Tsuji Kunio

今年は辻邦生の生誕100年ということで、日本各地で様々なイベントが比較されています。その中でも今回は松本で開かれている辻邦生展に行ってきました。

仕事を18時に終え、東京駅へ向かい、あずさ49号に乗車。松本には22時少し前に到着しました。あずさ49号は中央線内の安全確認の影響で5分程度の遅れ、東京駅から八王子近辺までは通勤列車の間を飲むように走っており、速度を上げることなく走り続けます。しかし、この区間を特急で乗車したことがなかったため、例えば四谷駅や中野駅を通過列車に乗ると言うのはなかなかない体験でした。

松本には、おそらくは1998年頃に行ったことがあるはずです。当時の記憶はうっすらとあるぐらい。

駅前のホテル1泊。朝7時過ぎに朝食を取り、そのまま、歩いて松本城に向かいました。途中、女鳥羽川をながめ、四柱神社に参拝し松本城へ。

開館前の松本城は光り輝いていました。

辻邦生は、旧制高校時代を松本で過ごしました。短編集「ある生涯の7つの場所」に含まれる「夏の海の色」という短編に出てくる城下町のモデルの一つになったのでは、という話を聞いたことがあります。確かに、作品に登場する「鍛冶町」が松本市にはあったりします。この「夏の海の色」に描かれる城下町は、夏の日差しの中に静かに光り輝く城下町で、主人公が泊まる咲耶の家は葵馬場にあったとされています。帰宅後調べてみると、この葵馬場は、松本に実在しているようで、松本城近く、松本神社の東の方であったとされます。

開智学校へ向かうバスから、この松本神社をたまたま見まして、あ、ここは行かないと、と思い、急遽寄ったのですが、これは何かに呼ばれたかな、と思いました。以下が松本神社。私の印象は淡い朝日の中に静かに佇んでいた感じでした。

城下町の風情は、城の西側によくその雰囲気があったと思います。松本城に行くまでは、「夏の海の色」のことを忘れていたのですが、バスを待っているときにこの風景を見て、あ、ここだったのか、と思ったのでした。そうか、この雰囲気を辻邦生は短編のなかに封じ込めたのかもしれない、と思いました。

辻邦生も見たかもしれない柳の老木があり、ついつい、触ってみたりしました。

今回は秋でしたが、ぜひ夏の盛りの松本を訪れてみたいな、と思います。おそらくは、さらに輝く松本の街並みを見ることができるのではないか、と思います。

続きます。今日はここまで。おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

中公文庫で今年の春に発売されていた「小説を書くということ」

これまで、単行本に未収録だった文章も所収されているということでKindle版を買い、ついでに、軽井沢高原文庫で文庫本にも手を出してしまいました。

そのなかでも、「小説家としての生き方」が割と興味深く、何度か電車のなかで読んでいた感じです。こちらは、「詩と永遠」に収められていた文章なので、かつて読んだはずですが、あらためて勉強になりました。

こう考えてきますと、力強い小説(それは面白い小説とも、昂揚感を与える小説とも攫搏力のある小説とも時代の鏡である小説ともいえるわけですが)を書くためには、小説家の側に全体を鳥瞰(直覚)する視点と、確信できる価値の根拠が必要ですし、また小説形式については「情緒=観念」の伝達という、事実的情報伝達を超えたレヴェルの確認が絶対的な条件になるでしょう。

力強い小説には、

  • 鳥瞰し直覚する視点
  • 価値の根拠
  • 事実を超える情緒と観念の伝達

が必要であると。

しかし、これはなにか、小説に限らず、仕事で力のある企画を作るのにも共通する要素でもあります。全体感のなかで、価値を見出すこと。しかし、そこには、定量的な効果を超えるビジョンがなければ、通る企画も通りません。ナラティブ、ストーリーが企画には大切だ、と言われることもあります。

しかし、ここまで書いておきながらなんですが、小説のそれと、企画のそれは、違うこともあるのです。私は、それは、量感であると思います。チャラチャラした企画資料に、全体を俯瞰したビジョンと物語を組み込むことはできても、それは単なる企画であり、完成品ではありません。そこに、中身がなければ、単なる小手先なわけです。小説は、おそらくは、そこにかけられた時間と文字というものがあります。そこにはロジックだけではなく、あるいはあらすじだけではない量感があります。それが、真の情感を生み出すわけです。

過度な効率化、あるいは本屋に溢れる仕事術、ロジカルシンキングの類は、確かに、そこにある種の解決感を生みます。数多の経営者がそうした企画な飛びついたわけですが、そこに残されたのは、空漠とした社会であった、となります。

小説家は、そこにかけられた時間、まるで、降り積もる時間のなかで、文字を穿ち、たとえ100匹の羊を数えることがあっても、100匹それぞれの羊を書き分けることになるのでしょう。AI時代のこれからは、あるいはこうした文字を穿ち量感を持つ小説が再発見されるかもしれません。

ちょっと長く書いてしまいました。すみません。それではおやすみなさい。

小説を書くということ

Richard Wagner


今週に入り、初心に戻るか、と思い、ヴァーグナー。「トリスタンとイゾルデ」を2枚聴いた。ペーター・シュナイダー、ウェルザー=メスト、そして今は3枚目のバーンスタイン。いずれも好みの演奏で嬉しい限り。

バーンスタインは、もっと遅い演奏と思ったけれど、確かに、冒頭のテンポは緩いが、曲が進むと割とメリハリが効いている。巧いんだなあ、と。

前後するが、ペーター・シュナイダーは、バイロイトのライブで、当時ネットラジオで聴いたものだ。数年後、この演奏を聴いて、なんだか150年間経っても戦争が終わらないことが嘆かわしくなったのを思い出した。確か大阪出張の新幹線の中のことだ。

賛否はともかく芸術はそれ自体真善美と信じることにしているが、まあ、音楽聴いてそんなことを思うのも趣のあることなんだろうし、いくばくかは世界がよくなることに寄与しているのだろう。

もちろん、第二次大戦中の政治利用はカッコに入れて継続考察なのだが。

さらに、夕方からは、Richard Wagner のTristan und Isoldeを、カルロス・クライバーの録音で聴く。

ドレスデン国立歌劇場の名盤。東ドイツ時代なので、国立でよい。州立ではないのだ。録音はルカ教会だったはず。素晴らしいリバーブ。録音は最高。そういえば、荻窪にあったベリオ(だったかな?)というスタジオのリバーブ感は素晴らしかった。


トリスタンはルネ・コロなはず。数多のヘルデンテノールの代表格の方。


指揮の方は、やばいぐらいグルーブしている。芸術は死と隣り合わせ、という感じ。彼岸と繋がらないとこういうのは出てこない気がする。


さて、最近、また、書かないとな、と思うようになりまして、ブログ、Facebookなど、いろいろと。先日は、辻邦生展を見に軽井沢に行きましたので、その辺りも、レポートしてみようかな、と思います。

それでは、おやすみなさい。グーテナハトです。

Jazz

二週間前だったと思いますが、ゴンチチがDJをされている「世界の快適音楽セレクション」で、1999年11月20日放送のリバイバルオンエアがありました。そうか、辻先生が亡くなった年の録音のリバイバルだったのですね。

そのなかで、Michael FranksのBarefoot on the beachという曲が取り上げられたのですが、いやー、本当に素晴らしいフュージョンサウンドで、Apple Musicで、繰り返し聞く日々。さらに、Michale Franksのアルバムも、70年代あたりから色々聴くと本当に面白いのです。

https://music.apple.com/jp/album/barefoot-on-the-beach/258588770?i=258588809&l=en-US

70年代は、デイビット・サンボーンやマイケル・ブレッカーとコラボレーションしていたこともあり、素晴らしいサックスプレイが聴けるわけです。さすが、サンボーン、ブレッカー、という感じ。

もう二週間も聞き続けているので、そろそろ次のテーマに移った方がいいのかもしれませんが、差し当たり、こちらでも記録。同じアーティストを70年代、80年代、90年代と聞いてみると、時代ごとのサウンドがわかり、なかなか面白いです。何度か触れたかもしれませんが、私は自分が若い頃に聞いたサウンドに親近感を持つことが多いのですが、確かにそうかもね、という感じです。

今日はこの辺りで。おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

1925年9月24日が、私の敬愛し尊敬する辻邦生の誕生日で、今日がその100年という日に当たります。亡くなったのは、1999年ですので、四半世紀を超えてしまうのですが、なんとも言えない世界の断絶を感じます。

1925年から考えると、第二次世界大戦を超え、占領から冷戦へと進み、高度経済成長とバブル崩壊、ソ連東欧も崩壊し、ITバブル、リーマンショック、テロとの戦い、中国の勃興、中東危機を超えて、ウクライナやトランプと続く100年です。

私も、半世紀を生きていますが、目眩がするほど遠くへ来てしまったという感覚があります。時間はもはや距離へと転化してしまい、クロニクルという段組のなかに格納されているように思います。人生100年と言われ、無邪気に想像すると、この先も長いのかも、とまた新たな目眩を覚えます。

辻文学は、物語構造を総体で捉え、それを分解して記述するようは思います。全体が把捉された物語総体が、少しずつ顕になるというのは、物語総体から美的な迸りが徐々にその形を詳細化していくさまは、おそらくは天地創造のそれと類似するのでしょう。イザナギイザナミの矛の迸りが日本を産んだように、物語総体を原稿用紙に写しとる営為がおそらくは小説を書くということでしょうか。しかし、その物語総体自体、その自己実現のなかで、それ自体変異することもあり、それは、神意の歪みのようなものでもありましょうから、原稿用紙に書く作家とは、おそらくは、そうした変異を歓びとして、日々の創作に向かうのだと思います。

辻邦生もその歴史小説の創作の営為のなかに、歴史書を読み、いっとき忘れる、ということがあると書いていたと思います。忘れるということで、知識が潜在意識へと遷移し、なにか、間主観的な記憶や情報と交感することで、物語が湧き立つ、といった趣旨だったと思います。ミューズのような存在がいて、発想を与えるというエピソードは多く語られていますので、そうした、主観、あるいは顕在意識を超えた何かが創作に多く関わるのは疑いはないのですが、こうしたミューズには、捧げ物も必要で、それが、知識であったり、毎日書くと言った人間の関わりが、そうした捧げものに当たるのでしょう。

若いころは、結局は人が考えだすのが小説だと思いましたが、そうでもないのか、ということは、辻邦生の書く小説論で頭でわかりましたが、その後の人生の積み重ねのなかで、実際のものとして体感できたのは、この数年のことのように思います。私は小説を書くことはありませんが、高校時代に、国語表現の課題で書いた小説のようなものは、何か、無邪気に、何の執着もなく、数十分で書いたように思います。ビギナーズ・ラックのようなもので、まあ、ビギナーズ・ラック自体が、執着のないところに発生するのと同じく物語を紡ぐということは、やはり、執着をこえ、知識や努力といったミューズへの日々の捧げものにより、彼岸からもたらされる美的なな迸り、といったものなのでしょう。

最近は仕事ばかりで、辻邦生を読むことも能わず、あるいは、小説を手に取るのも難しい時期なのですが、この数ヶ月、なにか辻邦生に誘われるようなことが何度かあったように勝手に感じることが多いように思います。辻邦生の御命日に金魚が亡くなったのもその一つの表徴だったと思います。最近は、新たな短篇集も出版されました。一読者として喜ばしいと思います。

このAI時代に、ミューズへの捧げものとか、流行らないのかもしれませんが、結局、AIに取ってかわることのないものは、人間が、彼岸と交感し、創り出したものではないか、と思います。私も、仕事で、AIが進歩した世界を想定しないといけないのですが、そこがディストピア思えることもあります。そんな世界について、堀江貴文さんは以前聞いた講演で、芸能や娯楽が価値を持つ世界が来る、といっていました。小説や音楽などの芸術もやはり、これまで以上に価値を得るのか、次の100年ではないか、などと思います。

ともかく、こうして、本を読み、考え事ができるのも、1989年に辻邦生を、初めて手にとったからです。その時からも、36年が経ちました。干支としては、3周したということになります。やはり、これも一つの節目かもしれません。

久々に長々と書いてしまいました。今年が節目ということもあり、辻邦生さんの100年目という今日から、また新たな気持ちで生きていこうかな、と思いました。100年という、特別な日にこうして書くことができることに感謝して。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

Ludwig van Beethoven

今日の午後、小さい子が「エリーゼのために」を弾いているのを聞きました。グランドピアノで弾くそれは、ふくよかな音と、静謐な和声に彩られていて、いいしれぬ幸福を感じたのでした。またさらうには至らないので、たどたど引く弾くその演奏は、楽曲に至りませんが、そこには確かに、ベートーヴェンの和声が現れていて、それだけで、18世紀末の市民革命を待つ時代の空気を感じさるものでした。

というわけで、ベートーヴェンのピアノ曲を聞きたいということで、ポリーニのベートーヴェンソナタ全集を。ポリーニの弾くドイツ音楽は、ドイツの中にあるロマン主義を抽出するように思います。ルター的、あるいは、ホフブロイハウス的な民衆性とは違う静かなドイツ。ヘッセ的なもの。そんな感じです。

さて、夏真っ盛りで、夏が好きな私は幸せですが、夏の終わりを予感し、寂しさを覚えました。暑さのもたらす難しさも多々ありますが、これも地上にいるが故の幸せの一つと思い、夏の日差しや蝉の鳴き声を楽しもうと思います。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

先週末の夕暮れ。三日月から太陽を追いかけながら、地平線に身を投じようとしています。

それにしても、昨日の出来事は、個人的には大変な思いを感じるものでした。このところ、こうした文章を書くことをサボっていたのは否めないので、何か怒られたような気がしたのも事実です。辻邦生は、「ピアニストがピアノを弾くように文章を書く」と書いています。私も、かつては、書評誌に書評を書いたこともあったなあ、と遠い記憶を感じたりもします。何度も書きましたが、高校時代に、ワープロを入手し、時を忘れて文章を書いた時のことが思い出されます。最近は、生成AIが清書してくれますので、仕事のレポートも、粗々のメモを役員用のメモにして、と生成AIにお願いして作ってもらっています。とはいえ、生身の人間が、自分自身で書くということもしばらくは廃れないでしょう。これは、手書きかワープロか、と、人間が書いたか生成AIが書いたかは、本質的に違うと思いますので。素人が仕事を語ると、それがたとえ正しそうであっても、うまくいくことはないように思います。人間は、事物の向こう側の文脈や物語を見ています。生成AIには、それがありません。それは、いくらロボットが超絶技巧の演奏をしたとしても、生身の人間の演奏と同じ感動をもたらさないことと似ているでしょう。

ともかく、いくら生成AIを活用しても、仕事は増えるわけで、それは、コンピュータが発達したことで、かえって仕事が増えたのと同じなので、驚かないわけですが(あるいは、数年後には本当に人間の仕事がなくなる、という危機感は増すばかりですが)、そんなわけで文学作品を読む余力はなく、仕事に関連する文章を読んでいる気がします。

そんななかでも、素晴らしい本は、五百旗頭真先生の「日米戦争と戦後日本」という本。いかに、終戦に至ったのか、が、米国側の視点で描かれていて、大変感動したのです。終戦がなったのは、米国側の知日派の並々ならぬ戦いがあったわけで、その知日派の方々と親交を深めた日本の政治家や軍人の長きにわたる努力があったということ。そして、早期講和に繋がった米国の厭戦を導いたのが、賛否もありますが、戦った方々の想いであったのでは、ということでした。

仕事に、直接関係あろうがなかろうが、視野を広げて、多くの人と繋がっておくこと、そして、最後まで無駄だと思わずにやり切ることは大切なことですが、そんな当たり前ですがなかなかできないことをあらためて教えてくれてのがこの本だったと思います。もちろん、それは、仕事に限ったことではなく、あらゆる場面で同じだと思いました。

それにしても、国際政治史は興味深いです。辻邦生の「春の戴冠」も「ユリアヌス」も「嵯峨野明月記」も、いわば国際政治小説とも言えます。こうした知見は、仕事においてもよく役立つものです。

暑い夏の最中に、80年前の今日、まさに、ワシントンと東京でギリギリの判断をしていたのを思うと、いまの日本の発展にありがたさを感じるばかりです。

それでは。長々とすみません。ここまで、27分でした。

おやすみなさい。

Miscellaneous

今日、7月29日、この一年、私たちを楽しませてくれた金魚が亡くなりました。

生命が失われるのを見るのは、いつでも辛いことですが、あのとき、こうしてあげればよかったのでは、などの後悔もあるのは否めず、何か寂寥とした思いに囚われています。

奇しくも、今日は辻邦生の26回目の命日でした。1999年のあの日を私は忘れないでしょう。そして、こんな日に、小さな命が消えたのも何かの縁でしょうか。

最近は、何をもなしえぬまま、俗世の仕事にまみれる日々で、何かしら咀嚼しえぬ思いも抱えながら日々過ごしている感覚があります。

あの金魚を喪ったことは、なにかを私に伝えるものではなかったか、とも思うのです。数ヶ月に渡って、本調子ではなかったあの金魚が、数ヶ月耐えに耐え、よりによって、辻邦生の御命日に逝ってしまうとは、偶然の所産とは思えないのです。

あの子が回復したら、新しい水槽に五色の砂利を敷き詰め、清らかな水を注ぎ、また、ゆっくりとした生活を送らせてやりたい、と思っていたのに、今日この日に逝ってしまうとは。

あらゆる生き物はいつかはこの世を去りますが、そこには何かしら意味があります。彼、あるいは彼女は、こうして何かを伝えて旅立ったということは、そこに意味があるわけで、そこに意味を見出すのが、生きている我々の努めなのでしょう。

私は、今日のこのことで、なにか、通底するさだめがあるのだと思いました。それは、人智を越えた何かで、語ることの許されないものなのだと思います。

実際、こうして、意味を見出した、といって、私自身が心の整理をつけようとしていること自体が、何か利己的で弁解がましいものなのかもしれません。それは否めない。ですので、この瞬間は、感謝と謝罪を繰り返すことしかできず、時が経つにつれ、世界全体がそれを理解し赦し、一つの平穏な世界へと回帰していくことになるのでしょう。

世界は波であり円環ですので。

ともかく、暑い日が続きます。みなさまもどうかお身体にお気をつけてお過ごしください。

おやすみなさい。

Miscellaneous

徒然なる日々が続いています。

最近、糖質制限を、初めて見ました。忙しすぎて、なんとか体調を上向きに、という意図で、ついでに、アルコールも控え気味に。

始めたのが、先月、4/24から。なるべく白米含めて、炭水化物は取らず、肉、野菜、果物を、取る感じ。

変わったことといえば、朝、ちゃんと起きられるようになったことかも。ゴールデンウィーク中も、割と早めに起きられまして、これはもしかして、いい方向なのか?とも。体重ももちろん減るわけで…。

一日一度は白米を食べても良いようなのですが、食べると眠気がひどいので、それもやめてしまいました。最近は、コンビニでチキンが売ってますので、白米抜きでも全く問題ないです。

パスタや海鮮丼などは食べられないのが残念ですが、しばらくは、続けてみるかな、と思います。

今日は差し当たり。。

Book,Classical

昨日、久々に、池袋のジュンク堂に行って、いつものように、9階にエレベータで上がり、一階ずつ降りて行きながら、さまざまなジャンルの本を渉猟するということをやりましたが、冒頭の9階で見つけたのが、クラウディオ・アバドの伝記とも言えるこの本で、何を聞くにもアバドに戻ってきてしまう私は、早速と買ってしまったのでした。最初に、ベルリンフィル退任界隈の章をざっと読みましたが、なるほど、そういう形でベルリンフィルをやめ、ルツェルンの仕事を進め、スカラ座で振ったりしていたのか、と、舞台裏を見るような感じでした。芸術性と人間性は必ずしも一致しないこともあるのかも知れませんが、描かれるアバドの姿は、西欧の規範である真・善・美からなる美しい均衡が感じられるものだと思います。音楽は人生のとって大切なものの一つ。このウェブログは長く辻邦生の文学について考えてきましたが、辻邦生のいう「美が世界を支える」というのは、これは本当に真実なのではないか、と思っているのですが、ほんの帯に書かれたアバドの言葉もまた、真実である、と確信するものだと思います。久しくこうした思いに身を寄せる機会を喪っていましたが、時代がどんどんと変わる中にあっては、こうした世界の根源を目指すことに力を入れないといけない時期なのかも知れないと思います。

それではまた。おやすみなさい。グーテナハトです。