この世のことは、すべてが、道理に背き、何一つとして、納得ゆく正しい道すじのものはないのだ。お前さんはそれを不正として憤怒し、憎悪し、呪詛した。だが、この世が背理であると気づいたとき、そのとき生まれるのは憎悪ではなく、笑いなのだ。(中略)この世の背理に気づいたものは、その背理を受け容れるのだ。そしてそのうえで、それを笑うのだ。(中略)それは哄笑なのだ。高らかな笑いなのだ。生命が真に自分を自覚したときの笑いなのだ。
辻邦生『嵯峨野明月記』中公文庫、1990、413頁
いつぞや、この一節を読んで、私は生まれ変わりましたが、今日、それに関連する辻邦生の言葉を見つけました。
私が戯曲を書く場合、つねに喜劇になってしまうのは、世智辛い世の中に、なんとか一晩でもいいから毒のない朗らかな笑いを笑って貰いたいと考えるからだ。喜劇の本道はシラーの言うように「人間の背理を笑う高みに立つ」ことだし……(略)
辻邦生『<笑い>について』「時刻の中の肖像」新潮社、1991、201頁
二つの引用には、少し位相がずれる面があるように思えますが、どうやらこの「背理を笑い飛ばす」という芸術と現実の関係性についての考察には、シラーが源流にあるのかもしれない、と気づいたのでした。
このところ、この「世界は背理である」というテーゼの中にだけ生きている気がします。そして、毎日のように笑っています。これはいつもの皮肉ではありません。本当に笑いながら仕事をしているのです。