このところ、実業に勤しみ過ぎていましたが、この日だけは忘れることはありませんでした。辻邦生生誕99年。来年は、生誕100年を数えることになります。
私が、辻邦生と出会ったのは、1989年のになりますので、爾来35年。
辻邦生には多くのことを学びましたが、その多くは、実生活で役に立つものなのかもしれません。世界に満ち溢れる不合理も、その多くは辻作品の中に書き込まれていて、これは申し述べるべきことではないのかもしれませんが、何か処世術のように、私の心身に沈み込んでいるようにも思います。逆にいうと、辻作品の読書として恥じない生活を送るのも一つの目標になっているようにも思います。
今日は、やはり辻邦生が愛したであろう、マーラーを聞いています。第5番をハイディンクの指揮で。
実業に満たされた毎日の中では、マーラーを聞くことでさえ、贅沢品に思えます。そうです、贅沢でも良いではないか、と思います。Audibleや、Udemyを聞くだけが人生ではないわけです。
人生も、おそらくは折り返した今となっては、生きることと、死ぬことすらも平坦に感じます。その辺りは、「西行花伝」にもあったように思います。生きる意味とは、こうした、音楽を聞き、文学に浸る美的な感興もその一つではないか、と思います。そこには、人の評価もなく、ただただ、ミューズ(美神)との対峙があるだけであり、それが、いわゆる、人との繋がりを前提とする、他の生きがいと異なる、純粋性を保つポイントではないか、と思います。
純正だから良い、というわけではありません。およそ、この世にあるもので、味気のあるものは、雑味もあり、複雑で、純正とは言えないのです。
そんななかで、時に、純正なのは、善なるものといえましょう。正しさではなく、善性でしか語れないもの。それも主観的善性であり、この局面では、普遍的妥当性も客観的必然性も不要で、共感と信頼だけで良いのではないでしょうか。
そんなことを、考えるようになったのも、辻文学に親しむ機会を得たからなのかも、と思います。
個人的には、今日もまた仕事でしたが、昨今、またそれとは違う直感を得る機会もありました今朝も、夜の開ける前に、枕元の窓をあけ、暗暗とした、夜空を眺め、夜空を敷き詰める雲が地上の光を写しとり淡く光るのをみながら、何か、生きるための道程のようなものが見えた気がします。それは、幻かもしれず、思い違いかもしれませんが、おそらくは、この40年思っていたこととも重なるので、ある種真実なのでしょう。
といことで、今日はこの辺りで。感慨深いことは、辻邦生の誕生日やご命日で起きる気もします。次は、何が起きるのやら。これが、啓示だとしたら、ありがたいですし、思いつきでも、それは趣のあることだと思います。
ということで、また。
おやすみなさい。グーテナハトです。