テオリン様ブラーヴァ──新国立劇場「トリスタンとイゾルデ」 その2

引き続き「トリスタンとイゾルデ」。
全三幕ありますが、それぞれの幕にお気に入りの場があります。月並みながら、第一幕なら杯を飲み終わった後。第三幕ならイゾルデの愛の詩。第二幕ならマルケ王のモノローグ。そしてなにより私がもっとも感動するのは第二幕第二場でしょう。
夜の狩猟が罠とは知らずに、あるいは罠と知っていても、それを顧慮することを放棄せしめるほどに強い愛情がゆえ、トリスタンとイゾルデは背徳の逢瀬を敢行してしまう。ブランゲーネの進言をも讒言として取り合わないぐらいに。それほど盲目的な強い愛情の力は引き合う磁力よりも何よりも強い。
この逢瀬は夜にだけ許されるもの。昼においては、トリスタンは廷臣としての勤めを果たし、イゾルデは貞淑な妻を演じるのだが、本当の彼らになれるのは夜だけなのだった。
トリスタンがここで執拗なまでに昼と夜についての考察を歌い上げるのだが、そこには真の自分を求めるがゆえに昼の世界を侵害するという背徳感が同衾していて、この背徳感は、直接聴いているものの胸の中に直接入り込んでくることになる。
というのも、人間にはだれしもこうした背徳感を感じる経験があるはずで、もちろん下敷きになっているのはヴァーグナーの個人的経験なのだが、それをも普遍化し美の高みへと押し上げることで、トリスタンとイゾルデの逢瀬は普遍的客観的な理念へと昇華する。
テオリンとグールドの歌う、イゾルデとトリスタンは、ただただひたすら、難解にも思える愛情とうつせみの関係について語り合っている。圧倒的なパワーで。それだけで涙が溢れ、体は嗚咽に波打ち、頬に熱く涙が伝わる。
それで、僕は、どうやら、このとき、とある事態に相対していたと言うことに、ついさっき気がついたのでした。どうやら、これは辻邦生がよく語っている「至高経験」に似たものだったようで、もちろん、こういうたぐいの体験は、証明したり十全に説明できることではないわけですから、ここで語ることが出来るのかどうか。
だが、これは決定的な体験だったのではないか、と思うのです。
とりあえず、メモはとったので、詳しくは明日書けるはず。。。
日本中でタイガーマスクな日々が続いている今日この頃。まだ捨てたものではないですね。