いたりしたいだろう。だが、現実はそうは行かない。働いて食べて行かなければならないのだ。だがね、そうした働くという行為も、実は瞑想Meditationにつながるものだ。たとえば、働くことで、意志力、忍耐、克己、持続といった徳性を鍛えるんだ。そして考え努力する。それが来世Next Lifeでの開花につながる。

君が今開花できないのはこれまでのカルマによるものだ。人生は繰り返す。首飾りのようなものなのだ。今この人生において自らを鍛えることで、来世Next Lifeで、例えば音楽家として開花することだってできるんだよ。

最後に

G: 今日の話は、Food for thoughtだ。考え続けるんだ。

私:わかりました。ありがとうございます。

編集後記

彼の話は、仏教思想に裏打ちされたスケールです。信じるか信じないかはともかく、人が一生を終えるまで努力し続けることに意味を見出すことができる思想です。私は、西田幾多郎の哲学を思い出しながら聞いていました。

イギリス人の彼から日本人の私がそうした仏教思想のレクチャーを受けることが不思議というか奇妙というか、そういう気分になりました。おそらく、70年台のアメリカで暮らしたことがあるので、ヒッピー文化の影響を受けているのでしょう。

もちろんこうした考えに盲従しないまでも、モティベーションを高める考えとしてこうした考えに肯うのは合理的だと思います。そのまま信じるという誘惑にも駆られますが、合理主義者としてはなにか引っかかりを覚えるのも事実ですので。

また、音楽を聞くことが瞑想なのだ、というテーゼは、私の瞑想感を変えました。私は坐禅やヨガが瞑想だと思っていたのですが、それは浅はかな考え方でした。

確かに、音楽に集中している時、矛盾するようですが、音楽とは関係のない思いがどんどん膨らむことがあります。音楽を聴くという目的からは外れたことですので、これまでは集中できていない証拠だとネガティブにとらえていました。ですが、実は音楽によって、超越世界と交感することによって生み出された考えなのであり、それはそれでポジティブに捉えてもいいのではないか、と考えました。

次回は来週です。

Jazz

この一ヶ月、バークレー出身のギタリストとの対話はありませんでした。というのも、私が仕事を休めなかったからです。

ですが、明日のお昼、話をする機会ができました。楽しみですが、どんな会話になるのか。。

前回の対話において、私は彼に詰められたのです。曰く、「サックス奏者なのにJerry Bergonziを知らないなんて!」

マイケル・ブレッカー・バカな私にとっては、サックス奏者はマイケルただ一人(大げさ)。マイケルの参加アルバムは100枚ぐらい持っていますが、その他のサックス奏者のアルバムは、サンボーンとか、ボブ・バーグとかそういう方に限られています。ジャズ好きの方から言わせれば、勉強不足なんじゃね、ということになります。

で、ですね。先日から聞いているのです。ジェリー・ベルゴンズィをJerry Bergonziを。

(Bergonziというえば、私にとってはテナー歌手だったのです。カルロ・ベルゴンツィ。)

聞いているのは、ハル・ギャルパーのアルバム「Rebop」。


Rebop - Hal Galper

あれ、ベルゴンズィって、ブレッカーにそっくりじゃないですか。。

マウスピースはラバーだし、マイケル・ブレッカーよりもフレージングが持たれ気味で、崩した感じなんですが、フレージングのセンスはすごく似ています。マイケルよりずっとストレート・アヘッドですが、臭みがなく、スマートです。いわゆるフュージョン奏者がやるストレート・アヘッドなハード・バップ、って感じです。私の好み。まさに。

ベルゴンズィのアルバムをみてみると、(当然なんですが)、マイケル・ブレッカー人脈とかぶっています。ピアノのジェイ・カルデラッツァとか、ドラムのアダム・ナッシュバウムとか。両名とも90年近辺でマイケル・ブレッカーのソロ・アルバムに参加していた方です。

そして、ハル・ギャルパーも、マイケル人脈の一人です。70年台に、マイケルとランディのブレッカー兄弟はハル・ギャルパーのアルバムに参加しているんですよ。こちらです。

Children of the Night - The Hal Galper Quintet

このアルバムは、学生時代に聴きまくりましたので、思い出深いですよ。

ほんと、まだまだ愉しみがたくさんあるんだなあ、とおもいます。またサックス吹きたくなりました。仕事を引退してからかもしれないけれど。