短信ですが、ラモー、いいっすね。
この映像を見るだけで、私は昇天しました。
洒脱で軽快。現世を忘れるのにはピッタリです。
明日で今年度もおしまい。来年度からは艦長に就任します。
人間には何といろいろな啓示が用意されているのだろう。地上では雲も語り、樹々も語る。大地は、人間に語りかける大きな書物なのだ。…… 辻邦生
短信ですが、ラモー、いいっすね。
この映像を見るだけで、私は昇天しました。
洒脱で軽快。現世を忘れるのにはピッタリです。
明日で今年度もおしまい。来年度からは艦長に就任します。
アレヴィの「ユダヤの女」を知る機会がありました。本当に興味深いのでご紹介です。
こちらの本を参考にしました。素晴らしい本です。別の折に詳しく紹介する予定です。
アレヴィの「ユダヤの女」についても、別の機会に紹介しますが、今回は登場人物のラシェルについて。というか、ラシェルをめぐる面白い事実について、です。
「ユダヤの女」の登場人物の一人が、タイトルロールと言ってもいいのかもしれませんが、ユダヤ人女性のラシェルです。このラシェルという名前ですが、「フランス・オペラの魅惑」においては、プルースト「失われた時を求めて」に登場するラシェルという娼婦の元ネタではないか、と指摘されています。ラシェルはサン=ルーに愛されるのですが、その後女優になるという設定です。
実は、辻邦生「夜」という作品にもラシェルが登場します。この「夜」という小説は、4人の主人公の独白が組み合わされたもので、そのうちの一人である高級官僚が関係をもつ娼婦の名前がラシェルでユダヤ人の女という設定になっています。
こちらについては、「失われた時を求めて」を読んでいた頃には気づいていたんですが、その時は私はアレヴィの「ユダヤの女」まで辿ることはできていません。
辻邦生がラシェルを登場させたのは、おそらくは「失われた時を求めて」からとおもいますが、作中設定としては、フランス人としてはユダヤ人女性がラシェルという名前であるといういことは、アレヴィからもプルーストからも想起できる共通認識なのでしょうか。
さらにおもしろい事実。ラシェルというユダヤ人の女優は実在しているんですね。19世紀半ばに活躍した悲劇女優だそうで、本名はエリザベート・フェリクス。1837年にパリでデビューしています。テアトル・デュ・ジムナーズ マリー・ベルという劇場にて「La Vendéenne」でデビューしたとあります。
アレヴィの「ユダヤの女」の初演は1835年です。
では、1837年にデビューした時に、ラシェルと名付けたのは誰か?
ウィキペディアによれば、舞台監督の監督のポワソンという男のようです。ですが、ラシェルというのは、このエリザベートが普段使っていた「名前」を選んだのだそうです。ですので、ラシェルの原点がアレヴィによるものなのかどうかはわかりません。アレヴィから来ているのか、偶然なのか。
プルーストのラシェルは、もしかしたらこちらのラシェルも関係するかもしれません。女優になるというのはパロディにも思えますし。謎です。
ラシェルとは、聖書においてはラケルと表記されるようです。創世記に登場する人物で、ヤコブの妻に当たる人です。
知れば知るほど面白いです。
というわけで、また明日。書くことがたくさんですが、もっと書く速度を上げないといけないですね。がんばります。
あー、これがオペラなんですね。私、なんで知らんかったんだ。。
とおもってしまうぐらい圧倒的なパフォーマンスだった新国立劇場の「アイーダ」でした。
このプロダクションは1998年の開場時のものです。それから14年ですが、まだ色あせていません。帰り際に思い立ちました。これは無形文化財なんじゃないか、と。
作ったのはゼッフィレッリ。
ここまで絢爛、というのは誰しもが思うもとです。加えて、舞台に奥行きがあるのです。何時もにもまして。
ギリシア風よりも野太く無骨な柱がそそり立つ柱廊がはるか先まで続いているように感じましたし、神殿の奥の薄暗い奥から立ち昇るアウラを感じたり。
衣装の意匠も素晴らしく、無からの創造よりも、古代エジプトの絢爛を汲み上げて再構成するほうが余程苦しいプロセスだと感じるほどでした。
生きた馬が登場するのは、知っていましたが、実際に見ると迫力抜群です。
「アイーダ」ともなると、超人気演目ですので、いつもとは違うお客さんが多いようで、なかなか面白く、例えば、指揮をしたミヒャエル・ギュットラーがカーテンコールで舞台上に姿を表すと、「キャー、イケメン指揮者っ」、とか「マジカッコいい、マジカッコいい」という声があちらこちらから聞こえてきたように思います。まあ、確かにイケメン指揮者なので異存はありません。
ミヒャエル・ギュットラーは、前回「フィガロの結婚」で登場しましたが、あの時は音楽の制御にずいぶん苦労していたように思いましたが、今回は、冒頭は少しハラハラしましたが、以降はオケ合唱含めて最後まで統御し切っていました。テンポのコントロールは前回の「フィガロの結婚」の時のように無理矢理感がなく、流れの中で波立たせるところは波立たせ、流すところはきちんと流す説得力の高いものでした。
キャストですが、外国勢三名は、大オケと張り合う強力な声量の持ち主でした。特にアムネリスのマリアンネ・コルネッティの最終幕は素晴らしかったです。パワーと情感が混然一体となっていました。
アイーダのムーア、ラダメスのヴェントレも声量はバッチリ。もちろん細かい点に気になる点などはありましたが、やはり声量がないといけません。
冒頭、みんな、なんだか疲れているようで、縦線が合わなかったり、歌の細部の処理がうまくいっていなかったりと随分心配したのです。ところが、ムーアが登場して、アイーダをガッツリ歌った途端に空気が変わりました。少なくとも私の頭のネジががっちり締まったのがよくわかりました。すごかったですよ。
いろいろと思うようにならないこともありますが、十指に入る名演といっていいと思います。4時間きっちり堪能することができたと思います。
暮れなずむ新国立劇場はほんとうに美しいです。特にこの手摺のランプに灯りが灯るのが最高です。
本日は一旦ここまで。書きたいことたくさんだなー。
国立西洋美術館で開催されている「ラファエロ展」に行って来ました。
ルネサンスの産んだ美の寵児ですからね。見に行かないわけには行きません。
しかし、本当に天才ですね。私の師(老ギタリスト)であれば、きっと前世で相当な努力を積んだ天才だ、と言うでしょう。
まず驚いたのはこの絵です。
のっけからのけぞりました。10代後半の作品にしてこの完成度ですから。確かに、左下の女性の手は荒削りですし、王冠の書き込みもまだまだ早熟な感はあるのですが、肌のグラデーションの美しさは感嘆するばかりです。
以前であれば、神の不公平さを嘆くところですが、今の私は、師(老ギタリスト)によりインド風の輪廻転生を方法論的に使うことを覚えましたので、然るべくしてそうなった、と理解出来ます。
このシリーズ、少し続くかも。未だ書きたいことはあるのです。細密さ、グラデーション、布地の描き方、不自然な描写による自然な構図、などなど。
今日はしばしの休息。仕事終わらないけれど、最後につじつまを合わせるのがプロらしい。難しいけれど。
バークレー出身の老ギタリストとの対話。彼との会話は4回目です。まるで、彼の話にいつも出てくるスパイラル、サイクリック、という言葉のように、同じような話題を繰り返しながらも、そこに変奏が加わり新たな意味が立ち現れる、という感じになっています。
今日はありがちな対話調で書いてみます。よくある対話形式のパロディです。真似きれてないですが。。
一ヶ月ぶりの授業だね。ジェリー・ベルゴンズィを聞いた?
もちろんです。彼のフレージングには驚きや意外性があります。
そうそう、unpredictableだね。ベルゴンズィは、偉大なミュージシャンには珍しく偉大な教師だ。エリック・アレキザンダーと同じくね。これは稀有なことなんだよ。
※:ジェリー・バーガンジィーとも発音するみたいですが、彼がベルゴンズィと発音しているように聞こえますので、これでいきます。
あなたは、ショパンやバッハを、ジャズ・ミュージシャンでもあり、ヨギでもある、とおっしゃいます。ヨギとは、ヨガをする者のことです。ショパンやバッハが瞑想というのはどういうことでしょう? 彼らが瞑想しているなんて話は聞いたことないですし…。
そうじゃない(笑)。彼らにとっての瞑想Meditationとは、音楽なんだよ。アインシュタインについては考えることが瞑想Meditationだし、画家にとっては描くことが瞑想Meditationなんだ。もちろん、ヨガだって瞑想Meditationだがね。
そもそも、Museという言葉があるだろう。ギリシア神話に出てくる9人の女神のことだ。諸学芸の神々で、ミューズとかムーサなどという。作曲家はミューズの助けを得て作曲をする。画家も科学者も同じだ。そうしたミューズとの交感が瞑想Meditationなんだ。
なるほど! あなたのおっしゃる瞑想Meditationとは、そういうことなのですね。超越する何かにコネクトする、とあなたはおっしゃっていましたが、それらを総じて瞑想Meditationと表現しているのですね。それは私には哲学的な認識の前の「直感」に思えます。
そう。全てはつながっているんだ。たとえば、君は本当はずっと音楽を聴いたり楽器を吹いたりしたいだろう。だが、現実はそうは行かない。働いて食べて行かなければならないのだ。だがね、そうした働くという行為も、実は瞑想Meditationにつながるものだ。たとえば、働くことで、意志力、忍耐、克己、持続といった徳性を鍛えるんだ。そして考え努力する。それが来世Next Lifeでの開花につながる。
君が今開花できないのはこれまでのカルマによるものだ。人生は繰り返す。首飾りのようなものなのだ。今この人生において自らを鍛えることで、来世Next Lifeで、例えば音楽家として開花することだってできるんだよ。
G: 今日の話は、Food for thoughtだ。考え続けるんだ。
私:わかりました。ありがとうございます。
彼の話は、仏教思想に裏打ちされたスケールです。信じるか信じないかはともかく、人が一生を終えるまで努力し続けることに意味を見出すことができる思想です。私は、西田幾多郎の哲学を思い出しながら聞いていました。
イギリス人の彼から日本人の私がそうした仏教思想のレクチャーを受けることが不思議というか奇妙というか、そういう気分になりました。おそらく、70年台のアメリカで暮らしたことがあるので、ヒッピー文化の影響を受けているのでしょう。
もちろんこうした考えに盲従しないまでも、モティベーションを高める考えとしてこうした考えに肯うのは合理的だと思います。そのまま信じるという誘惑にも駆られますが、合理主義者としてはなにか引っかかりを覚えるのも事実ですので。
また、音楽を聞くことが瞑想なのだ、というテーゼは、私の瞑想感を変えました。私は坐禅やヨガが瞑想だと思っていたのですが、それは浅はかな考え方でした。
確かに、音楽に集中している時、矛盾するようですが、音楽とは関係のない思いがどんどん膨らむことがあります。音楽を聴くという目的からは外れたことですので、これまでは集中できていない証拠だとネガティブにとらえていました。ですが、実は音楽によって、超越世界と交感することによって生み出された考えなのであり、それはそれでポジティブに捉えてもいいのではないか、と考えました。
次回は来週です。
この一ヶ月、バークレー出身のギタリストとの対話はありませんでした。というのも、私が仕事を休めなかったからです。
ですが、明日のお昼、話をする機会ができました。楽しみですが、どんな会話になるのか。。
前回の対話において、私は彼に詰められたのです。曰く、「サックス奏者なのにJerry Bergonziを知らないなんて!」
マイケル・ブレッカー・バカな私にとっては、サックス奏者はマイケルただ一人(大げさ)。マイケルの参加アルバムは100枚ぐらい持っていますが、その他のサックス奏者のアルバムは、サンボーンとか、ボブ・バーグとかそういう方に限られています。ジャズ好きの方から言わせれば、勉強不足なんじゃね、ということになります。
で、ですね。先日から聞いているのです。ジェリー・ベルゴンズィをJerry Bergonziを。
(Bergonziというえば、私にとってはテナー歌手だったのです。カルロ・ベルゴンツィ。)
聞いているのは、ハル・ギャルパーのアルバム「Rebop」。
あれ、ベルゴンズィって、ブレッカーにそっくりじゃないですか。。
マウスピースはラバーだし、マイケル・ブレッカーよりもフレージングが持たれ気味で、崩した感じなんですが、フレージングのセンスはすごく似ています。マイケルよりずっとストレート・アヘッドですが、臭みがなく、スマートです。いわゆるフュージョン奏者がやるストレート・アヘッドなハード・バップ、って感じです。私の好み。まさに。
ベルゴンズィのアルバムをみてみると、(当然なんですが)、マイケル・ブレッカー人脈とかぶっています。ピアノのジェイ・カルデラッツァとか、ドラムのアダム・ナッシュバウムとか。両名とも90年近辺でマイケル・ブレッカーのソロ・アルバムに参加していた方です。
そして、ハル・ギャルパーも、マイケル人脈の一人です。70年台に、マイケルとランディのブレッカー兄弟はハル・ギャルパーのアルバムに参加しているんですよ。こちらです。
このアルバムは、学生時代に聴きまくりましたので、思い出深いですよ。
ほんと、まだまだ愉しみがたくさんあるんだなあ、とおもいます。またサックス吹きたくなりました。仕事を引退してからかもしれないけれど。
いろいろありまして、全く楽しいスリリングな毎日です。きっとあとから振り返るといい思い出になるんだろうなあ、とおもいます。
Macが我が家にやってきて2週間がたちました。こちらも毎日驚きの日々です。
やっぱり、いいデザインの道具を使うと、嬉しくなります。
たとえば、電源コードだって考えられているのですね。ただ、単にコードを指すだけじゃなくて、マグネット式で着脱が容易だし、上下どちらで取り付けてもOK 。でもって、コード側にLEDが付いているので、本体側に余計な電力は不要ということ。
光るLED
ここがマグネットになってます。
でもってリバーシブル。
仕事がはかどりますね。嬉しいです。
さしあたり、今週末はお休みです。でも、あらゆることの先はまだ長い。頑張らないと。
今日は久々の休みだったんですが、社命試験に出かけたので、体は休まりません。火曜日、やっと休める予定なんですが、予定は予定ですのでどうなることやら……。
というわけで、2週間ぶりにスタバ。
4月のNHKBSプレミアムシアターは以下のラインナップです。
明日は、さしあたり戦い、明後日休みます。本当は上野の国立西洋美術館に出張りたいんですが、どうなることやら。。
それではまた。
しかし、働きすぎです。でも、今のところですが、しんどいけどなんか面白い。まあ充実してるんでしょうね。なーんちゃって。明日も頑張ります。
今日からドビュッシーのペレアスとメリザンドを聞いています。フランスものが聞きたくて。
この響きはパルジファルなんですね。柔かな響きの中に無数のゆらめきが遊弋しています。
後悔してもしきれないことがあります。故若杉弘さんが新国立劇場で振った「ペレアスとメリザンド」を聴きにいかなかったことです。本当に残念。行けば私にとっての世界が変わっていただろうに。
そういう意味では、オペラに行くたびに私にとっての世界が変容して行くのでしょうね。ひとつの強固なオペラという実在に接して、世界が少しずつ開いて行くような。
それは、多分CDで聞いたりやDVDで見るオペラより、実演に接した時のほうがより一層強く感じるとおもいます。
「ペレアスとメリザンド」、CDで聴いてもこんなに刺激にあふれているのだから、実演だったらなあ、と。新国立劇場でやってくれればいいのに。
まだまだ実演で聴きたいオペラたくさんあるなー
先日の3月5日の明け方、昼型への復帰を宣言しましたが、残念ながら、3月6日は、午後2時から翌日3月7日午後6時までの徹夜となりました。
あ、これは昼型への復帰の大切なプロセスでして、本日からは無事に通常勤務に戻りました。
さて、マリー・クレール・アランが亡くなったそうです。2月26日ですか。
マリー=クレール・アランで初めて聞いたバッハのトッカータとフーガニ短調。小学校六年の時でしたね。衝撃で、何度も何度も執拗に聞ききました。鋭利で激しい演奏にのけぞりました。
一度聞きに行きたかったなあ、とおもいます。ほんとうに残念
それで、ナクソス・ミュージック・ライブラリーでアラン女史の演奏を聞いているんですが、MACって音がいいですね。ヘッドフォンなしで鳴らしているんですがちゃんとステレオで聞こえています。音もいいですし、ちょっと音楽を聞くには本当にちょうどいいです。今まで使っていたThinkpad x201sとは違います。エンタテナーだけありますね。感動です!
仕事は忙しいですが、これまでとは違うジャンルの仕事で、新鮮です。結構面白いです。新人の時以来の新鮮さを感じますねえ。もう少し頑張れそうです。
ではまた