Book,Classical,Music

先日二度目を読了した岡田暁生「西洋音楽史」、読み終わったあとも、書き抜きをしたり、文章を書いたりして考え続けています。これは本当にお勧めですね。2005年出版ですので、もう8年前の本です。帯には「流れを一望」とありますが、一望どころか、どこから見れば眺めがいいのか教えてくれる良書です。


それにしても、全体の構造まで随分考えられたものだと思います。

まず、副題が『「クラシック」の黄昏』ですから。「神々の黄昏」を意識しているわけです。この神なき時代の音楽のありようを書いている終幕部分へむけての部分は圧巻です。

徐々に手の内が明らかになり、最後に、冒頭の中世の音楽の項目に思い巡らすことになります。循環形式的です。

新書ですので大変わかりやすく、それでいて、つくところはついていると思いました。こうしたパースペクティブを教えられたのは大きいです。
GW明け。ですが、GWも一日おきに会社に行きましたから。今日はやけ食いです。
ではまた。

Classical,Giuseppe Verdi,Opera

はじめに

我々日本人は知識として知っているだけで、体感することが難しい概念に「国民意識」や「自由の渇望」というものがあるのではないか。
この考えは、特に目新しい考えではありません。19世紀まで鎖国をしていましたので、国家間戦争の体験が少ないということや、西欧帝国主義への対抗措置としての富国強兵や、第二次大戦後の占領といった外圧によって、フランスが勝ち得た自由主義というものを与えられた、など、西欧諸国と異なった歴史をたどったのが日本という国です。
ですので、オペラを観るに際しても、あるいは西洋音楽を聞く場合に際しても、日本という場所を超えて、当時の西欧諸国の状況を思案しなければならない場合もあると考えています。

マクベスにおける反体制運動


マクベスにおいて、原作にはない合唱が挿入されている箇所があります。第四幕の第一場のスコットランド難民の合唱「虐げられた祖国」です。
コンヴィチュニーの演出においては、合唱団が歌い始めると客席の照明が付けられます。ありがちな演出なのだそうですが、これは合唱の内容は、観客にとってもアクチュアルな問題なのである、という事を気づかせるための仕掛けです。
日本も敗戦であったり震災であったりと、国土が荒廃することがあるのです。のうのうと劇場の座席に座っているわけには行かないのではないか、そう思わせる瞬間です。
この部分、原作にはないにもかかわらずなぜヴェルディは挿入したのかは、よく知られているように、当時のイタリア統一運動に端を発していると考えられます。
合唱は民衆の代弁です。こうやって、世論を汲み取り、芸術へ昇華し、政治への働きかけを試みているといえます。

イタリア統一とヴェルディ

**※ 本件については異論あります。(2013年5月18日追記)別稿「ヴェルディがイタリア統一で果たした役割の謎 」シリーズに記載しておりますのでそちらもあわせてどうぞ。**
ヴェルディがイタリア統一運動において特別な立ち位置にあったことは周知のとおりです。
Vittorio Emanuele Re D’Italia イタリア王、ヴィットリオ・エマヌエーレ の頭文字を取るとヴェルディになったため、民衆は、しょっぴかれることなくヴェルディ万歳!と連呼したというのは有名なエピソードです。当時のミラノはオーストリア領でイタリア統一運動は反体制運動でしたので。ヴェルディは時代にも愛されたのでしょう。
若いころは、イタリア統一を意識したオペラを作曲していましたが、実際の政治に関わりたくなかったという側面もあるようで、統一後のイタリアで国会議員になりましたが、あまり身を入れることはなかったようです。

終わりに

この本もヴェルディの項目を読み終え、ワーグナーの項目に入りましたが、言説はオーソドックながらも、考えをまとめるのに恰好な一冊です。

というわけで、連休も終わりに近づいています。3日も5日も会社に行きましたので、休んだ気がしません。まあ、人生「仕事」なんで仕方ないですね。

Opera

コンヴィチュニーの件、皆様のブログなどを拝読したり、もう一度演出メモを読んだりしました。

あまり外した意見ではなかったかと思いますが、もう少し女性なるものへの検討を進めた方が良かったと感じています。草稿のではそうした方向も書いていましたが、もう一息でした。

中には男性原理が諸悪の根源であるというような意見もあり、耳が痛いことこの上ありません。あらためて溝の深さを思い知りました。国家レベルの諍いよりも歴史が古いものですので難しいなあ、などと思います。

今もその「原理」に従い緊急呼び出しに応じ会社に向かっています。気が休まる暇がありません。

では、皆様よいお休みを。

Giuseppe Verdi,Opera

はじめに


先日参った東京二期会公演の「マクベス」。私はコンヴィチュニーの演出に参ってしまいました。「鬼才」と冠せられることはあります。
あえて文献や情報に当たらず、意見をまとめてみました。

演出について

狂言回しとしての魔女あるいは女性たち

一貫しているのは、魔女達が狂言回しとして、全体をプロデュースしているという設定です。登場する女性たちは、(一箇所を除き)みんな鼻が長い魔女になっています。
舞台の時代設定は現代です。魔女たちがいるのは、薄汚れたキッチンです。なにやら怪しいホームパーティーで、魔女たちは派手な身なりをした若い女達で、肩にフクロウや黒猫を載せていました。
そもそもの原作においても、魔女の予言が契機となって物語が進行しますし、第三幕でマクベスは魔女の予言を聞きに来ますので、魔女が物語のトリガーとなっているのですが、演出においてはさらにそれが押し進められており、例えばマクベス夫人に手紙を渡すのも、マクベスにダンカンを殺すためのナイフを渡すのも魔女ですし、4幕で反マクベス軍に物資(ここでは木ですが)を渡すのも魔女たちです。
そして、その最たるものは、すべての演奏は、魔女たちが囲み耳を傾けるラジオの中の出来事でしかなかった、という解釈です。
最終部分の音はオケの音が徐々に小さくなり、ラジオからしか聞こえないという具合になっています。最後のオケの盛り上がりは全くありません。肩透かしを食らった気分です。
ここは、どのように音を出しているのか、今のところよくわかりません。音の感じはオケがフォルテで鳴らしているようにしか聞こえないのですが音はラジオから聞こえるように小さくなり音圧も圧縮されているように聞こえました。
これは演出が音楽を完全に包含してしまったという事態なのです。
音楽的な解釈として最後ピアニシモで終わるということはありえないのです。当然ですが、スコアも最後はフォルティシモで終わっています。
全ては演出家の掌の中で行われたことだったというメタ・フィクションです。
これまでの2時間半にわたって、胸踊らせ心をときめかせて聞いていた生音のオーケストラが、実は誰でも聞くことのできるラジオ番組に矮小化されてしまったことへの当惑なのでしょう。私も呆気にとられてしまいすぐには拍手ができませんでした。
カーテンコールでコンヴィチュニー本人が登場した途端にブーイングが多数でました。そうした腹立たしさの現れなのでしょう。
ただ、このブーイングはおそらくは想定どおりなはずで、コンヴィチュニーとしては、してやったり、と思っているんじゃないかな、と想像しています。おそらくは観客の反応を引き出すのが目論見ですから。単なる拍手で終わるよりも嬉しいはずです。
魔女たちが舞台をプロデュースしているという事態は、女性が世界を動かしていることのメタファーになるのでしょう。マクベス夫人がマクベス物語の中でマクベスを動かすように、マクベス物語を魔女達が動かしているという構造になるわけで、二重の意味で世界を女性が動かしているということになるでしょう。

作曲家から演出家へ

今回のこの演出ですが、大げさに言うと、演出の音楽への再度の宣戦布告なのではないかと思ってしまったのです。
確かに戦後のオペラは、バイロイトのヴィーラント・ワーグナーの新バイロイト様式演出以降、演出が積極的にオペラを時代にそって解釈し、意味を創造するようになりました。
それでもなお、オペラの上演に際しては、まず始めに作曲家の名前が冠されるのが一般的でした。
しかしここでは、最後に主役であったと思っていたヴェルディがいなくなり、コンヴィチュニーが主人公になったように感じたのです。
少なくとも、オペラはまだ音楽の一ジャンルであると勝手に信じていましたが、実のところ、既に演劇や映画へと連れ去られていたのではないか、などと感じてしまったのです。これも少し大げさな言い方ではありますが。
私がオペラを聴き始めた頃のことを思い出しました。当初はオペラ自体が珍しく思えましたので、まずはオーソドクスな演出で当初想定された自然主義的な演出を期待していました。
ところが、そのうちに、オーソドックスな演出を打ち破って、そこに新たな意味を付加することの面白さに気づいていったのでした。
新国立劇場の一連の「ニーベルングの指環」を観て、演出からそこに付加された意味をいろいろ考えたり、あるいは、自分なりに意味を付け加えていくことの面白さでした。新国立劇場での「オペラ・トーク」で演出家から直に聴くオペラ演出の意図も刺激的でした。演出の重要性は十分理解しているつもりでした。
しかし、ここまで音楽を脇役に追いやってしまうとは。これは、オペラ・システムという音楽と舞台のコラボレーションの意味合いを変えてしまう、画期的あるいは破壊的なアイディアだと思ったのです。
パンフレットには「鬼才ペーター・コンビチュニー」とありましたが、これが「鬼才」たる所以なのでしょう。

演奏について

演奏についても触れておかなければなりません。
マクベス夫人を歌った石上朋美さん。当初不安定な部分もありましたが、徐々に調子が乗り始め、第四幕最後のマクベス夫人絶命の場所は素晴らしかったです。あそこは、素晴らしく安定していて、声も厚みのある豊かなものでした。
指揮者のヴェルディニコフの指揮も良かったです。かなり重みをつけた指揮で、ガッチリとした緊密な響きを現出させていました。奇をてらったり観客におもねったりするようなことは全くありませんでした。
がゆえに、コンヴィチュニーが最後のクライマックスをラジオからの音源としてしまったのが残念だったのです。最後の最後のカタルシスを奪われてしまった歯がゆさでした。

東京文化会館

そうそう。東京文化会館ですが、2月から今月にかけて3回参りました。ホールの音響として随分いいなあ、というのが印象的でした。
いまのところ私がもっともいいなあ、とおもうのはみなとみらいホールです。あそこの残響は素晴らしいのですが、東京文化会館は底までではありまえせんけれど、硬質ながらリッチな音響だと思います。
新国立劇場オペラパレスは、ちょっとデッドですので、いつもなにか欲求不満なところがあるのです。オペラパレスは材質が木ですが、東京文化会館はコンクリートですので、そもそも音響へのポリシーが違うのでしょう。

最後に

それにしても、本当に凄い舞台でした。しばらくはもう色々ぐるぐると思いが駆け巡っていましたから。。
演奏が始まったのが18時半で終わったのが21時15分。私はその後22時半から翌日の13時まで会社で働き続けました。毎年恒例のゴールデンウィーク特別対応のため。家に帰ってからはヘロヘロです。

Opera

今晩は徹夜仕事。これから明日のお昼まで。よく考えると、16時間勤務になるかもしれない。寿命が縮まります。まったく。

で、その前に、二期会のマクベスを観に行きましたが…

これはめちゃくちゃ強烈でした。

オペラ・システムの破壊ですね。

最後のクライマックスがラジオから聞こえる設定になっていました。スピーカーからオケの音が出ていたと思います。少なくとも私にはそう思えました。

実際にどのようなテクノロジで実現していたかは今のところわかりません。

ですから、クライマックスは生オケではない、ということになります。

さすがに、これはパラダイムシフトですよ。

生オケ前提の劇場で録音を聞かされたかのような感覚ですから。

演出したペーター・コンヴィチュニーもカーテンコールで現れましたが、ブーイングがかなり出ましたね。

みなさんどのような感想をお持ちになったのか、とても気になります。

取り急ぎ。

では、仕事にいってきます。

Opera

ビバ・リベルタ という本を読んでいます。オペラと政治の関わりについて論じた時間を忘れる本です。

ネットでは厳しい評価はあるようですが、そこまでひどいとは思えません。確かにどこかで聞いたことのあるような内容もありますが、むしろ復習・総まとめとしてはよくまとまっていると思います。

モーツァルトやベートーヴェンのオペラがフランス革命近辺に作られたということもあって、そこに階級闘争の要素が多く含まれるということを再認識しました。これも、解説書やパンフレットに書いてあることかもしれません。今、日本で思う以上の当時の空気感が理解できたと思っています。

以下の解釈は、当たり前とはいえ興味深さ満載。ベートーヴェンの「フィデリオ」の項で以下のような記載をみつました。

彼らは(フロレスタンとレオノーレ)、気は優しいが屈従的な看守長ロッコに代表される順応主義的権力加担的状況の中で孤立している。彼(ロッコ)は、気は進まないが、それでも従順な抑圧の執行者である。あらゆる体制が依存している順応的な補助的下役、とくに残忍で不当な連中のタイプである。

87ページ

これ、私ら中間なんとかと同じだなあ。そこまでひどくはないにしても。昔の軍曹ってこんなかんじだったんだろうな、などと。

ただ違うのは、階級の壁が容易でないにしても乗り越えられるかそうでないか、それが18世紀と現代の違い、と、思いたいところ。

「フィガロの結婚」を会社で翻案したら面白いという妄想。。セクハラ部長アルマヴィーヴァが、フィガロと社内恋愛中のらOLスザンナに言い寄る話、みたいな。そんなプロダクションは誰かが考えずみてあると思いますが。

Classical,Ludwig van Beethoven

いまさら感もありますが、ちょっと感動したのでエントリーします。

アバドがベルリン・フィルと作ったベートーヴェン交響曲全集のなかから「英雄」を聴いてみたのですが、あれ、こんなにカッコ良かったでしたっけ? みたいな驚き。

これ、ポルシェかフェラーリかわかりませんが、スポーツカーのように強靭でしなやかでスタイリッシュな演奏です。無駄な装飾を廃し、必要最低限のダイナミズムで、磨かれたボディのつややかさを感じます。

これ、アバドの凄さとベルリン・フィルの凄さの相乗効果です。ここまで機能的に動けるのはベルリン・フィルだからこそでしょう。

ネット上には、つまらん演奏だ、とありますけれど、カラヤン的新即物主義的でありながら、そこに幾ばくかの控えめな装飾を載せるような洒脱さがあって、私は気に入っています。

IMG 2608

なんだか休んだ気がしない連休ですが、「休め、整えよ」、という感じで過ごしています。

Computer

Dead On Arrival!

うーん、やはり復旧しませんでした。

先日からクラッシュした私の自作PCのデータドライブ3TBが飛びました。いろいろなバックアップディスクをかき集めて、昨年の11月時点まで復旧させましたが、ここで手詰まりです。

TESTDISKというCUIツールを使って復旧を試みましたが、どうもうまくいきません。これ以上時間をとることはできませんので、ここでストップです。

本来、ミラーリングで安全だったはずなのですが、RAIDが巧く働かなかったようです。おそらく私の設定が悪かったのか、あるいは3TBという大容量ディスクを2009年からバージョンアップしていないBIOSで無理やりミラーリングしたのが悪かったのでしょうか。あるいは全く別の不運な事故だったのか。

ともかくロールバックできませんので、ロールフォワードです。前向きに行きましょう。

幸い文書系はDROPBOXで無傷ですし、音楽ライブラリも3月末日にNASにバックアップしてありましたので、ほとんど影響なしです。やられたのは写真と某MS社のFS系ファイルですね。まあ、なんとかなるでしょう。

今回の教訓は以下のとおりです。

  • 同じ筐体での冗長化は避けよう。PC、NAS、クラウドといった別筐体別環境で冗長化しよう。
  • 特にクラウド。Googleドライブなどの有料プランを検討しよう。

皆様もお気をつけください。

Miscellaneous

今日は残業代縮減のため残業を自粛しました。この機会に、繁忙時間帯の速度を測定しました。

20時26分

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21時40分

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22時17分

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23時44分

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※路線長は1110m、伝送損失は19dbです。

光回線でマンションの場合、繁忙時間帯で10mbpsまで落ち込むこともあると言いますから、まあまあなのではないでしょうか。

えーっと、今、モーツァルトの「悔悟するダヴィデ」を聞いています。デジタル・コンサートホールにて。そうか、この曲知っていると思ったら、ハ短調ミサ曲だったのですね。

あと2日。急げヤマト!

Miscellaneous

いまさらADSL、気になる夜間帯の速さはいかほどでしょうか。

平均13Mbps出ていますね。WiMAX時代より速くなりました。嬉しい限り。

もう少し追い込めば、もっと出てくれるかも、という期待。現時点では、まあ満足です。

二年間お世話になったWiMAXはいったん卒業します。次のWiMAX規格に期待します。お疲れ様でした。