Classical,Richard Strauss

ロリン・マゼールの演奏を始めて聴いたのは、彼が1980年代後半にマーラーの交響曲第八番を振った演奏をNHK-FMで録音したときでした。オケがどこだったか。クリスタ・ルートヴィヒとか、クルト・リゲルとか、ベルント・ヴァイケルが歌っていたような。少年合唱はテルツ少年合唱団だったかと。

当時の私は中学生でしたが、この演奏を聴いてマーラーの熱狂的信者となり、なかでもこの8番を教典のごとく毎晩毎晩聞き込んでいたのでした。

それで、マゼールは凄い、と思い込んで、同じくマーラーの交響曲第五番を聴いたのですが、これは全く理解できませんでした。曲自体が難しくて、中学生時代の私には理解できなかったのかも。ですが、歳をとってきいたラトル盤では感動しましたので、やっぱり当時の私としてはマゼール盤との相性は良くなかったという感じでしょうか。

それで、昨日、私は禁じられた聖域に入ってしまったのですよ。つまり、新宿のタワレコの9階ゾーンに。物欲を駆り立てる危険なゾーンで、シュトラウスはたんまり、ハイティンクもたんまり、私は気狂いを起こしました。

それで、あれよ、とかごに放り込んだのが、マゼールのシュトラウス管弦楽集的なボックスセットで、4枚で3000円ぐらい。ちと高め。

早速、家庭交響曲を聴きましたが、すげー、こんな解釈ありなんだ、的な驚きの連続でした。家庭交響曲と言えば、私はケンペ盤とプレヴィン盤を聴いただけでしたが、彼らの演奏とは全く違うアプローチ。

twitterにも書いたのですが、まずはテンポが気宇壮大でして、これはもう家庭交響曲ではなく宇宙交響曲である、といえましょうか。Symphonia Domestica がSymphonia Cosmologia的な状況。それで、さらに、これはもうマーラーですよ。マーラーの八番で、マーラーはアルマへの愛をファウスト最終幕を借りて歌い上げたわけですが、マゼール盤では、シュトラウスが、パウリーネへ壮大な宇宙愛を説いて聴かせているように聞こえます。

私は、シュトラウスには、シニカルな感じとか、ユーモア精神などを感じるわけでして、たとえばツァラトゥストラなんていうのは、壮大なニーチェへの当てつけである、なんていう話しを聴くと、確かにそうかも、と思ってしまうのです。ばらの騎士に埋め込まれた、たくさんの諧謔精神は、ばらの騎士の高雅な世界をもう一方から支えていますし。

で、マゼールの家庭交響曲には、そうしたシニカルなユーモア精神が影を潜め、シリアスな愛情告白というべきものになっているのです。

これはもうBGM的に聴くことを許さない生真面目な演奏になってしまいまして、気が休まるどころか、アドレナリン全開状態でして、疲れて帰宅する通勤電車で、3回目を聴こうと思ったのですが、さすがに聴けませんでした。

私は、ちょっとマゼールを見直しました。アマゾンのレビューでは酷評されているし、ウィーンのシュターツオーパーは2年で追い出され、ベルリンフィルのシェフの座をアバドに奪われたりと、少年時代の神童ぶりにしては不遇な晩年のようなのですが、まあ、私としてはこの演奏で、実に神聖な家庭交響曲を聴くことが出来ましたので大変満足しています。

しかし、アマゾンのレビューは辛辣だな。私は逆に凄い演奏だと思ったのですけれど。