Alban Berg,Chamber

最近本が読めなくなったということを書いたことがあったでしょうか。7月、8月と私は30冊近く読んだのですが、9月中旬頃から読めなくなってきました。とある人には、本を読めるだけの余裕がなくなってきたからじゃない? と言われましたが、確かにそうかもしれないです。仕事やらなんやらでちょっとばたばたしていますので。

というか、おそらくは11月は怒濤のような一ヶ月になる見込み。まあ、ヴォツェックとカプリッチョをみるのも大変な事件ですが、仕事的には、大きな案件を二つ抱えて、細かい案件を二つ三つ、それに突発的インシデントが三つほど。くわえて、組織の社内教育担当に任命されていて、難しい調整をいくかこなさないとならない。まあ、このご時世で忙しいというのはある意味ありがたいことでもあります。

さて、こんなどんよりした一日にぴったりなのがアルバン・ベルクでしょう。何ヶ月ぶりかに聴く「抒情組曲」は最高! もちろん演奏はアルバン・ベルク弦楽四重奏団という正統派であります。以前に何度も書いていますが、私はアルバン・ベルクの人生そのものに強い興味を覚え続けていまして、もし時間ができたら色々と調査したり研究したい、と思っています。定年後の手すさびになるかもしれませんが。ハンナ・フックスとの不倫愛とか、どうしてマノン・グロピウスのためのレクイエム的ヴァイオリン協奏曲を書いたのか、とか、虫さされで死ぬという今で考えればある意味不気味な最期とか。 時間はなくても、せめてモティーフだけでも維持できるように努力しないといけませんね。これもがんばります。

当の抒情組曲は、昨年の秋冬にひたすら聞き込んでいまして、結構記憶の中に残っていますので、聴いていて心地よささえ感じます。私は、「カプリッチョ」の透徹とした美しさも好きですが、「抒情組曲」のような、ある意味一般的で感情的な用語においては、美しいとは評価されないであろう、こうした曲も大好きです。まあ、私は美学も音楽学もさぼっていますのであまり難しいことはかけませんが、美というものの定義付けは現代においては実に複雑で困難な仕事になるようですので、このあたりでとめるしかありません。

しかし、何故、僕が「抒情組曲」を好むのか、自分なりに反省してみてもいいのかもしれません。 一般的には不協和音とされるであろう激しい弦楽器のぶつかり合いとか、一度聴いても覚えられないですし、鼻歌混じりに髭をそることもできないほど複雑な旋律群。それらが四方八方から飛びかかってくるのを一つ上のレベルから眺めている感じ。これが僕がこの曲を聴くときに感じているものらしいです。抽象画をみるときに感じるスリルと同じといえましょうか。