群生相──新国立劇場の「ピーター・グライムス」が感動的な件  その2

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私の愛する新国立劇場。片思いですけれど。建築的にも大好きです。

昨日に続き、ピーター・グライムスが感動的だった件の第二回目です。

デッカーの演出について

非常にシンプルな舞台構成でした。八百屋舞台になっていて、遠近感のあるボックス構造の舞台装置を使って、テーブルや椅子を配置することで、酒場、教会、ピーターの部屋を作り出していまにテーブルや椅子を出して舞台を作っていく格好でした。

舞台装置としては新鮮さはあまりありませんでしたが、物語と音楽との緊密さは抜群で、効果的な様々な所作や仕掛けが素晴らしかったと思います。

演出の話とストーリーの話が混ざりますが、考えたことをいくつか書いてみます。

集団の動物的で残忍な性質

この物語のテーマは、集団の残忍であまりに動物的な性質と、個の対立と言って良いと思います。それは相当に古く根深いものでしょう。

トノサマバッタは、普通は緑色をしていますが、大量発生をすると茶色に変色し、その能力も変化します。これを「群生相」と言い、肉食性が強まり、気が荒く攻撃的になります。

どうやら人間も同じようです。

一人一人は善人でも、寄り集まると、残酷になって異質なものを追い出そうとするわけです。

これは、生物であればいずれも同じです。あるいは、生物の細胞レベルでやっていることと同じ。

だとすれば、これは動物的であって人間的ではないのかも。

人間性の本質が理性にあるとすれば、の話です。

こうした、集団がもつ動物性は、今回の演出の随所に現れていた気がします。

証拠がなく、思い込みから、ピーター・グライムスを糾弾し、裁判で無罪となりながらも、ピーター・グライムスが殺人を犯したと思い、証拠なく糾弾を始めたり、集団の中に入りきれないエレンをにらみつけたり。。

あるいは、酒場の騒ぎでは、人々は鶏や豚などの動物の仮面をかぶっているシーンも。すこしありがちですが、効果的でした。

いつもは真っ黒な洋服を着ている村の女性達が、真っ赤なドレスに着替えてダンスに興じるという趣向でした。

日頃は抑圧している自らの野生の欲望は、赦されれば集団の中において奔放に解放されるということなのでしょう。

一人一人は「弱い」けれど、集団になると強く残忍です。デモの破壊行為や、戦争の残酷さがそれを物語っている気がします。

 

さて、もう少し書きたいことがあるのです。下書きはあるのでまた明日。

 

今日も、サー・コリン・デイヴィス盤を聞き返しているんですが、感動がよみがえってきます。ここだけの話、ブリテン自身の盤より好きかもしれません。。

ではまた明日。