Book,Japanese Literature,Tsuji Kunio

城・ある告別―辻邦生初期短篇集 (講談社文芸文庫)
辻 邦生
講談社
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この文庫ですが、講談社からの出版です。講談社からの辻邦生の出版本はほとんどありません。この「城・ある告別」、それから「黄金の時刻の滴り」、安土往還記の英訳版 “The Signore"です。

2003年に出版されたこの文庫は、辻邦生初期短編のうち重要なものが網羅されており、今でも持ち歩いてよく読んでいます。「ある告別」「サラマンカの手帖から」「見知らぬ町にて」などは、どれも素晴らしい初期短編だと思います。

今回は「西欧の光の下で」という短篇。非常に短いものですが、重要なテーマが収められています。パリに留学したのだが、パリの形式的で冷たい風情に辟易していた主人公が、ある日、夕日に染まるパリをみて、西欧の光を感じた、という内容。ストーリではなく、おそらくはエッセイに近い短篇です。

この夕日に染まるパリを見る場面は、ある種の至高体験のようなものです。辻邦生の至高体験は3つあることはなんどかここでも取り上げています。パルテノン体験、リルケの薔薇体験、ポン・デ・ザール体験です。これは「言葉の箱」においても取り上げられているのが有名です。(別のエッセイでも取り上げられていたはず)。

ですが、この西欧の光を感じた至高体験は、それを遡るもののようです。ここで感じた、西欧文明が現実と戦った結果として、秩序において生きている、ということの源流を探るために、ギリシアに旅立つ、というのですから。

ここでの体験の結果のモノローグは以下のとおりです。

お前が、どのような動機であれ、よそに、すでに出来上がったものを求めにいったのは、間違ったことだった。精神が、他の精神にふれうるのは、それが生みだしたものを通して、いかにそれが現実と闘い、そのなかから自らの糧を汲みだしたかに注意するときだけだ。

この現実と闘い、という「現実」こそが、辻文学の主人公たちが戦っていたものなのだなあ、と思います。例えば、あの俵屋宗達が「この世は全て背理である」といったときの「この世」こそが、ここでいう「現実」なのだろうなあ、と思います。

参考情報。22年前に買った中公文庫の辻邦生全短篇1です。「西欧の光の下で」はこちらにも当然所収されています。

写真 1 - 2015-01-07

このように、壊れてしまいました。分厚い本で無理して装丁したのでしょうから、何度も読めば仕方ないですね。この本を受験帰りの新幹線東京駅ホームで読んでいたのを思い出しました。幸福な読書の記憶です。

写真 2 - 2015-01-07

ではグーテナハトです。

Literature

ボルヘスの「伝奇集」。このなかから「バベルの図書館」を読みました。

吐き気というかめまいというか。

無限の図書館に収められた知識の集合ですか。もう気が遠くなる悪夢の世界です。

もっとも、これは悪夢の世界ではなく現実の世界なのですが。大量に増幅拡散する多様な情報と価値観が統御不能になったイメージ。

このブログもそうした膨張する情報の一つなわけで心苦しさもありますが、もはやそれをまとめるものなどなく、エントロピーが大きくなるように、世界は崩壊していく。もっとも、その崩壊は人間にとってであって、全体認識が可能な主体=神のようなものがあるとすれば、それも統御された法則の中名のかもしれない、などと。

現代は「バベルの図書館」はネット上に展開しています。パブリックなものもあればプライベート(とされている)ものもあります。だれも全貌は掴み得ない。それでいいのですが、想像すらできないそうした情報は、おそらくはGoogleが機械的に整理しているのでしょうが、ヒタヒタと水位を上げ、いつか氾濫する大河のような不気味さをたたえています。

そうした過程を冷徹にとらえているものと、と読んでしまいました。

我が家の本も統御不能かも、などと。なんとかしないと。。

それでは、みなさまおやすみなさい。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

岡本かの子って、凄いです。

仏教人生読本
仏教人生読本

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(2014-06-11)

こちら、著作権切れで無料でKindle版が配布されている岡本かの子の「仏教人生読本」まだ読み始めですが、なかなかわかりやすいです。岡本かの子が苦しんだ末に辿り着いた境地だからと思います。

憂鬱のときは、兎に角笑ってみましょう。笑えなくとも勇気を出して笑ってみましょう。
形に心はついて来ます。笑って、笑って、笑ううちに、笑いについて憂鬱がとけて来ます。一種の生理的作用でもあります。

昔も今も変わらないです。

もっとも、実際には誰が書いたものなのか。。

この仏教人生読本はちくま文庫の全集には入っていないようです。中公文庫で出版されたものが青空文庫に収録されたようです。

岡本かの子は、本当に奔放な人生を送った方です。自分の夫、子どもと、自分の愛人と5人で一緒に暮らしたりと、通常の常識を逸脱した生活のようです。まあなにか通常なのか、という問題は有りますが。そうした苦しみのなかで仏教に傾倒したそうです。

とにかく、文章が緊密で、よく磨かれ光り輝いています。短歌をながく歌っていたからでしょうかね。短い文章を繊細に書くことができるからこそ、長編が緊密になるということでしょうか。前から書いていますが結構好きで、短篇はずいぶん読みました。すでに著作権切れていますので、青空文庫で読めます。ただ、長編は未読。まだ到達していないですね。。

今日の一枚

今日の一枚。今日も聴いてしまったレイフ・ヴォーン=ウィリアムズ。ゆったりと時間を書けて聴きたいですが、そんな時間はあるわけもなく。とにかくイングランドってこういう感じではないか、という真実在がここにあるように思います。もしかするとそういうイングランドは実際にはないのかもしれません。ただ、曲としては現前としています。これはこれで一つのイングランド。実際のイングランドと異なっていてもいいのでしょう。

イギリスと書けないのは、最近のスコットランド独立の話題があったから。でも、イギリスって結局イングランドを日本語読みしただけだから、意味ないですね。。イギリスではなく、ブリティッシュとか、ブリテンとか言うべきなんですかね、などと。

Vaughan Williams: THE COMPLETE SYMPHONIES
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風邪ひきました。急に寒くなって体温調整が全く出来ておりません。。薬飲んで寝ます。みなさまに「体に起きをつけて」と申していましたが、結局私ができておりませんでした。。

ではグーテナハトです。

Japanese Literature

今日も東京地方は涼しい一日だったようです。一日中仕事場に居ました。今年の東京地方は残暑がないですね。日本全国同じでしょうか。ようやくセミの声も聞こえなくなってきた用に思います。

先日、モンマルトル日記の一節を書きました。小説家など芸術家が思う生と死が一つのテーマだと思いましたが、岡本かの子の「鶴は病みき」のワンシーンを思い出しました。

「鶴は病みき」は、芥川龍之介がモデルの麻川という文士と主人公が対話する小説で、10年以上前に読みました。ただ鮮明に覚えているのは、生死の問題でした。

麻川=芥川は、「たった一つ残す自分の仕事によって、死後の自分と、現在との聯絡はとれるものだと思ってますな」というのですが、葉子=岡本かの子は「死後に全々消失する個性的な自己というものに、なんの関係もありはしない……あると思うのは、あとのこの世に残った人達の観察に過ぎないんでしょう……」とかなり即物的なことを言います。で、麻川=芥川は、ずいぶん寂しいことをいいますね、と半ば呆れながら、葉子=岡本かの子と皮肉合戦を繰り広げるというシーン。

そんなことを思い出しました。芸術家というのは、おそらくは自分の生きた痕跡を残したいのだと思いますが、それは誰しもあることなんですが。ですが、冷静に考えると岡本かの子の言うとおりなんですよね。死後の自分を語ることはできない。語りえぬものを語ってはならない。

それにしても、いま少しばかり目を通した「鶴は病みき」。怖ろしい小説です。ほとんど実話なのだと思いますが、これが本来的な日本文学なのでしょう。

それではおやすみなさい。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

文章を書くというのは、ワープロを打っても同じですけれども、自分の体のなかからリズムになって、文章のかたちで出てくるというふうにしないといけない。そのためには絶えず書く。そして、書いたことに絶望したり、おれは駄目だと、そんななまやさしい、甘っちょろい考えを絶対起こしてはいけない。たった一回きりの人生をひたすら生きている。これは書く喜びで生きているのだから、だれにも文句は言わせない。だれかにこてんぱんにやられたって、全然平気。書く喜びがあれば耐えられる。

辻邦生「言葉の箱」
今日は命日ですね。15年目にあたります。新聞記事の切り抜きも時代を感じさせるぐらい変色してきてしまいました。
この文章は、「言葉の箱」という死後出版された講演録からの引用です。CWSという小説家を目指す方の講座があるのですが、そちらに講師として招かれてなんどか講演をされたようで、その模様がこの本に収められています。何度か紹介もしています。

言葉の箱―小説を書くということ (中公文庫)
辻 邦生
中央公論新社
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通常、辻先生の講演は、ご自分で書き直しをされてから出版されることが多いのですが、この本は書き直しがありませんので臨場感あります。特にこの最後の部分ですが、逆に言うと、こういうご苦労があった、というふうにもとれるわけです。どこかで読んだのですが、最晩年の頃、なかなかいろいろな場面で取り上げられず、辛い思いをされていたようです。たとえ、そうであっても「絶望」したり「オレは駄目だ」などというような「なまやさしい」「あまっちょろい」考えを起こしてはならない、という強い意志が現れているのだ、と思っています。
たった一回きりの人生を、諦めずに喜びにあふれたものにしないといけないですね。小説を書かない人間にとっても励まされるような気分になる言葉です。
ではグーテナハトです。

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小説への序章

「われわれの意識、われわれの認識、われわれの真理感覚が今日のような状況にあるとき、(外見を目的とするような)遊びがなお許され、まだ精神的に可能で、真剣に取り上げられるべきかどうか。自足的、調和的にまとまった作品そのものが、われわれの社会情勢の不安定さと問題性と不調和とに対して、なお何らかの正当な関係を有しているか」

辻邦生(1976)「小説への序章」河出文藝選書 245ページ
これも辻邦生「小説への序章」にかかれていた、悲痛なまでの芸術的真摯です。倫理と美学の相克に悩んだ辻邦生が昭和36年から昭和41年、つまり1961年から66年にかけて、書いていたことです。歳で言うと36歳から41歳にあたります。
芸術が、社会と如何に関わりを持ち続けるか。乖離してしまうことなく、あるいはあまりに接近することなく、正当に関係を持ち続けることができるか、ということです。
音楽や文学を「社会におけるデザートのようなもの」と評することもあるようです。なくても大丈夫、みたいな。ですが、そうとも一概にはいえないのだ、ということは直感的には分かるのですが、それを述べること自体に抵抗を覚える、あるいは、述べたところで屁理屈にしかならないのではないかというおそれを抱く、などなど難しい問題であるはず。エチカとエステティックの問題です。新カント学派なら「真善美は一致する。だからいいじゃない」というと思いますが。
この本、一昨日から引っ張り出してきて読んでいます。おそらくこれまで一読はしていますが、一読では済まない本だと思ってます。20世紀中盤までのの哲学状況を抑えておかないときちんと読むことができないわけで、ニーチェ、実存、ハイデガーなどが必要です。今となってはこの本で描かれる「現代思想」のあとがあるわけなんですが(構造主義など)、当時の空気を想像しながら読むと楽しいものです。
中身は、楽しいなんて行っていられないぐらいスリリングなんですけどね。
疲労困憊です。暑い一日でした。いつもは昼休みには散歩に出かけますが今日はそれどころではありませんでした。一日中会社にこもってました。
最近眼があまりに疲れます。メガネ屋に行ったら、「老眼ですよ。度を下げましょう」と言われますし。それも恐縮したような感じで言われるもんだから、余計に腹立たしいことこの上ありません。
というか、眼を使いすぎ。スマホで兵器で30分ぐらいはKindle読んでますので、眼が悪くなるに決まっているのです。老眼というより眼精疲労かな、とも思います。そろそろ生活を変えたいものです。
ではグーテナハトです。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

昨日の続き。考えるうちに、ブログで語りきるのは難仕事だと思いましたが、すこしあがいてみます。

歴史小説論 歴史小説創作ノート (辻邦生歴史小説集成 第12巻)
辻 邦生
岩波書店
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世界を全体的に描くためには、世界のなかに身をおきながら世界を超越しなければならない、とも言います。世界を一つのモデルとして把握する透徹した認識量が必要というわけです。
そうした世界を描くために、外から眺めてそれを叙述するのは、どこまでいっても帰納法的なアプローチしかできません。「嵯峨野明月記」で、全てのものを描こうとしながら命を落とす画家が登場しました。狩野光徳という名前でした。世の中を表現するためにそうした方法をとったのです。ですが、もちろんそんなことはできるわけはないのです。世界のすべてを描くということは、有限な存在の人間にはどだい無理なのですから。
この辺りの議論はかなり難しいのですが、「小説への序章」でも同じようなことが言われていました。
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プルーストやトーマス・マンを取り上げて、物語主体が全体世界を把捉できる可能性を論じているのです。物語主体は常に過去形で物語るわけで、それはすなわち、終末から全体を見遣る主体であり、全体を把捉できるのである、という議論でした。それが、無限拡散する現実を克服し、全体像を恢復する手段である、ということなのです。
私は、これは西田幾多郎の純粋経験のようなものと捉えています。私の理解では、刹那の経験の中に豊かな世界が含まれているのが西田幾多郎の純粋経験だったはず。たしか「善の研究」では統一力というような書かれ方をしているはずです。
物語の中において、個々の要素を描くことが、全体把捉につながるという考え方で、それが小説=物語形式が、世界認識あるいは世界表現の様式として有効なのである、という議論です。
まったくもって科学的な方法でも論理的な方法でもありませんが、そもそも小説は科学でも論理でもないはず。ですが、この個々の要素と全体のつなぎが、辻先生の言う「透徹とした認識力」というもので、書き手が持つ何かしらの能力、ということになるのだと思います。
長くなりすいません。グーテナハトです。

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歴史小説論 歴史小説創作ノート (辻邦生歴史小説集成 第12巻)
辻 邦生
岩波書店
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辻邦生歴史小説集成の最終巻には、背教者ユリアヌスの手書きノートがそのまま掲載されています。これは、まるで、辻邦生作品集の最終巻に「夏の砦」の初稿が載せられているのに似ています。辻文学の生成はこうしたあらすじにも似たプロットが書かれるなかで作り込まれていったものだということが理解できます。なかなか読むにわは一苦労ですが、辻先生の頭の中を覗きこんでいる感覚になります。
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また、小説についての重要な考え方が示されていました。芸術の表現形式として、小説が相応しい理由は、ひとえに「柔軟な感性の力があって初めて現代が直覚的に掴める」からです。抽象性と同時に感覚性のある言語による表現形式でなければ、現代をつかめない、というわけです。抽象的な思想にも、映画、絵画、音楽など感覚的な表現でも、やはり限界があるというわけです。
これは最近も思うところで、やはり、小説などの物語形式で思ったことのほうが、説明文を読むよりも体で覚える事ができると思います。私の人生は「嵯峨野明月記」で変わりましたが、あの「世の中は背理であり、哄笑するしかない」という境地を若いころに腹でグッと感じました。これ、他の人にどう言われようと、納得出来ない境地なはずです。卑近な例ですが、現代をつかむには、私も小説のような物語であるべきと思います。作家と同じ体験を読者ができる可能性を秘めた表現形式なのですから、もしかすると一番伝わりやすいのかもしれません。人間は論理だけでもないですし、感情だけでもありません。
明日も少し続きます。もう一つ小説についての重要な考えがあるのです。
ではグーテナハトです。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

辻先生が戦時中に疎開をしていたのが、湯河原の吉浜です。
先日も少し触れましたが、10年ほど前、小田原近辺の事業所に勤めていたことがあります。その職場でご一緒した先輩が湯河原の吉浜に住んでいました。その先輩のお父上のご葬儀に参列したことがあります。葬儀の会場のお寺ですが、私はあのお寺は、「夏の海の色」に出てくる宿舎ではないか、と、思っています。
小田原で会社の飲み会があったあと、その先輩を家に送り届けるために(飲酒していない)別の先輩が運転する車で、夜中に小田原から湯河原まで車で走りました。夜の相模湾は黒々とうねっていて、その黒光りするうねりに真っ白な満月の光が反射したのをみたのです。あまりの神々しさ、あるいはあまりの崇高さに声が出なかったのを覚えています。その風景がどうしても「夏の海の色」の世界にみえるのです。

そうした夜、寝床から這い出して窓から外を覗くと、月が暗い海上に上っていて、波が銀色に輝き、本堂の裏手の松林の影が、黒く月光のなかに浮び上がるのが見えた。

これが辻先生が「夏の海の色」で書かれた文章です。おそらくは同じ風景を見ておられたのではないか、と勝手に想像しています。
あらすじはこちらをどうぞ。もう少し詳しく考察が書いてあります。満月が海に反射するということは、南側が海だということだから、太平洋側に違いない、といったところです。
<夏の海の色:■赤い場所からの挿話 IX>「夏の海の色」
私が吉浜に行ったことがあるということで、なにか奇縁だな、などと思ってしまう我田引水ぶりに苦笑しております。。
今日のノンアルコールな一日でした。体重はもっとも太っていたころから比べると6キロ近く減りました。うれしいのですが、あまりの減りぶりにすこし不安でもあります。。
それではグーテナハトです。

Japanese Literature,Tsuji Kunio

私の辻文学コレクション(?)は、大学受験で東京に行った時に飛躍的に増えました。
たとえば、神保町の三省堂書店に「樹の声海の声」が全巻揃っているのには狂喜しましたね。
神田水道橋の古書店というのも上京したての若者だった私には本当に刺激的でした。紙袋に辻先生の本を満載して街を歩いていましたので、友人にずいぶん面白がられました。
大学時代は高田馬場に住んでいました。それも明治通りと早稲田通りが交差するあたりです。5分ほどあるくと、早稲田の古本街に行きつく、今から思えばほんとうに恵まれたところに住んでいたことになります。
引っ越して来て早速古本街にでかけました。一番明治通りに近いところにあるのが平野書店さんでした。2年ほど前に行った時も健在でした。平野書店さんは国文学系が充実しています。もちろん辻作品もたくさん置かれていました。当時、それまで見たことのない辻作品が入り口近くの書棚にたくさんあって、ここでも狂喜しました。
まず速攻で買ったのが「パリの手記」全巻でした。店を見ておられるのは少し年配の女性でしたが、(数年前に行ったときもまだお元気そうで仕事をしておられましたが)、「そういえば、この前も辻邦生を買いにいらした方がいましたよ」と教えてくれました。今から思えば営業トークなんでしょうけれど。
平野書店さんの古本は全部パラフィン紙で包装されていますので、下手な新刊本より綺麗に残っています。
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つうか、別のものもたくさん写りましたね。。
※ なんと、5日間アルコールをとりませんでした。奇跡です。このまま奇跡が日常となるように頑張ります。
ではグーテナハトです。