小説を読む時間 8日目 強制労働のイメージ

今日も村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」を読みました。

【ネタバレ注意】

 

第三部の最終においては皮剥ぎボリスの話が出てきます。この強制労働のイメージ、炭鉱の描写が鮮烈で、あまりにショックです。

先日も書いたように、私は小説において現実と小説世界の境が分からなくなることがあります。今置かれている状況とこの強制収容所のシーンがあまりに密接に絡み合っているような気がしています。

この強制収容所のイメージは、おそらくは人間にとっては普遍的なイメージなのだと思います。

人間は誰しも何か閉じ込められているという状況なのではないか。そこから飛び出そうとしてもなかなか飛び出せないと言うイメージは人間にとって普遍的なものではないだろうか、と。

それは、家庭に閉じ込められているでもいいし、とある地方に閉じ込められているでもいいし、会社に閉じ込められているでもいいし、あるいは国に閉じ込められているでもいいし、地球に閉じ込められている、ということでも良いのです。おそらくは人間の普遍的な要求としての「解放」と言うものがここに現れているのではないかと思うのです。

それにしても、本当に胃が痛くなる気分の悪さを味わっています。それは、別に村上春樹の文学が悪いわけではありません。それほど深く共感してしまったということです。それほどに強い文学、ということなんだと思います。(疲れ切った身体には応えます…)それは、先日も書いたように、辻邦生の文学を読んで、そこにある理性の明るさがあまりに眩しくて目が潰れてしまう気持ちを味わったのと似ています。

おそらくは、辻邦生と村上春樹は逆の方向を向いています。しかしながらそれはぐるっと回って同じところでつながっている気がします。真実を語っていると言う意味において。

もう少しで「ねじまき鳥クロニクル」を読み終えます。次は何を読むか。あるいは、ブログに書くのは続くのか?

みなさまも、ゆっくりお休みください。おやすみなさい。グーテナハトです。

小説を読む時間 7日目 通奏低音

今日はほとんど小説を読む時間が取れません。ただ、そうはいっても5分ぐらいは読んでみようかなあ、と思い、手に取りました。

引き続き村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」です。

て、運命に関する記述があり、とても驚いたのです。しかも、通奏低音と言う言葉とともに。

運命の力は普段は通奏低音のように静かに、単調に彼の人生の光景の縁を彩るだけだった。

昨日、私がは「通奏低音のように何か運命性のようなもの」と書きましたので、その偶然に少し驚いたのです。

村上春樹は、音楽音楽を愛好していますので、そうしたメタファーを使うのは自然だと思います。私もジャズもクラシックも大好きですので、このような偶然があっておかしくはないと思います。先日も書いたように、こうした村上春樹の間口の広さが、多くの人に受け入れられる理由であるように思います。

明日からまた仕事です。休む間もありません。せめて早く寝て明日に備えます。

それでは皆様、おやすみなさい。

小説を読む時間 6日目 小説に描かれる超自然的なこと

今日も、少しだけ小説を読んでみました。

村上春樹です。今日は週末ですので自宅におりましたので、電車に乗っているわけでもなく、別に小説を読む時間があるわけでもないのですが、まあ、せっかくなので少しは読んでみようかなあと思い、5分ほど時間を見つけて読んでみた次第です。

それで、村上春樹を語るほど村上春樹を読んでいるわけではありませんが、それでも何か語りたくなるような欲求を抑えないわけにはいきません。

今日、私があらためて感じたのは、物語の中にまるで通奏低音のように何か運命性のようなものが流れていることを感じる。それもほとんど超自然的な運命性です。

辻邦生においてもやはり超自然的な運命の出会いであるとか、あるいは幻覚や天変地異あるいは天文学的な現象等によって、運命性を感じさせる場面があります。例えば、背教者ユリアヌスでは、ローマの神々がユリアヌスの前に姿を現し、ユリアヌスに様々な示唆を与えます。

村上春樹においてはそれを超えるような超自然的運命的な事柄が描かれているわけです。「ねじまき鳥クロニクル」では、ノモンハン事件、満州国、井戸と言ったキーワードで、場所や時間を超えたつながりが描かれていると思います(もちろん、まだ読み終わっていないので全貌がわかっているわけではありません)。

私は、昔から思うのですが、小説においては、普通では説明のつかない、現実を超えた、あるいは科学では説明できない超自然的現象が、何かしら語られていることが多いように思います。

小説の起源が、おそらくは古代において口伝えで伝えられた神話であるということからして、あるいは、18世紀以降の小説が未知の世界を伝えるメディアだったということからして、小説が自分の理解や知識を超える何かを伝えるものだとすれば、小説が超自然的なことを伝えることに関して何の不思議もなく、むしろその本質の1つなのではないかと思います。

などと言いつつ夜も更けてきました。そろそろ眠りについて、明日に備えないと。

それではみなさまおやすみなさい。グーテナハトです。

小説を読む時間 5日目

今週月曜日から始まった小説を読む時間。今日で5日目になります。今日も引き続き、「ねじまき鳥」を読んでいます。

村上春樹の小説は間口が広く、だれもが何か共感できるチャンネルを持っているのが強みだと思います。歴史、音楽、政治、芸能…。この間口の広さが、普遍性の秘密なのだなあ、と。これはやはり「騎士団殺し」でも感じたことです。プロットはあるような無いような。しかしながら、伏線と謎が縦横に張り巡らされているように感じられ(もしかすると、それは、伏線があるかのように読者が受け取るように仕組まれたものとも思えますが)、ページをめくる手が止まらないわけです。

ただ、ときに、その手が止まることもあるのは何故なのか。もしかすると、この特異すぎる世界観を理解することは精神的な負担が強い、ということではないか、と。現実世界で生きているなかで、村上春樹の文学世界はあまりに苛烈に真実で、心が焼き切れてしまいそうなのです。

それは、辻邦生を読むときにも感じることです。あまりに現実と離れた理想の世界を見たときに、感じる脂汗をかくような疲れにも似たものです。おそらくは、真実は、現実にとっては都合が悪いことなんでしょう。だから脂汗をかいてしまうということなのかもしれない、と思いました。

今日の東京地方はとても良い天気でした。朝の雲1つない空は筆舌に尽くしがたいものでした。明日も明後日も良い天気。そしてそれ以降は梅雨が来そうです。皆様もよい週末をください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

小説を読む時間

今週から、仕事場からの帰宅時間は、小説を読む時間と決めてみました。

おかげで、「背教者ユリアヌス」を読み終え、村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」を再開しました。ずいぶん中断していましたが、不思議にも違和感なくどんどん入り込んでいます。
思えば、辻邦生ひとすじでこれまで生きてきました。永井路子、岡本かの子、塩野七生などを読む機会がありましたが、それ以外の小説を読む機会はありませんでした。外国だと、プルースト、アニタ・ブルックナー。あるいは、SF。ハインラインやアシモフ。振り返りきれていないかもしれないですが、記憶の地平の上にあるのはそうしたものです。

こうして、振り返ると、あまりにも小説を読んでいないと思われるということと、文学でいうと女性作家が多いということに気づきます。理由は特にないはずですし、あったとしても後付けの理由のはずです。

で、村上春樹も、ほとんど読めていません。ただ「騎士団長殺し」や「色彩のない多崎つくると 彼の巡礼の年」はリアルタイムに読んでいます。予約して買いましたし。本を予約して買うワクワク感は半端ないです。

いずれにせよ、帰宅時間で小説を読む、という習慣が長く続けられるよう、頑張りますし、実際長く続けられることを願っています。

それではみなさま、おやすみなさい。

先日読んだエルELLEについて

先日読んだ、エル、という本。早川文庫から今年刊行され、映画化もされています。

エル ELLE (ハヤカワ文庫NV)
早川書房 (2017-07-15)
売り上げランキング: 113,105

個人主義フランスならではの話かなあ、なんてことを思いました。

話の中身は大人向けでしたが、サスペンスの結末としては、うまくいってまして、最後まで面白く読み続けました。展開がとても早く、そのプロトコル(通信手段、あるいは波長を合わせると言う意味において)に慣れるのに少し時間がかかりましたが、慣れてからは物語世界に取り込まれてしまった感覚があります。

ヒューマニズムという言葉がありますが、フランスにおける、あるいはこの本で描かれるフランスにおける、個人主義が個人の尊厳をそこに含まれる何かしらの善人ぶるようなニュアンスはなく、徹底的で戦闘的なヒューマニズムがあるなあ、と思ったりしました。

愛するということについていえば、個人主義を徹底した結果としての不倫関係があったとしても、あるいは極度の個人主義の結果として一人で生きることを選択したとしても、切れることのないのが親子関係であり、それはけっして清算できるようなものではないからこそ、個人主義とは相容れないものを受容する必然性が厳然としてある、ということにも気付かされました。

親子の愛情と男女の愛情の違い。いや、愛情ではなく愛憎とでも言い換えるべきかと思いますが。

筋書きをかけないまま、抽象的に書くしかないのですが、なにかそういうことを思いながら読みました。おすすめです。

一ヶ月ちかくかかっていた風邪がようやく収まってきました。寒い日が続いていますので、みなさまも暖かくして体調にはお気をつけください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

騎士団長な日々

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編
村上 春樹 新潮社 (2017-02-24)
売り上げランキング: 1
騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編
村上 春樹 新潮社 (2017-02-24)
売り上げランキング: 2

引き続き騎士団長な日々。思った以上に面白く、また示唆に富んでいて、本当に面白いです。

村上春樹が多くの受容者を得るのは、村上作品にある間口の広さなのではないか、という気がしています。音楽、絵画、文学、ミステリー、大衆性、経済、歴史、古典といった様々な要素が盛り込まれていて、詠み手に何かしらの共感を得られるようになっている、ということなのかも、と思います。その間口の広さは、単に広いだけではなく、深いもののように思えるということもあるのだと思いました。やはり、村上春樹の古い読み手にはなかなか叶わなさそう、と思います。

今日は、やはりこちらを聴き通しました。ショルティらしい推進力や爆発力がある《ばらの騎士》でした。

Der Rosenkavalier
Der Rosenkavalier
posted with amazlet at 17.02.28
Decca Import (2008-02-04) 売り上げランキング: 2,444

しかし、考えることたくさん。どうすればいいんだろうか、と。ただ進むだけですけれど。

というわけで、今日は短く、おやすみなさい。グーテナハトです。

「騎士団長殺し」におけるショルティ《ばらの騎士》

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編
村上 春樹 新潮社 (2017-02-24)
売り上げランキング: 1
騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編
村上 春樹
新潮社 (2017-02-24)
売り上げランキング: 2

日本の大方の村上春樹ファンはすでに読み終わっているはずの「騎士団長殺し」。

私はなかなか読む時間が持てませんので、少しずつ読んでいる感じです。どうも、小説は読むのが遅くなりがちです。飛ばし読みができませんので。小説ではない新書などはざっと読んで、大事なこところを頭に入れる、という感じなのですが。

で、少しずつ物語は進みますが、《ばらの騎士》が出てきたのは面白かったです。ショルティ盤を聴く場面が出てきて、あのCDですか、と思う次第。

Der Rosenkavalier
Der Rosenkavalier
posted with amazlet at 17.02.27
Decca Import (2008-02-04) 売り上げランキング: 1,408

本文中では、カラヤンか、エーリッヒ・クライバー(単に、クライバーと書かないところが、オペラをよく知っておられることを物語っているのですが)が好みですが、聞いてみましょう、ということにっていました。カラヤンは、2枚あるうちのどっちかな、と思ってみたり。

ともかく、このショルティ盤の《ばらの騎士》を聞きながら、作品中で、登場人物たちが同じ音源を聴いているのを想像してみたりすると面白いです。聞きなおすと、ショルティ盤もなかなかいけている感じがします。村上春樹もこの盤を聞きながら書いていたのかも、と想像したり。

ちなみに、この作品に登場するオペラや日本画、いずれも2002年ごろから個人的に興味を持ち始めたテーマですし、以前少しばかり物語の舞台の小田原近辺にも縁があったりしましたので、なんだか読みながら、親近感を覚えながら読んでいます。誰しも、作品には親近感を覚えるものですので、それはそれで特別なものではないのかもしれませんけれど。何か複雑な気分です。こう言う文学もあるのだなあ、ととても親近感を覚えます。

ちなみに、「騎士団長」とは、《ドン・ジョヴァンニ》に出てくる騎士団長から来ていました。そう言った指摘はすでに題名発表の直後に鋭い方は予想されていたようです。確かに「騎士団長」という言葉には突拍子も無いのですが、個人的にはそんなに違和感を覚えることもなく、という感じでした。それもまた親近感なのかも、と。まあ、親近感などというと手練れな村上春樹ファンに怒られそうです。

今日はそろそろ眠らなければ。明日もまたいろいろありそうな1日な予感。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

騎士団長の件

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編
村上 春樹 新潮社 (2017-02-24)
売り上げランキング: 1

こちら、今日発売ということで、生まれて初めて本を予約するということをやって見ました。お昼に受け取り。帰りの電車で読み始めましたが、うーむ、なんだか面白いんだよなあ。まだ最初しか読んでいませんけれど。
物語の時間構成をうまく見せているので、ぐいっと引っ張り込まれるわけです。で、やはり絵画とか音楽とか、興味ある人にとっては、垂涎のネタがいくつも散りばめられていて、うなってしまうわけです。さすがだなあ、と思います。最近小説に置ける語りのパースペクティブに興味があるのですが、これは、回想しながら語るというもので、手前味噌で恐縮ですが辻邦生でいうと「風越峠にて」のような時間の扱いがあって、なるほどなあ、と思いながら読んでいます。
しかし、主人公がやっている、プッチーニの《トゥーランドット》と《ボエーム》をタンノイでひたすら聴く、とか、羨ましいな生活。
今日は取り急ぎ。おやすみなさい。グーテナハトです。

小説で語るということ

春の戴冠
春の戴冠
posted with amazlet at 17.01.31
辻 邦生 新潮社
売り上げランキング: 320,334

最近「春の戴冠」を読んで改めて思ったのですが、辻文学は語り手が、物語を語るという構造がよくあるなあ、ということ。「春の戴冠」はフィレンツェの盛りを回想する老人。「安土往還期」は織田信長を間近に見るイタリアの船乗り。「西行花伝」は師匠の西行を慕う弟子、「夏の砦」は冬子と知り合った男。他に何があったか。まだあるはず。

この「語り手が語る」、という構造は、物語世界へのリアリティを増すものです。物語を真実と信じる語り手が語ることで、物語に真実性が付加された形で、読み手に物語が伝わってきます。自分が見たものより、人がそうだと言ったことの方が信用されやすいです。語り手が真剣に語ることを読み手はどんどん信じていく、という構造です。

高校生の頃、この構造は夢幻能に似ている、と思ったことがありました。夢幻能は、シテが語る物語を、ワキが聞くわけで、ワキはシテの物語を真実と信じて聞いているわけで、ワキが信じる様子を観客が見てリアリティを感じる、という構造だったはずです。うろ覚えだったので、少し調べましたが、多分あっているかと。

小説は、おそらくは識覚に訴えることのない概念的な表現方法ですので、読み手を没入させるためのテクニックが必要なはずで、その一つが語り手の介在なんだろうなあ、と、高校生の頃に思ったのでした。

いろいろなパースペクティブのタイプが小説にはありますが、この語り手の存在は、いわゆる原初の口伝で物語が伝えられた、太古の物語の形式なんだろうなあ、と思います。そういえば、「小説への序章」で、そう言った口伝物語の話が出てきたなあ、ということも思い出しました。

そんなことを思いつつ、いよいよ1月も終わりますね。1月は先日も少し触れましたが、新しいことをいろいろやりました。2月は2月で、これまた思った以上にいろいろありそうです。まあ、新しい事は楽しい事。今まで通りの事は(個人的には)新鮮味がありませんので、新しい事にどんどん踏み出そうと思います。

それではみなさま、おやすみなさい。