Literature,Tsuji Kunio

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うーん、やっぱり辻邦生は素敵だ。

大河小説「春の戴冠」の中の一節です。

 

「時は去りて帰らず、言祝げよ、このよき時を」
全集138ページ

 

この大河物語のヒロインであるシモネッタが、ヴェスプッチ家へ嫁いだ婚礼の場面で、仮面をかぶったロレンツォ・メディチが歌う歌詞です。

現代日本において、こんな言葉を持ち出すなんて、ほんとうにきれい事なんでしょうけれど、それを忘れてしまったらおしまいだと思いました。

辻邦生が亡くなったときに、盟友の菅野昭正がこう言ったのを思い出しました。

その小説があまりに理想主義的だという人があるとすれば、それは日本の文学に理想主義が薄弱すぎるからである。
(日経新聞 1999年7月31日)

しばしの夢を見た気がします。

明日からまた戦場へ。

Japanese Literature

相変わらずトスカを聴きつつ、新国の次の演目「セヴィリアの理髪師」を聴いたりしています。今週はちょっとしたお祝い事で飲み過ぎました。反省。

最近、読んでいる森有正の「バビロンの流れのほとりにて」。10年ほど前にちくま学芸文庫から出たのを読んでいたんですが、最近また読み始めました。通勤電車で読む森有正はメチャメチャ刺激的です。

1953年に書かれたもの。終戦後8年絶った頃。ということは、感覚としては2005年頃に戦争が終わって、という感じになりますね。そんなときに、パリに渡ってこの思索ですか。天才は凄まじい。

辻邦生の「パリの手記」は明らかにこの「バビロンの流れのほとりにて」を意識しているんだなあ、と思ったり。

読めば読むほど含蓄のある言葉に呻き戦きひれ伏すのでした。

仕事とはいったい誰のためにするのだろう? 仕事自体のため、と答える人もいるし、自分自身のため、という人もある。どちらも決して本当ではない。仕事は心をもって愛し尊敬する人に見せ、よろこんでもらうためだ。それ以外の理由は全部嘘だ 。
70ページ

ここでの「愛し」というのは、神への愛をさしているんですけれどね。ここまで喝破されると、笑うしかありません。あはははは。

巨大な経験の堆積であるヨーロッパ文明というものが、こういう人間経験の無限の循環過程、その複雑な発酵過程だということに思い至った時、僕は何ともいいようのない絶望感に襲われる。歴史とか、伝統とか、古典とかいう言葉の意味が、もう僕にはどうしようもない、内的な重味をもってあらわれてくる 。
152ページ

いや、森先生、あなたがそうおっしゃるのならば、私はどうすればいいのでしょうか、といいたくなります。

文学は真実をまざまざと現前させ、苦痛と快楽を喚起するという感じです

明日から幸いにも三連休。貯まった家での仕事をこなす予定。写真も撮りに行きたいなあ-、などと思っています。

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はじめに

辻邦生「ある告別」を久々に読みました。試験勉強もあって最近は実学の本しか読んでいませんでしたので、辻ワールドの甘美さに心打たれて、ショックが強すぎです。会社勤めには辛いです。

 

城・ある告別―辻邦生初期短篇集 (講談社文芸文庫)
辻 邦生
講談社
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この作品がちゃんと分かるようになったのは、おそらく30代になってからです。10代、20代のころは全く分かりませんでした。それは至極当然で、なぜなら、この作品のテーマのひとつが「喪われた若さと以下に訣別するか」だからです。

若さを喪わないとこの作品の価値が分からないというのは、私の想像力不足なんで、いまいちなんですけどね。

この作品の魅力

「若さと見事に訣別したものだけが、永遠の若さを造形することが出来る」

これがこの作品の中で示される最も大きなテーマのように思います。

これは歳を重ねようとも、若さの中に生き続けようとする処世術のようなものを感じると、すこし穿った見方になってしまいそうです。

そうではなくて、おそらくはこの作品は、辻邦生の文学宣言のひとつなのでしょう。

最後に綴られる以下の文章に、

「こんどは、彼女たちの映像にみちた世界への旅立ち」

という一節をみると、この「彼女たちの映像」というのが、文学世界において永遠の若さというイデアールな概念を体現していこうという、意気込みのように感じるのです。

ちなみに「映像」には傍点がふられていますので、何かしらの意味を見て取るのが普通だと思います。

辻文学全体における位置づけ

これは何度も書いているように辻邦生の原初体験というのが3つあるのですが、この作品に描かれるパルテノン神殿との邂逅がその1つめの原初体験に当たります。この邂逅において、辻邦生は「美が世界を支える」という直観に到達します。

ですが、個の作品においては、パルテノン神殿との邂逅については深く言及されることはありません。ただ「どうしてこんなものが地上にありうるのか。どうしてだろう。どうしてだろう」という一文があって、そのあとに、それが何かの啓示なのだろうが、何かは分からない、と書かれています。

個の作品の主人公はおそらくは辻邦生本人だと思いますので、素直に読めば、この時点では「美が世界を支える」という直観に到達せず、徐々に醸成されていったものだったといえるでしょう。

ただ、ここで手の内をすべて飽かすと、若さに関する主題が弱くなるので、あえて隠蔽しているともとれますが。

終わりに

最近、いわゆる小節をあまり読んでいませんでした。なんだか小節なんてあまりに浮世離れしている、とおもったからです。

ですが、時には立ち止まってみないとなあ、と思います。

また、辻邦生を読みはじめないとなあ、と思います。

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今年の目標。毎日辻邦生を少しでも読もうと決めました。
今日心にとまった一文を。

酒台にもたれて、ビールを前に話し合っている労働者や船員たち、それに時々話を差しはさむ店のふとった主人、テーブルで喋っている老嬢たち、新聞をひろげている独身の会社員、それに棚に並んだ細い壜や太い壜、磨かれたコップ、ミュージック・ボックス、鏡、仕切り扉などが、なぜかじつもとは違ったように感じられるんです。

夏の砦で、支倉冬子が肺炎で倒れる前に感じた外界との違和感を表現しようとしているところです。
こういう、たたみかけるような描写の連結、辻邦生の小説の中でよくあらわれる手法です。「パリの手記」などの日記ものでもよく出てくると思います。
読んでいると、欧州に旅行した若い頃の記憶がよみがえりました。日本ではちょっと見かけない風景です。労働者や船員達の会話に時々加わる店の主人のくだりとか、それに見向きもしないで、新聞を広げる会社員というのも、本当に良く分かります。
旅先でみた欧州の人々(ドイツ、イタリア、北欧界隈を想定)というのは、ともかく他人とよく喋る気がします。日本人よりも頻繁に。目が合えばニコリと笑うぐらいの洒脱さは誰もが持ち合わせている気がします。国民性の違いだなあ、といつも思います。
そういう、あちらで感じた驚きのようなものや安堵感を思い出させてくれて、懐かしい気持ちになりました。

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はじめに

辻邦生文学のこと。久々に。
読んでいないわけではありません。常に文庫本がカバンの中に忍ばせてあって、気が向いたときには読んでいます。
昔は、辻文学の甘美で雄々しいストーリーに惹かれていましたが、この数年は処世訓のようなものを見いだすことが多いです。本当にこの方の小説群は私にとって聖書と思えるぐらい大事だな、などと。

引用してみる

「ただ一回だけの<<生>>であることに目覚めた人だけが<<生>>について何かを語る権利を持つ。<<生>>がたとえどのように悲惨なものであろうとも、いや、かえってそのゆえに<<生>>を<<生>>にふさわしいものにすべく、彼らは、努めることが出来るに違いない」
これ、「ある告別」という作品の最終部に近いところ。今朝バスの中で読んで、少し引っかかったので。
作品の舞台は半世紀前のギリシアで、主人公が若い女性二人連れと知り合ったり、ギリシアの田舎で娘とであったり、パルテノン神殿で啓示を受けたりする、ストーリー性はあまりない作品です。これは、数ある短篇の中でも「城」や「見知らぬ町にて」と同系統のエッセイのような短篇小説です。

随想的短編群

辻作品を読み始めた大学生のころは、このストーリー性が希薄な短篇群がどうにも苦手でよく分かりませんでした。それよりも「背教者ユリアヌス」とか「安土往還記」のような歴史ドラマの方が面白くて仕方がありませんでしたので。
しかしながらこのストーリー性のない短篇群がいつごろからか、じわりじわりと私の中で水位を上げてきて、いつしかこういう作品にも深く感動するようになっていたようです。
この文庫にそうした短篇群が多く収められています。私がカバンに潜ませているのはこの文庫本です。
城・ある告別―辻邦生初期短篇集 (講談社文芸文庫)

生の一回性

生の一回性って、よく出てくるテーマですが、今の私が本当に体得できているかは不明。というのも、わかったつもりのことが、本当は今まで分かっていなくて、最近になってようやく体得した、ということが多いから。歳をとったのでしょう。良い意味で。だから、きっとこの「生の一回性」も、もうしばらくすると、大きな扉がギギギとあいて、別の認識体となって迫ってくるんだろうなあ。
最近思うのは、大事なことは身の回りにこそたくさんあると言うこと。そういうことを大事にするのが一回限りの人生を巧く過ごすためのこつではないかなあ、などなど。
今日は少々残業。久々にシャカタクを聴いて、その後「愛の妙薬」を聴いて。夜になるとずいぶん涼しいですが、迫り来る夏が怖い。冬将軍は居るけれど、夏将軍っていうのは聴いたことがない。

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永井路子「炎環」を読み終わりました。梶原景時、全成禅師、北条義時、北条時政たちが主人公。短編がいくつか集まって、源平合戦から鎌倉幕府草創期の混乱を描いた作品でした。小さいころは、やはり源平合戦にしか目が向きませんでしたが、実はそうした有名な史実を埋めるさまざまな人間の動きこそが面白いと感じるようになりました。
あとは、源実朝の出自が興味深い。父親は頼朝で、母親は北条政子。ですが、育ての親は頼朝の弟である全成禅師だということ。全成禅師は、都で仏門に入っており、教養深い人物でもあったようです。全成禅師の影響下にそだった実朝は、風雅な人物として描かれています。
実は、辻邦生の幻の作品に「浮船」というものがありました。構想だけに終わったようですが、「西行花伝」の続編的位置づけとして、実元を主人公として考えられていた作品だったとか。武家でありながら、芸術に打ち込むという人物が辻邦生の関心を引いたのはすごく首肯できます。きっと、西行やロレンツォ・メディチと重ね合わせていたのだと思います。そして、美に打ち込みながらも悲劇的な最期を遂げる実朝は、いわゆる「美と滅びの感覚」と称される辻文学の主人公としてあまりにふさわしいと思うのでした。

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永井路子「乱紋」完了。永井作品はやっぱりすばらしかった。
主人公は浅井三姉妹の末っ子であるおごう。おごうは、徳川秀忠の正室となり、徳川家光の生母となるけれど、そこにいたるまでの波乱とも言える半生を描いた作品。織豊政権から江戸幕府へいたる過渡期の様子は、小さいころから何度となく読んでいましたが、おごうの傍から見る視点というのはとても新鮮でした。
来年のNHK大河ドラマは、このおごうが主人公ですので、タイミング的にもよかったです。
それにしても、永井路子って素晴らしいなあ。この方の小説は、いわゆる客観的語り手がかなり全面に出てくるんですが、全然うざくないのです。自然に史的解説が述べられれて、ストーリーを阻害することがありません。解説付きでオペラを見ている気分です。
あとは、視点が独特。女性ならではというのもあるはず。多くの歴史は男性的視点で述べられますので。

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高橋克彦「炎立つ」の第三巻読了。この作品は、1993年の大河ドラマの原作となったものです。高橋克彦氏は、私が中学生のころから敬愛してやまない作家のお一人。中学生当時、NHKの歴史ドキュメンタリー番組に出ていらして、謎の仏像の出自を明らかにする氏のお姿がめっぽう格好良くて、こういう仕事に就ければいいなあ、と漠然と思っていたりしました。
それで、当時手に取った「竜の柩」は、歴史は歴史だけれど、オカルト的な歴史物語でして、そこで繰り広げられる古代史推理にも舌を巻いてしまったのでした。古代日本からメソポタミアにまで広がる古代史の謎。多感な中学生には相当な刺激でした。嘘と知りながらも、日本にキリストの墓があると言うことを信じたくなる本でした。いまでも10%ぐらい信じているかも(冗談です)。
かたや、この「炎立つ」では、そうしたオカルト的な部分は鳴りを潜め、正当な歴史小説として楽しむことができます。これまでの通常の史観だと、源氏は正義の味方で、東北を支配する安部氏が悪者である、というような偏ったものであるわけですが、「炎立つ」ではまったく逆の史観で、実に新鮮なのです。これを読むと、源頼義や源義家のほうが分が悪く読めてしまう。
前九年の役とか後三年の役で、源義家が並々ならぬ働きを見せたのが、後世に伝わって、義家こそ武士の誉れ高い英雄として大きな影響を残すことになるのですが、具体的な事績を小説上でなぞるのは実に興味深いです。
第三巻までは前九年の役が取り上げられ、安部氏では滅亡となりますが、第四巻では、安部と藤原経清の血を引く藤原清衡が奥州藤原氏として復権します。これが後三年の役。第五巻では源頼朝に撃ち滅ぼされるというこれまた悲劇。
大河ドラマでは、少ししか見られませんでした。でも、私の中では藤原経清は渡辺謙以外にあり得ません。安部頼時は絶対に里見浩太朗です。そして、どうしても源義家は佐藤浩市になってしまう。源頼義は絶対に佐藤慶。安部宗任は川野太郎で、安部貞任は絶対に村田雄浩で、そのほかは考えられない。映像の持つ力は恐ろしい。というか、絶妙なキャスティングだったのでしょうね。原作とは違うところが多いようですが、もう一度観てみたいものです。

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ふう。3日で読了。
これも、実に読み応えがありました。
「第三の男」を書いた手練れのグレアム・グリーンのスパイ小説は、単なるスパイ小説ではない。
だいたい、主人公のモーリスの妻が、南アフリカで知り合った元工作員の黒人女性であるということが、完全に定石を外した独創性。関係のないエピソードと思ったものが、最後に一カ所に集まって、ぱっと弾け散る様は実に見事でした。
これぐらい骨のある小説だと本当に唸ってしまいます。
スリリングな場面などないのですが、この方がよっぽどリアリティがあります。グリーンは、第二次大戦中に実際に情報機関に所属していたとのこと。官僚的、組織的、スノッブ……。そういうイギリス情報機関の雰囲気が濃厚に漂っていました。
次は高橋克彦氏。私はこの方も大好きなんですねえ。
最近は、アラベラ漬けです。あ、来週、新国のオペラトーク「アラベッラ」を聴いてきます。

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今日もつれづれ日記。
暑さの戻った関東。フラフラでした。西日本の方が厳しいと思いますけれど、あの頭痛は熱中症に違いありません。
佐伯泰英「居眠り磐音江戸双紙」、三巻まで読了しました。この本は、極上のエンターティメント小説の王道です。やはり、主人公は常勝の正義の味方ですし、江戸市中庶民の悲喜こもごもは、現代社会が投影されていて、他人事とは思えないぐらい。組織と個人の葛藤も描かれているあたりで、会社勤めにとっては合点のいくことばかりです。それから、構成も王道的です。短篇として完結した物語と、バックグラウンドの大きな物語の混交が、読み手を牽引しています。完成度も極めて高く疵が見あたらないです。もちろん、制作上上の都合で、史的事実と離れていることもあるのでしょうけれど、物語内で完結していれば、全く問題ありません。歴史書を読んでいるわけではありませんから。
えーっと、来週の木曜日(9月16日)に、第34巻が発売なのだそうです。マジですか。どうやったら、こんなに長く書けるのでしょうか。凄い持久力。
公式ホームページもあります。
“http://inemuriiwane.jp/":http://inemuriiwane.jp/
ドラマもちゃんと見たかったです。再放送しないかな。
次に読んでいるのは、グレアム・グリーン「ヒューマン・ファクター」。
今聴いているのは、ハイドンの交響曲第96番。NHK-FM「名曲のたのしみ」にて。100曲以上交響曲を書いたハイドンも凄いけれど、中原中也の友人だったという吉田秀和さんが、未だにパーソナリティを勤めているということも凄いこと。少なくとも私が小学校の頃にはこの番組やっていたからなあ。